朝香宮鳩彦王


前頁 「 究 [究竟覺院]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[鳩彦]

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鳩彦王 やすひこ
 朝香宮 あさかのみや
 
【出自】
 
朝彦親王[久邇宮]の八男。
 
【生母】
 角田須賀子
 角田スガ
 知恩院宮諸大夫從五位下加賀守角田俊コの四女。
九條家諸大夫
 從三位朝山義連───鶴子
           │  知恩院宮諸大夫
           ├───從五位下加賀守角田俊コ
鷹司家諸大夫     │     │
 從四位上兵部權大輔高橋俊彦   │
 (從三位高橋俊壽の子)     ├────角田須賀子
                 │
三寶院宮侍            │
 從六位上阿波介甲村長基─────敏子
 慶應二年(一八六六)十二月生。
 
【經歴】
明治二十年(一八八七)十月二日十二時、生誕。
『明治天皇紀』
鳩彦王
明治二十年(一八八七)十月九日、命名屆出。
明治二十七年(一八九四)三月、學習院初等科に入學。
「木戸幸一(【振假名】きどこういち)氏との対話」(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄編『華族 明治百年の側面史』(東京、北洋社、一九七八年四月。初刊、講談社、一九六八年四月)一二三〜一九〇頁)一三四頁
 木戸 ・・・・・ ところが学習院では、ピンからキリまで華族なんだから、華族なんて意識は、ぼくら、ほとんどなかった。ネ。
 A 一歩外へ出ると、社会から特別にみられるということですね。
 木戸 そうそう。学習院に帰ってくると、何ということはない。・・・・・ これは華族でなく宮様の方の例になるけども、たとえばK宮【閑院宮】の若宮【春仁王】なんかは、お身体が弱かったもんですから、士官学校に入る前には小田原で教育をされていた。これが非常にわるかったですね。校長はじめ、まわりが、いやが上にも宮様にまつり上げちまった。そこのAという校長が山口県の人で、ぼくはよく話を聞いていたんだが、これがもう、こうやって持ち上げちまうんだね。だからツーンとすまして、もう、どうにもなりやしない。そこへゆくと、東久迩さんさん【稔彦王】とか朝香さん【鳩彦王】とか、学習院でやっておられた方は、もうみんなにモミクチャにされとったから(笑)、ちっとも、そんな意識はないんだナ。
明治三十三年(一九〇〇)七月十五日、學習院初等科を卒業。
明治三十三年(一九〇〇)七月、學習院中等科に入學。
明治三十四年(一九〇一)八月、學習院中等科を退學。
明治三十四年(一九〇一)九月一日、東京地方幼年學校に入學。
明治三十七年(一九〇四)七月十日、東京地方幼年學校を卒業。
明治三十七年(一九〇四)九月一日、陸軍中央幼年學校に入學。
鳩彦王[朝香宮]
明治三十九年(一九〇六)三月三十一日(三十日)、「朝香(あさか)宮」の稱號を賜わり、朝香宮家を創設。賄料を下賜される。二十歳。
『官報』明治三十九年三月三十一日/告示
『明治天皇紀』
「朝香」の稱號は、父 朝彦親王が祭主であった伊勢~宮が所在した伊勢國の歌枕である朝香山にちなむ。
明治三十九年(一九〇六)五月三十日、陸軍中央幼年學校を卒業。
明治三十九年(一九〇六)六月五日、近衞歩兵第二聯隊に配屬。
明治三十九年(一九〇六)十二月一日、陸軍士官學校に入學。
明治四十年(一九〇七)十一月三日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
『明治天皇紀』
明治四十一年(一九〇八)五月七日、陸軍士官學校を卒業(第二十期)。
『明治天皇紀』
明治四十一年(一九〇八)十二月二十五日、陸軍歩兵少尉に任じられ、近衞歩兵第二聯隊附に補される。
高輪西臺町邸に轉居。
『明治天皇紀』
明治四十三年(一九一〇)四月二十九日、允子内親王(明治天皇の八女)との結婚の儀が勅許される。
『明治天皇紀』
明治四十三年(一九一〇)五月六日、允子内親王と結婚。
『明治天皇紀』
明治四十三年(一九一〇)十二月二十五日、陸軍歩兵中尉に任じられる。
明治四十四年(一九一一)十二月十二日、陸軍大學校に入校する。
大正二年(一九一三)八月三十一日、陸軍歩兵大尉に任じられ、近衞歩兵第二聯隊中隊長に補される。
大正三年(一九一四)十一月二十七日、陸軍大學校を卒業。
大正三年(一九一四)十二月四日、歩兵第六十一聯隊中隊長に補される。
大正四年(一九一五)十二月二十二日、本職を免じられ、近衞歩兵第三聯隊附を仰せ付けられる。
大正五年(一九一六)十一月二十三日、近衞歩兵第三聯隊附を免じられ、參謀本部附を仰せ付けられる。
大正六年(一九一七)十月三十一日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
大正七年(一九一八)七月二十四日、陸軍歩兵少佐に任じられ、參謀本部附を免じられ、歩兵第一聯隊大隊長に補される。
大正九年(一九二〇)一月二十一日、本職を免じられ、陸軍大學校附を仰せ付けられる。
大正十一年(一九二二)八月十五日、陸軍歩兵中佐に任じられる。
大正十一年(一九二二)十月三十日、「御見學」のため、「朝伯」の假名で渡佛。
大正十二年(一九二三)四月一日、パリ郊外にて、成久王[北白川宮]の運轉する自動車に同乘中、自動車事故により、手足に重傷を負う(成久王は即死)。
『宣仁親王日記』大正十二年四月三日火曜
北白川宮御自身御運轉ニナリ七十五哩位デハシツ[テ]ヰラシテ他ノ自動車ヲカハシソコナツテ並木ニブツカツタラシイ。運轉臺ノ仝宮ト運轉手ハ即死、客席ノ妃殿下【房子内親王】ト朝香宮【鳩彦王】、(佛人御用掛)ハ重傷(負傷)ヲシテ妃殿下【允子内親王】ハ御傷コトニ重イ由。
大正十四年(一九二五)八月七日、陸軍歩兵大佐に任じられる。
大正十四年(一九二五)十二月十一日、妃と共に歸朝。
『宣仁親王日記』大正十五年一月四日月曜
5−30 p.m. 竹田宮へゆく。朝香宮は鎌倉なので、その他のお叔母さまと會食。・・・・・
朝香宮【鳩彦王】がとても西洋くさくなつたことなど話題に上る。
大正十五年(一九二六)六月三日、陸軍大學校附を免じられ、陸軍大學校兵學ヘ官に補される。
昭和三年(一九二八)十一月十日、大禮記念章を授與される。
昭和四年(一九二九)十二月十日、陸軍少將に任じられる。
昭和六年(一九三一)十二月二十四日、帝都復興記念章を授與される(昭和五年(一九三〇)十二月五日付)。
『官報』第一四九九號 昭和六年十二月二十八日 敍任及辭令
◎昭和六年十二月二十四日
      陸軍歩兵大尉大勲位 雍仁親王
        海軍大尉大勲位 宣仁親王
     陸軍大將大勲位功二級 載仁親王
     海軍大將大勲位功四級 博恭王
        海軍少佐大勲位 博義王
        海軍少佐勲一等 武彦王
      陸軍騎兵大尉勲一等 恒憲王
        海軍大尉勲一等 朝融王
            勲一等 邦英王
(各通) 陸軍大將大勲位功四級 守正王
        ~宮祭主大勲位 多嘉王
        陸軍少將大勲位 鳩彦王
        同       稔彦王
                永久王
      陸軍騎兵少尉勲一等 恒コ王
      陸軍騎兵中尉勲一等 春仁王
      陸軍歩兵少佐大勲位 李王垠
      陸軍騎兵少尉勲一等 李鍵公
            大勲位 李堈
昭和五年勅令第百四十八號ノ旨ニ依リ帝都
復興記念章ヲ授與セラル(五年十二/月五日 賞勲局)
昭和七年(一九三二)二月二十九日、歩兵第一旅團長に補される。
昭和八年(一九三三)八月一日、陸軍中將に任じられ、近衞師團長に補される。
昭和十年(一九三五)十二月二日、近衞師團長を免じられ、軍事參議官に補される。
『官報』第二六七六號 昭和十年十二月三日 敍任及辭令
           陸軍中將大勲位 鳩彦王
           同       稔彦王
    補軍事參議官
           ・・・・・
    (各通)   近衞師團長陸軍中將 鳩彦王
           第四師團長陸軍中將 稔彦王
    免本職
『官報』第二六七六號 昭和十年十二月三日 宮廷録事
◎親補式 昨二日午後一時三十分親補式ヲ
行ハセラレ陸軍中將鳩彦王海軍大將末次信
正陸軍大將西義一ヲ軍事參議官ニ・・・・・
・・・・・補セラレタリ
昭和十二年(一九三七)十二月二日、上海派遣軍司令官に補される。
昭和十三年(一九三八)三月十四日、軍事參議官に補される。
『官報』第三三五七號 昭和十三年三月十五日 敍任及辭令
◎昭和十三年三月十四日
      陸軍中將大勲位 鳩彦王
補軍事參議官
昭和九年(一九三四)四月二十九日附で、昭和六年乃至九年事變の功により金杯一組を賜わり、昭和六年乃至九年事變從軍記章を授與される。
昭和十四年(一九三九)八月一日、陸軍大將に任じられる。
『官報』第三七七二號 昭和十四年八月二日 敍任及辭令
◎昭和十四年八月一日
        故正四位下 二條 爲冬
贈從三位
        陸軍中將大勲位 鳩彦王
(各通)    同       稔彦王
任陸軍大將
昭和十五年(一九四〇)八月十五日、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
昭和十五年(一九四〇)四月二十九日附で、支那事變に於ける功により、功一級に敍され、金鵄勲章並びに金一萬一千五百圓を下賜され、支那事變從軍記章を授與される。
『官報』第四五七〇號 昭和十七年四月七日 宮廷録事
◎勲章親授式 本月四日午後二時勲章親授
式ヲ行ハセラレ元帥陸軍大將載仁親王元帥
海軍大將博恭王兩殿下ニ功一級金鵄勲章ヲ
元帥陸軍大將守正王殿下ニ大勲位菊花章頚
飾ヲ陸軍大章鳩彦王同稔彦王兩殿下 ・・・・・
・・・・・ ニ功一級金鵄勲章
ヲ授ケラレタリ
昭和二十年(一九四五)八月十七日、南京へ出發し、支那派遣軍に終戰の勅命を傳え、二十日、復命。
『入江相政日記』昭和二十年八月十六日(木)
朝、鳩彦王、恒徳王、春仁王をお召し。
『宣仁親王日記』昭和二十年八月十六日(木)上欄
竹田宮【恒コ王】、朝香宮【鳩彦王】、閑院宮【春仁王】ニ現地軍ニ思召ヲ傳フベキ御命令アリ。明日出發予定。
『入江相政日記』昭和二十年八月二十日(月)
十時鳩彦王、恒徳王御差遣先より歸られての復命、正午近くまでかゝる。
昭和二十年(一九四五)十一月三十日、待命を仰せ付けられる。
昭和二十年(一九四五)十二月一日、豫備役を仰せ付けられる。
昭和二十年(一九四五)十二月六日、應~天皇陵以下、大阪府下の十六陵に差遣され。同月九日、歸京。
昭和二十一年(一九四六)六月十四日、勅令第三一九號陸軍武官官等表等が廢止される。
朝香鳩彦
昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十一條の規定により、皇族の身分を離れる
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示 「宮内府告示第十五号」
 博明王、光子女王、章子女王、武彦
王、恒憲王、朝融王、守正王、鳩彦王、
稔彦王、故成久王妃房子内親王、道久
王、肇子女王、恒コ王及び春仁王各殿
下は、皇室典範第十一條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
昭和五十六年(一九八一)四月十二日、歿。九十三歳。
 
【配偶】
 ○
允子内親王 のぶこ
 鳩彦王妃
 明治天皇の八女。
 
【子女】
紀久子女王のち鍋島紀久子
孚彦王のち朝香孚彦
正彦王のち音羽正彦
湛子女王のち大給湛子
 
【逸事等】
成久王[北白川宮]は、鳩彦王のことを、「何事にも平生御自分の心事を率直に御発言なさる御性癖あり」と評している。
『牧野伸顯日記』大正十年八月四日
皇室會議において、しばしば質問を行った。
『宣仁親王日記』大正十五年一月二十一日木曜
關屋次官【關屋貞三郎。宮内次官】より皇族會議では成るたけ云はない方がよいだらう。年長の方が云ふ方がよいからとの事。別に云ふつもりもなかつたのだから、差支へないこと。大谷が來た時に形式ばつかりだねと云つたから、發言でもすると思つたか知ら。意見にしても、その場で説明すると、それつきりになつちまう樣なものは云はない方がよいとの事。私には當り前のこと。又朝香宮【鳩彦王】でも何にか云へば面白いが。
『宣仁親王日記』大正十五年一月二十七日水曜
10−30 皇族會議。11−30 まで。朝香宮【鳩彦王】出問なさる、例によりてか。但し愚問なり。
「皇族親睦會」等では酒を飲むと酔払っては見苦しい樣を呈した。
『宣仁親王日記』昭和十年一月一日
 午後一時すぎ、秩父宮【雍仁親王】へ御年賀に上りしところ御留守にて少時まつ。御歸りあり。今澄宮【崇仁親王】のところにて朝香【鳩彦王】・東久邇【稔彦王】・竹田【恒コ王】・北白川【永久王】各宮皆さまにて散々およひになり、私【宣仁親王】のところへいらつしつたとのことに、他家をまはるのをやめて、御祝をいたゞくのもソコ々々に歸る。
 朝香樣【鳩彦王】シタヽカに御酒まはり「私は獨りモノダ」とて散々オナキ出シニナリ、東さん【稔彦王】がまたツラレてボロ々々泣き出すサワギ。やつとおかへしす。
 何んでも宮城より秩父さん・澄宮と連續でトテモオ酒が入つたらしかつた。コンナのも珍しいお正月なり。
『宣仁親王日記』昭和十年一月三日
夜は秩父宮【雍仁親王】始め、おぢ樣・おば樣・皆樣をお招きしてさわ樣【佐和子女王】のオワカレの宴をする。アサカ樣【鳩彦王】にまたナカレテハと警戒しつゝお酒を皆相當上る。・・・・・
『入江相政日記』昭和十一年十二月二十三日(水)
十一時から皇族の拜賀、皇太子殿下第三回の御誕辰である。この時の朝香【鳩彦王】、特に東久邇さん【稔彦王】の態度等は實に問題にならない。反省すべきである。
『梨本伊都子日記』昭和十六年十一月四日
二・二六事件における鳩彦王の態度について、昭和天皇は「朝香宮は大義名分は仰せになるが、尖鋭化して居られて宜しくない」と述べている。
『木戸日記』昭和十一年二月二十八日
昭和十九年(一九四四)七月、東條英機首相の參謀總長兼任を罷免すべく、宣仁親王[高松宮]、稔彦王[東久邇宮]と策動した。
『近衛文麿日記』昭和十九年七月八日午前十時三十分「内大臣官邸に木戸内府を往訪」(『近衛日記』五〇頁)
 又、内府【木戸幸一】は皇族が動かるることに就ても、必ずしも反對しおらず、現に内府自から「朝香宮殿下の旨を受けしと覺しき本庄大將が來訪し、高松、東久邇、朝香三殿下が 陛下に拜謁して統帥權(註、東條首相の參謀總長兼任を罷免する事)に就て上奏せられることとなるかも知れぬがどうだろう、という話であったから、贊成して置いたが、未だ實現しないようだ。君も、どの殿下でもよいから促進して置いてもらいたい」と、予【近衛文麿】に依頼したる程なり。
『近衛文麿日記』昭和十九年七月十五日夜「中川良長男來訪」(『近衛日記』七六〜七七頁)
 中川男は賀陽宮殿下のお使として來れるなり。以下、賀陽宮殿下の御言葉。
 來る十七日、朝香【鳩彦王】、東久邇【稔彦王】兩宮殿下、軍事參議官の資格で統帥部の強化に就て上奏せられることになっている。その主たる内容は、伏見元帥宮殿下【博恭王】を陸海兩軍の統帥となさせられんことを願うというにある。(註、前記三殿下【宣仁親王・稔彦王・鳩彦王】上奏の事【統帥權の確立。即ち、東條英機首相の參謀總長兼任の罷免】が、かく發展したるものとみゆ)
大東亞戰爭においては、「強硬な主戰論者」・「最も強硬論者」であり、本土決戰に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主張した。
『昭和天皇獨白録』「小磯内閣」
朝香宮は最后迄強硬な主戰論者であつた。
『木戸幸一日記』昭和二十年三月三日
十二時半、御召により朝香宮に伺候、拜謁す。統帥一元化の必要につき熱心に御力説ありたり。
一時四十五分より二時半迄、御文庫にて拜謁、朝香宮の御説等につき言上す。
『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」
 [昭和二十年八月]十二日、皇族の參集を求め私【昭和天皇】の意見を述べて大體贊成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和には贊成だが、國體護持が出來なければ、戰爭を繼續するか[と]質問したから、私は勿論だと答へた。
 賀陽宮【恒憲王】、東久邇宮【稔彦王】、久邇宮【朝融王】は終始一貫、弱い意見であつたが、賀陽宮は松平恒雄を排斥したり白鳥敏夫や徳富猪一郎を推薦したりする樣な時には、本人自身の氣持と違つた事を口にした。
 秩父宮は日獨同盟は主張したが、その后病氣となつたので意見は判らぬ。
 高松宮はいつでも當局者の意見には餘り贊成せられず、周圍の同年輩の者や、出入の者の意見に左右され、日獨同盟以來、戰爭を謳歌し乍ら、東條内閣では戰爭防止の意見となり、其后は海軍の意見に從はれた。開戰后は悲觀論で、陸軍に對する反感が強かつた。
 東久邇宮と朝香宮【鳩彦王】とは兄弟であり乍ら、終始反對の意見を持つてゐた。
野口實『山本五十六再考』(中央公論社(中公文庫)、一九九六年四月。『天皇・伏見宮と日本海軍』(文藝春秋社、一九八八年二月)の改題)三五三〜三五四頁。
 
工事中 【上海派遣軍司令官としての鳩彦王】
昭和十二年(一九三七)十二月七日、着任。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月六日
朝香宮軍司令官殿下ニハ軍艦「朝汐」ニテ本日午後二・三〇頃上海御着七日軍司令部御着任ト決定セリ。
・・・・・
殿下ハ昨日午後三・〇〇上海御着ノ旨ノ電報ヲ一一・〇〇見ル。
・・・・・
軍司令官殿下ハイヨイヨ明七日午後四・〇〇頃御着ノ電報アリ。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月七日
殿下ノ御着ハ午後四・〇〇頃(午前九・〇〇上海發)ト定ル。
・・・・・
午後四・〇〇殿下御着。3D【第三師團】、11D長モ伺候。司令部員ニ御訓示。御訓示ニ「聖旨ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス」旨入レヨトノ仰セ。誠ニ畏シ。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月八日
殿下ヨリ、意圖シテ軍隊ヲ動カササルコト、假令方面軍ヨリ何ト言ハルヽトモ後ニ戦史的ニ見テ正當ト判斷セラルル如ク行動スルコトヲ申渡サル。例ヘハ南京攻撃ノ統制線ノ如キ墨守スルニ及ハス、追撃ハ必ス揚子江ノ線ニ向テ爲ササルヘカラサルカ如シ。右第一課長ニ傳フ。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月九日
本朝殿下ヨリ殿下カ皇太后陛下ヨリ下賜セラレタル眞綿チヨツキヲ賜ハル。感泣ノ外ナシ。
幕僚一同、皇太后陛下下賜ノ御菓子ヲ分タル。
・・・・・
塚田少將一行來部。南京入城(攻略)法ニ就テ、方面軍ニテハ勸降状トカ統制入城トカ平時的氣分濃厚ナル爲、軍司令官殿下ノ御氣ニ入ラス。
殿下ノ御意圖トシテ海軍ニ夜間ノ南京付近支那船ノ爆撃要求(通信ノ關係上間ニ合ハサルヘシ)及16Dノ有力ナル部隊ヲ以テ下關ノ退路遮斷を處置ス。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月十日
9Dノ南京城門ニ日章旗ヲ樹タル御喜ヒヲ殿下ニ申上ケ思ハス感泣ス。・・・・・
殿下ノ御思召ニ依リ各師團、天谷支隊、内山旅團ニ皇太后陛下ヨリ頂カレタル御菓子ヲ賜ハル。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月十四日
三・〇〇頃佐々木支隊ノ一中隊ハ南京東北方ニ於テ約二万ヲ捕虜トセリト。又別ニ四列側面縱隊ニテ長径八キロメトルニ亙ル捕虜ヲ南京城北側ニ向ヒ護送シアルヲ飛行機ニテ視認セリトノ報告アリ。
方面軍參謀長ヨリ電話ニテ、十七日入城式ヲ爲ス考ニテ掃蕩セラレタキ希望アリシモ、當軍トシテハ、殿下ノ御意圖ニ依リ、無理ヲセサル如ク掃蕩中ニテ、現況ニテハ十七日ハ不可能ナル旨、返答セリ。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月十五日
・・・・・ 方面軍參謀長來部ノ話シ。
以上ノ件及方面軍カ入城式ヲ十七日ト主張シアリ。 軍トシテハ早クモ十八日ヲ希望ノ旨申上ク。
殿下ハ入城式ニ就テハ無理ヲセヌコト、外国人ニ對シ入城式ノ日時ヲ知ラセサルコト、防空ヲ十分ニスヘキコトヲ注意セラル。
・・・・・
山田支隊ノ俘虜東部上元門附近ニ一萬五、六千アリ。 尚増加ノ見込ト。依テ取リ敢ヘス16Dニ接收セシム。
四・〇〇頃松井方面軍司令官湯水鎭着。殿下ニ代リ報告ニ行ク。此時入城式ハ十七日ニ決定サレタ旨聞ク。
・・・・・
長參謀長16Dと連絡シタ結果、同師團ニテハ掃蕩ノ關係上、入城式ハ二十日以後ニセラレタキ申出アリト、重ネテ方面軍ニ事情ヲ説明セシム(・・・・・)。尚一〇・三〇過方面軍參謀長ヲ訪ヒ話シタルモ頑トシテ變更ノ意思ナシ。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月十六日
午後一・〇〇出發。入城式場ヲ一通リ巡視。三・三〇頃歸ル。多少懸念モアリ。長中佐ノ歸來報告ニ依ルモ16D參謀長【歩兵大佐 中澤三夫24期】ハ責任ヲ持チ得ストマテ言ヒ居ル由ナルモ、既ニ命令セラレ再三上申スルモ聽カレス。且斷乎トシテ參加ヲ拒絶スル程トモ考ヘラレサルヲ以テ、結局要心シツツ御伴スルコトニ決ス。
夜複殿下ニ召サレ今迄ノ死傷者ノ調査ヲ命セラレタル以外ハ所謂雜談ニ時ヲ過ス。毎度光榮ニ感スルノミナラス常ニ多クノヘ訓ヲ受ク。
・・・・・ 長中佐夜再ヒ來リ。16Dハ掃蕩ニ困惑シアリ。3Dヲモ掃蕩ニ使用シ南京附近ヲ徹底的ニヤル必要アリト建言ス。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月十七日
松田海軍參謀ノ報告。十一戰隊(近藤少將【海軍少將 近藤英次カ海兵36】)ハ十三日其大部ヲ以テ南京下流ニ到着、敵ノ筏ニ依テ退却スル者約一萬ヲ撃滅ス。・・・・・
・・・・・
午後一・三〇ヨリ入城式。・・・・・
夕食ニハ殿下ノ台臨ヲ仰キ祝盃ヲ擧ク。其最後ニ殿下ノ御思召ニ依リ、戰沒將士ノ英靈ニ黙祷ヲ捧ク。・・・・・
今日迄判明セルトコロニ依レバ、南京附近ニ在リシ敵ハ約二〇コ師一〇萬人ニシテ、派遣軍各師團ノ撃滅シタル數ハ約五萬、海軍及第十軍ノ撃滅シタル數約三萬、約二萬ハ散亂シタルモノ如キモ今後尚撃滅數増加ノ見込。・・・・・
本夜方面軍ニテ行フ參謀長會議ノ件承知ス。其主旨ハ、兼テ幕僚間ニテ聞キタルトコロニ依レハ宣傳謀略乃至宣撫工作ニ關スル件ニテ統帥ニ觸ルヽ如キコトハ師團參謀長ヲモ同時ニ集ムル會議ニテハ行ハストノコトナリシモ通牒ニハ明カニ「今後ノ作戰ニ關シ」トアリ、又明日ノ慰靈祭直前、方面軍司令官ヨリ軍司令官及師團長ニ訓示アリト。之レニ對スル態度ハ明朝殿下ニ申上ケタル後決定スヘシ。
夕刻祝宴ノ際ニ於ケル殿下ノ御發意ニ依リ、上海派遣軍ノ軍歌ヲ廣ク將兵ヨリ募集スルコトトス。
本日午後、殿下ヨリ10Aニテハ國崎支隊其他ニ感状ヲ授與シタル由。當軍ニテモ早クセヨトノコトニ、當軍ハ從來愼重ヲ期シアル關係上後レアル旨、申上ク。
殿下ハ又13D長ヲ入城式ニ呼ハナカッタノハ私カ惡カッタ序テノ節斷テ置ケトカ、松井大將ノ手柄ヲ横取スル樣テ惡イトカ申サル。
『飯沼守日記』昭和十二年十二月十八日
午前二・〇〇ヨリ首都飯店ニテ參謀長會同。
殿下ヨリ方面軍參謀長ニ傳ヘヨトノコト。師團長ト共ニ訓示ヲ與ヘラルヽコト其内容如何ニ依リテハ軍司令官ノ顔立タス。(傳フ)司令官ヨリ老婆心トシテ談話。
・・・・・
松本重治「Japanese Army Disciple to Be Tightened. General Matsui Issues Order at Nanking Service(日本軍、軍紀を緊縮す 松井将軍、南京慰霊祭にて命令)」『North China Dairy News』/『China Press 大陸報』(上海)1938年2月8日(南京戦史編集委員会 編纂『南京戦史』(財団法人偕行社、平成元年(一九八九)十一月)409〜411頁所收)
Japanese Army Disciple to Be Tightened.
General Matsui Issues Order at Nanking Service.

(松井将軍軍紀引締めを命令)
Prestige to be closely guarded in future.
(日本軍兵士の行為についての非難に直面して厳命)
(南京 二月七日=同盟)
 In the solemn atomosphere following a memorial service for Japanese officers and men killed in action, General Iwane Matsui, Commander-in-Chief of the Japanese Expeditionary Force in Central China, to-day instructed his commanders to tighten discipline in their units in order to “enhance the prestige of the Imperial Army”.
(戦死した日本軍将兵追悼式後の厳粛な雰囲気の中で中支那派遣軍総司令官松井石根大将は、本日、部下指揮官に対し、「帝国陸軍の威信を高めるために」各自の指揮下部隊における軍紀を引き締めるよう訓示した。)
 Among the high officers so addressed on the wind-swept Nanking Parade Ground was Lieutenant-General Prince Yasuhiko Asaka, a member of the Imperial family.
(風吹きさらす南京練兵場で訓示を受けた高級士官の中には、皇族の朝香鳩彦王中将宮殿下がおられた。)
 ・・・・・
 
工事中 【朝香宮邸】
現「東京都庭園美術館」
 
工事中 【鳩彦王と朝霞コース】
「ゴルフの宮樣」の異名を持つ。埼玉縣朝霞市(もと朝霞村ほか)の「朝霞」という名は、ゴルフの東京倶楽部の朝霞コースにちなんで名付けられたが、これは、東京倶楽部の名譽總裁を務めていた鳩彦王[朝香宮]の稱號から採られ、「香」を「霞」に改めたものである。なお、朝霞コースは、昭和十六年(一九四一)、軍に徴用されて消滅した。
 
【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成 上巻』二四頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』二〇頁
飯沼守(陸軍少將・上海派遣軍参謀長21期)『飯沼守日記』(南京戦史編集委員会 編纂『南京戦史資料集』(財団法人偕行社、平成元年(一九八九)十一月)59〜260頁)
大給湛子『素顔の宮家 私が見たもうひとつの秘史』(PHP研究所、二〇〇九年十月)
広岡裕児『皇族』(読売新聞社、一九九八年八月第一刷)
青木淳子『パリの皇族モダニズム 領収書が明かす生活と経済感覚』(角川学芸出版、二〇一四年十二月)
佐藤朝泰「朝香家==わが国のゴルフ界黎明期の大恩人、鳩彦王」(佐藤朝泰『門閥 ── 旧華族階層の復権』(立風書房、一九八七年四月)第二章、四一〜四三頁)
「日本の名家『旧宮家はいま』3」朝香家(『週刊読売』一九八八年五月二十九日、一三四〜一三九頁)
『朝香宮邸のアール・デコ』(東京都文化振興会、昭和六十一年(一九八六)三月)
『東京都庭園美術館 Tokyo Metropolitan Teien Art Museum ── 建物とその歴史 ──』(東京都庭園美術館資料第1輯)(東京都港区白金台、財団法人東京都歴史文化財団、昭和五十八年(一九八三)十月)
東京都庭園美術館 企画・編集『朝香宮のグランドツアー 東京都庭園美術館建物公開』(会期・会場:2010年12月11日〜2011年1月16日 東京都庭園美術館 主催)
増田彰久 写真、藤森照信 文『アール・デコの館 旧朝香宮邸』(三省堂、一九八四年五月。新版:ちくま文庫、筑摩書房、一九九三年四月)



 
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公開日時: 2015.12.14.

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