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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[正彦]

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正彦王 ただひこ
 のち音羽正彦 おとは(オトワ) ただひこ [侯爵]
 
【出自】
 
鳩彦王[朝香宮]の二男。
 
【母】
 允子内親王
 鳩彦王妃
 明治天皇の八女。
 
【經歴】
大正三年(一九一四)一月五日、生誕。
『法令全書』大正三年一月 告示
○宮内省告示第一號(官報 一月六日
一月五日午前三時五分鳩彦王妃殿下分娩王男子誕生セラル
    大正三年一月五日                宮内大臣 伯爵渡邊千秋
正彦王
大正三年(一九一四)一月十二日、命名。
『法令全書』大正三年一月 告示
○宮内省告示第二號(官報 一月十三日
一月五日午前三時五分誕生セラレタル鳩彦王殿下ノ王男子名ヲ正彦タヾヒコト命セラル
    大正三年一月十二日               宮内大臣 伯爵渡邊千秋
昭和九年(一九三四)一月四日、成年に達し、貴族院議員となる。
『官報』第二一〇二號 昭和九年一月八日 宮廷録事
○皇族御成年 正彦王殿下本月四日御成年ニ
達セラレタリ
『官報』第二一〇三號 昭和九年一月九日 帝國議會 ○貴族院
○議員就職 正彦王殿下ハ本月四日ヲ以テ
貴族院令第二條ニ依リ議席ニ列セラルヘキ
御成年ニ達セラレタル旨宗秩寮、總裁ヨリ通
知ヲ領セリ
昭和九年(一九三四)十一月十五日、海軍少尉候補生となる。
『官報』第二三六六號 昭和九年十一月十九日 敍任及辭令
○昭和九年十一月十五日
・・・・・
               博 英 王
               正 彦 王
               ・・・・・
海軍少尉候補生ヲ命ス
昭和十年(一九三五)一月二十二日、成年式。
『官報』第二四一五號 昭和十年一月二十三日 告示
○宮内省告示第五號
本日正彦王殿下成年式ヲ濟マセラル
 昭和十年一月二十二日
        宮内大臣 湯淺 倉平
『官報』第二四一五號 昭和十年一月二十三日 宮廷録事
○皇族成年式竝朝見 正彦王殿下昨二十二
日午前九時三十分 賢所大前ニ於テ成年式
ヲ行ハセラレ訖テ 皇靈殿 ~殿拜禮同十
一時參内朝見ノ儀同十一時五十分皇太后ニ
朝見ノ儀ヲ濟マセラレタリ
昭和十年(一九三五)七月二十五日、榛名乘組を命じられる。
『官報』第二五六九號 昭和十年七月二十六日 敍任及辭令
○昭和十年七月二十五日
・・・・・
   淺間乘組海軍少尉候補生 博 英 王
愛宕乘組ヲ命ス
   八雲乘組海軍少尉候補生 正 彦 王
榛名乘組ヲ命ス
昭和十年(一九三五)十月十日、衛科講習員を命じられる。
『官報』第二六三四號 昭和十年十月十一日 敍任及辭令
○昭和十年十月十日
・・・・・
   愛宕乘組海軍少尉候補生 博 英 王
   榛名乘組海軍少尉候補生 正 彦 王
衛科講習員ヲ命ス
海軍少尉に任じられる。
昭和十一年(一九三六)三月二日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
『官報』第二七四八號 昭和十一年三月三日 敍任及辭令
○昭和十一年三月二日
・・・・・
               博 英 王
               正 彦 王
敍勲一等授旭日桐花大綬章
昭和十一年(一九三六)四月一日、羽K乘組に補される。
『官報』第二七七三號 昭和十一年四月二日 授爵、敍任及辭令
○昭和十一年四月一日
・・・・・
       海軍少尉勲一等 博 英 王
補山城乘組
       同       正 彦 王
補羽K乘組
音羽正彦
昭和十一年(一九三六)四月一日、臣籍降下。「音羽(おとは/オトワ)」の家名を賜わり、侯爵を授けられる。
『官報』第二七七三號 昭和十一年四月二日 告示
○宮内省告示第六號
本日勲一等博英王殿下竝勲一等正彦王殿下
ノ情願ヲ允サレ博英王殿下ニハ伏見ノ家名
ヲ賜ヒ正彦王殿下ニハ音羽ノ家名ヲ賜ヒ華
族ニ列セラル
 昭和十一年四月一日
        宮内大臣 松平 恒雄
『法令全書』昭和十一年 告示 宮内省告示第六號(官報 四月二日)(昭和十一年四月一日)
『官報』第二七七三號 昭和十一年四月二日 授爵、敍任及辭令
○昭和十一年四月一日
           勲一等 音羽正彦
授侯爵
           同   伏見博英
授伯爵
昭和十五年(一九四〇)十月二十七日、大谷尊由の二女、u子と結納。
『宣仁親王日記』昭和十五年十月二十七日日曜日(『高松宮日記』三ノ一二九頁)
音羽樣【正彦】「ユイノウ」あり。キーチヤン【湛子女王】、ヨシ樣【恆徳王】それから音羽樣へ。
昭和十五年(一九四〇)十一月、大谷尊由の二女、u子と結婚。
『宣仁親王日記』昭和十五年十一月十四日木曜日(『高松宮日記』三ノ一三九頁)
音羽樣【正彦】のウチ々々の御披露。よし樣もオルスなので、東サン【稔彦王】とヤツチヤンとオヂ樣【鳩彦王】と八人だつた。大キナ砲丸投ゲヤルだけ左肩を上げたクセのある、許婚が長かつただけナレタお嫁サンだつた。
昭和十九年(一九四四)二月六日、南洋マーシャル諸島クエゼリン(Kwajalein)島で戦死。海軍少佐に進む。
『細川護貞日記』昭和十九年二月十六日
『宣仁親王日記』昭和十九年二月(行事と豫定事項)二十五日 金(『高松宮日記』七ノ二五八頁)
音羽樣【正彦】戰死(二月六日)發表。
『宣仁親王日記』昭和十九年二月四日(金)(『高松宮日記』七ノ二六八頁)
「ハワイ」放送ハ、「ケゼリン」島半分ヲ占據シ對抗戰中ニシテ、「メカナイズド兵器」ヲ揚陸セル由、今朝放送ス。
 大鳥島【ウェーク(Wake)島】ニ音羽樣【正彦】ユカレ、アル人ガ危イカラトテ第六根據地隊參謀ニ代ヘタ處、コツチガ一番先キニ上陸スル處トナリ、而モ之ハ餘リ地上防禦強クナク、ヘンナ事ニナル。私ハ勿論一人位ホントノ戰死アツタ方ガヨイト思ツテハオルガ。
『宣仁親王日記』昭和十九年二月二十五日(金)(『高松宮日記』七ノ三〇一頁)
一七〇〇朝香宮(御留守承知ノ上御玄關マデ)。音羽樣、皆樣オ集リニナツテ御寫眞(引伸シヤツト出來)飾付終ツタ所ニユク。北白川おば樣【房子内親王】、みね樣【立花美年子】ヤハリ泣キ顔ナリ。
 音羽樣、二月六日戰死發表。
『宣仁親王日記』昭和十九年二月二十六日(土)(『高松宮日記』七ノ三〇六頁)
『宣仁親王日記』昭和十九年二月二十七日(日)(『高松宮日記』七ノ三〇六頁)
『宣仁親王日記』昭和十九年二月二十八日(月)(『高松宮日記』七ノ三〇六頁)
『宣仁親王日記』昭和十九年三月四日(土)(『高松宮日記』七ノ三二九頁)
『官報』第五一七八號 昭和十九年四月二十日 彙報 ○官廳事項
○有爵者卒去 侯爵音羽正彦ハ本年二月六日
卒去セリ
昭和十九年(一九四四)四月二十二日、葬儀。
『宣仁親王日記』昭和十九年四月(行事と予定事項)二十二日 土(『高松宮日記』七ノ三七四頁)
音羽樣合同葬。
『宣仁親王日記』昭和十九年四月二十二日(土)(『高松宮日記』七ノ三九三頁)
一五三〇音羽樣英靈オ迎ヘニ朝香宮ヘユク。拜禮。直チニ皈ル。お姉樣ソレヨリうちニオツレシテ會食。二〇〇〇音羽樣ヘオ通夜ニユク。二二〇〇皈。
昭和十九年(一九四四)四月二十三日、移靈祭。
『宣仁親王日記』昭和十九年四月(行事と予定事項)二十三日 日(『高松宮日記』七ノ三七四頁)
音羽樣移靈祭(一九〇〇)。
『宣仁親王日記』昭和十九年四月二十三日(日)(『高松宮日記』七ノ三九四〜三九五頁)
〇九〇〇音羽樣ヘ。英靈ノ函ヲ開ケテほぞ緒・齒等収ム。海軍ヨリハ寫眞一枚入ツテヰタダケナリ。おぢ樣【鳩彦王】ヤハリ何ニモ入ツテオラヌトテ、予期ノコトヽハ云ヘ、ガツカリナサツテ見エタ。・・・・・
『宣仁親王日記』第十六冊巻末(『高松宮日記』七ノ三九五頁)
(一九・四・二三)【昭和十九年四月二十三日】 音羽樣英靈ニハ寫眞一枚入リシノミナリ。おぢ樣【鳩彦王】、何ニモ入ツテオラヌダラウトハ思ヒシモ、ヤハリ何ニモ入ツテヰナカツタトテ更ラニ心淋シキ御樣子ナリ。・・・・・
 伏見伯【博英】ノ遺骨ハ音羽樣ガ横須賀カラ首ニカケテ、ソノ時、重カツタ、感慨無量ナリトノ話アリシ由。おぢ樣ノオ話ナリ。
 
【配偶】
 音羽u子 おとは(オトワ) ますこ
 大谷尊由(おほたに(オオタニ) そんいう(ソンユウ)。大谷光尊の男子。大谷光瑞の弟)の二女。
 大正七年(一九一八)十月十七日生。
 音羽正彦と結婚。
 音羽家より離籍。音羽家絶家。
 小坂善太郎(元外務大臣)と再婚。
 
【繼承者】
 なし。
 
【逸事等】
島田一男『大陸秘境横断』(東京都中央区日本橋蛎殻町、桃源社、昭和四十七年(一九七二)四月)中の「江南桃源郷に入る」(225〜248頁)には、昭和十三年十月の、半璧山上陸作戰と鄂城の天主教修道院への訪問時における、上海第五特別陸戰隊の山砲中隊長であった音羽正彦の端正な姿が描かれている。末尾の「附記」に、「その音羽さんも、土師部隊長と共に、大戦中南方の小島で散ってしまった。まことに惜しい貴公子である。」とある。
 
【文獻等】
『皇室制度史料 皇族三』 三二二〜三二三頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三九五頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 三六四頁
  岩崎剛二『太平洋戦争海藻かいそう録 ─海の軍人30人の生涯』(東京都千代田区九段北、光人社、一九九三年一月) 19〜28頁「音羽正彦 〈第六根拠地隊司令部参謀・62期・少佐〉


 
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公開日時: 2011.08.16.

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