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明治二十四年(一八九一)八月七日、生誕。
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允子内親王[富美宮]
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明治二十四年(一八九一)八月十三日、「允子(ノブコ)」と命名、「富美宮(フミノミヤ)」と稱される。
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『官報』明治二十四年八月十三日宮内省告示
皇女御名「允子」ト命ゼラレ、「富美宮」ト稱シ奉ル。
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栽仁王[有栖川宮繼嗣]と婚約するが、栽仁王の薨逝のため解消。
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『牧野伸顯日記』昭和九年九月十五日
入江大夫【爲守】約に依り來訪。・・・・・
面會の序に田中光顯運動云々の義に付、爲念記憶を確むる爲め一、二質問をなしたり。其の答ふるところ左の如し。
自分も田中が問題を起したる時、二位局【柳原愛子】に就き當時の事情を糺したる事あり。局の話しに、有栖川の若宮【栽仁王】薨去の時富美宮(允子内親王)は御落胆にて御泣きになる事を聞き居れり、夫れは當時の御用掛りを承り居りし林友幸子爵より御婚約内定の趣を御承知遊ばされ居りたるが爲なり、當時は宮廷の大事は大抵徳大寺【實則】侍從長に前以て内々思召しを御伺して、別に御支障の不被爲在を見極はめて後表向き宮内大臣より申出づる慣例なりしに付、徳大寺家の日記に付御取調べあらんには多分事実明瞭なるべしとの局の注意ありたり。依て自分は(入江子爵)其趣を一木宮内大臣へ内々御話したるに、同大臣は感謝して左樣に取計ふべしとの事なりし。其後取調の結果を聞きたるに、幸にして日記に該當の記事ありて内親王方の御婚儀に關する御内定の事實記載あり、其内に有栖川の若宮【栽仁王】と允子内親王との御配遇【偶】の事が明記ありたりとの事なりし。之に依りても二位【柳原愛子】の記憶は確めらるゝ次第なり。
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『牧野伸顯日記』昭和九年九月二十二日
侍從長より、昨夜田中翁【光顯】入來、内大臣云々は一言も触れず、有栖川家の縁談【栽仁王と允子内親王の婚約】に付明治天皇樣へ伺出でたる時の顛末、井上日召の寛典、維新戰爭當時徳川方に起ちたる各大名の昇爵等の諸項を一つ書にしたる覺書を携へ、親しく口上にて縷述したる由。
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『徳大寺實則日記』
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明治四十三年(一九一〇)五月五日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
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『官報』第八〇五九號 明治四十三年五月六日 敍任及辭令
○明治四十三年五月五日
敍勲一等授寶冠章 允子内親王
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允子内親王[朝香宮妃]
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明治四十三年(一九一〇)五月六日、鳩彦王[朝香宮]と成婚。
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『官報』第八〇五六號 明治四十三年五月三日 宮廷録事
○鳩彦王允子内親王結婚禮次第 本月六日鳩彦王殿下允子内親王殿下ト結婚
ノ禮行ハル其儀左ノ如シ
・・・・・
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『官報 號外』 明治四十三年五月六日 告示 宮内省告示第五號
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昭和八年(一九三三)十一月三日、薨逝。
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『高松宮日記』昭和八年十一月二日
・・・・・ これなら朝までよさそうだと云ふ人もあつたので、別室にゐたら、大いそぎと云ふのでトンで行つたらもう人工呼吸や注射のしまつだつた。・・・・・
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『木戸幸一日記』昭和八年十一月三日
朝香宮妃殿下【允子内親王】には、午前一時御危篤に陷られ、午前一時十五分薨去被遊。右發表の手續を指圖し、御遺骸に永訣して、三時歸宅す。ゴルフの御相手等致したることもあり、一入痛嘆に堪へない。
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『官報 號外』 昭和八年十一月三日 告示 宮内省告示第二十三號
鳩彦王妃允子内親王殿下本日午前一時十五
分東京市芝區白金臺町二丁目二十六番地朝
香宮邸ニ於テ薨去セラル
昭和八年十一月三日
宮内大臣 湯淺 倉平
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『官報 號外』 昭和八年十一月三日 宮廷録事
○故鳩彦王妃允子内親王殿下御容態 朝香
宮妃允子内親王殿下ニハ本年十月中旬ヨリ
御倦怠御食氣不振等ヲ覺エサセラレ同二十
一日御假床ニ入ラセラル拜診上蛋白尿壓亢
進心臟肥大肝臟腫脹氣管支炎腎臟炎性網膜
炎等ノ御症状ヲ拜シ奉リ慢性腎臟炎ト御診
斷申上ケ爾來御靜養中一時輕快セラレタル
モ同三十日ヨリ御病症再御増進三十一日夜
心臟衰弱ノ御症状ヲ拜シ奉リ氣管支炎モ亦
御増進遂に十一月三日午前一時十五分薨去
セラル
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昭和八年(一九三三)十一月十二日、葬儀。
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『高松宮日記』昭和八年十一月三日〜十三日
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『官報』第二〇五七號 昭和八年十一月八日 宮廷録事
○鳩彦王妃故允子内親王御葬儀 鳩彦王妃
故允子内親王御葬儀ハ本月十二日午前九時
芝區白金臺町朝香宮邸御發引豐島岡墓地ニ
於テ執行セラル
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『官報』第二〇六二號 昭和八年十一月十四日 宮廷録事
○御斂葬濟 鳩彦王妃故允子内親王御斂葬
一昨十二日午後四時八分滯ナク濟マセラレ
タリ
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