前頁 「 允 [允子]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[允明]
 
フレームなし


□ 源朝臣允明
 
【出自】
 醍醐天皇の男子(第四源氏)。
 
【生母】
 左兵衞佐
源朝臣敏相の女子。
『皇胤系圖』、醍醐天皇の子「源允明」(『大日本史料』第一編之八、一四六頁所引
母左兵衞佐源敏相女。
 
【經歴】
九一九(延喜十九年)生誕。(逆算)
『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」
伏見宮本『元服記竝立親王記』「承平四年十二月廿七日允明源氏御元服記」
延喜二十年(九二〇)十二月二十八日、源朝臣を賜姓される。二歳。
『貞信公記抄』延喜二十年十二月廿五日
定當代源氏。了直物。
『貞信公記抄』延喜二十年十二月廿八日
賜源氏勅書。
『日本紀略』延喜二十年十二月二十八日
賜皇子等源朝臣姓。
『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」
延喜二十一年(九二一)二月五日、左京一條一坊を本貫とする、源朝臣高明を戸主とする戸籍に入れられる。三歳。
『類聚符宣抄』四「親王皇子賜姓」
太政官符民部省(承知下中務・式部・大藏・宮内等省)
  源朝臣高明(年八) 源朝臣兼明(年八) 源朝臣自明(年四) 源朝臣允明(年三)
  源朝臣兼子(年七) 源朝臣雅【ママ】子(年七) 源朝臣嚴子(年六)
右 右大臣宣、奉勅、件七人是皇子也。而依去年十二月廿八日勅書、賜姓、貫左京一條一坊、宜以高明爲戸主者、省宜承知、依宣行之、符到奉行
     左大辨 源悦   左大史 丈部有澤(歟)        延喜廿一年二月五日
承平四年(九三四)十二月二十七日、元服。十六歳。
伏見宮本『元服記竝立親王記』「承平四年十二月廿七日允明源氏御元服記」所引『吏部王記』承平四年十二月廿七日(『大日本史料』第一編補遺(別冊四)、三〇一〜三〇三頁
允明源氏於中務卿親王【代明親王】家加冠。年十六。御元服。外戚无相勞者、无便成禮、仍余【重明親王】前事申卿。君甚憐之。仍冠者服并童装、引入・理髪等祿、一事以上皆悉具備成今日事。余亦設飩食十具、獻物卅捧。初親王憚大臣、欲請納言爲引入、通消息大納言恒佐卿【藤原】。而右大臣【師輔】有可相勞消息、故請之。其儀。・・・・・ 使源氏正座、左右照脂燭、使左近中將源英明朝臣理髪、左京大夫藤原中正朝臣佐之。大臣加冠。・・・・・
從四位上に敍される。
承平八年(九三八)三月までに播磨權守に任じられる。
『醍醐寺雜事記』所引『吏部王記』承平八年三月廿九日
天慶五年(九四二)四月二十七日、石C水臨時祭使を勤仕。時に播磨權守從四位上。
『本朝世紀』天慶五年四月廿七日庚辰
・・・・・ 又石C水被奉遣神財并〓【人舞】人歌人等(使播磨權守從四位上源朝臣充明【允明】。・・・・・)。
『西宮記』六「十一月 賀茂臨時祭」裏書所引『吏部記』天慶五年四月廿七日
於御在所、發宇佐幣使、石C水臨時祭使。・・・・・ 石C水使播磨守源允明朝臣。・・・・・
『江次第』六「三月」、石C水臨時祭試樂
臨時祭、起天慶五年四月廿七日、石C水臨時祭、平將門亂逆報賽也。使播磨守源允明朝臣。・・・・・
『兵範記』仁安三年四月三日甲午、「夏秋被行石C水臨時祭例」、「四月例」、「朱雀院」
天慶五年四月廿七日庚辰、・・・・・ 被奉遣石C水宮。幡【播】磨權守從四位上源允明爲使。依東國賊亂御祈也。・・・・・
『石C水文書』五「田中家文書附録」、「宮寺縁事抄臨時祭上」
天慶五年四月廿七日庚辰、石C水臨時祭也。
朱雀使幡【播】磨守從四位源朝臣允明(イ本權守
  ・・・・・
佐々木信綱氏本『本朝世紀』石C水臨時祭宣命(天慶五年四月廿七日)(『大日本史料』第一編之八所引)には、「散位從四位上源朝臣允明」とある。
天慶五年(九四二)七月五日、卒去。二十四歳。
『一代要記』醍醐天皇、皇子「允明」
從四位上。播磨權守。□年□月□日、賜源姓。天慶五年七月五日卒。
『皇代記』「醍醐天皇」(男)賜姓「[源]允明」、
從四位上。播磨權守。
類從本『皇胤紹運録』、
源允明(從四上播磨守)。
 
【子女】
  (女子)
藤原朝臣保昌(藤原朝臣致忠の男。和泉式部の夫)の母は、源允明の女子であると推定される。『尊卑分脈』武智麿公孫、「致忠」の子「保昌」(二ノ四二三頁)に、「母元明親王女」「長元九ーー卒(七十九)」とあり。この「元明親王」とは該當する人物なし。藤原保昌が長元九年(一〇三六)に七十九歳で卒した、ということから逆算すると、保昌の生年は天徳二年(九五八)となる。ここから、保昌の母は、九三〇年代の出生であると憶測され、その父も、延喜年間(九〇〇〜)前半に出生したと憶測される。ここから、この「元明」とは「允明」即ち源允明の誤りではないか、と推測される。
 
【逸事等】
『吏部王記』承平元年【九三一】九月廿九日條(逸文)によると、醍醐寺鑄鐘料を親王や源氏等が奉ったとき、源允明のみが奉らず、嘲笑を買った。また、醍醐天皇一周忌の國忌に當っても、允明は諷誦文を奉らなかったので、今度は重明親王らも面目を失うとして、重明親王は兄代明親王と相談して、諷誦文の代作等を行なった。
 
【備考】
承平八年(九三八)三月、醍醐寺における代明親王の周忌諷誦において、絹十疋を供した。
『醍醐寺雜事記』所引『吏部王記』承平八年三月廿九日
[※重明親王]詣醍醐寺。會故省卿親王【中務卿代明親王】周忌諷誦。本家諷誦錢百貫文。女孫王絹十疋。家諷誦錢十貫文。播磨守允明朝臣絹十疋。
 
【文獻等】
『大日本史料』第一編之八、天慶五年四月二十七日(一一七〜一二三頁)「東西賊徒平定御報賽ノ爲メ、石C水臨時祭ヲ行ハセラル」
『大日本史料』第一編之八、天慶五年七月五日(一四六頁)「醍醐天皇ノ皇子從四位上播磨權守源允明卒セラル」


 
次頁 「 因 [因幡@]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 い 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


更新日時: 2006.12.16.
公開日時: 2003.04.10.


Copyright: Ahmadjan 2003.4 - All rights reserved.