敏相王, 源敏相


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[敏相]

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敏相王
 
 のち源朝臣敏相
 
【出自】
 
興基王のち源朝臣興基)の男子。
 人康親王の孫。
 仁明天皇三世。
 
【經歴】
敏相王
元慶四年(八八〇)二月八日に父 興基王が源朝臣を賜姓された際に、賜姓から漏れる。
源朝臣敏相
元慶四年(八八〇)六月二十一日、源朝臣を賜姓される。
『日本三代實録』元慶四年六月廿一日癸卯
左京人忠相王、敏相王、宜子女王賜姓源朝臣。即是從四位上行左馬頭源朝臣興基之男女也。興基賜姓之日、脱落不載。故今追賜焉。
小舍人となる。
寛平元年(八八九)四月十九日、殿上賭射負態にて舞樂を舞う。時に小舍人。
『小野宮年中行事』三月「十二日賭射」
【裏書】寛平元年三月乙卯御記云。・・・・・・ 同年四月庚辰【十九日】、後方賽其所負鸎。前方念人式部卿親王、太政大臣。後方念仁朕、左大臣。而始小童子等進舞。十數觴後興酣感深。公卿等更起呼舞。天下倚ョ者太政大臣喚饗者不然。是故同呼氣。昔深草聖帝【仁明天皇】内宴之日起舞、又歌吹笛。今日朕起舞者蓋其比也云々、小舍人源敏相舞骨可稱。仍賜之祿。又太政大臣息忠平、齡始十歳、爲納曾利舞、騰躍迅逸、節不錯違。又賜祿云々。
中宮大進となる。
昌泰元年(八九八)十月二十日から十日間にわたり、山城・大和・河内で開催された宇多上皇の遊猟に、「左方」の「番子」として參加。時に中宮大進。
紀長谷雄『紀家集』所收「競狩記」
左兵衞佐となる。
昌泰四年(九〇一)正月二十五日の菅原道眞失脚に坐し、昌泰四年(九〇一)正月二十七日の左降除目で、左兵衞佐から但馬權守に左遷される。
『政事要略』二十二「八月上」四日「北野天~會事」
同月【昌泰四年正月】廿五日坐事、左遷大宰權帥(五十八)。
・・・・・
三河掾大春日リ蔭(右大史)、遠江權掾勝【藤】諸明、駿河權介菅原景行(式部大丞)、飛驒權掾菅原景【兼】茂(右衛門尉)、能登權掾源嚴、但馬權守源敏相(左兵衞佐)、伯耆權目山口高利(右馬屬)、出雲權守源善(右近中將)、美作守和藥ヤマトグスシ貞世(少納言)、長門權掾良岑貞成、阿波權守源兼利(前攝津守)、土左介菅原高視(大學頭)。昌泰四年正月廿七日左降除目。
『伊勢集』
かヽるに、時の大臣【菅原道眞】なかされ給。むこ【婿】にて兵衞のすけ(【傍注】敏相)より但馬介【ママ】になされてなかされけるを、たヽにては、さしもおほえてやみにしを、かくとほくなかれゆきたるか、あはれなる事といひたりけれは、
かけていへは 泪の川の Pをはやみ 心つからや またはなかれん
延喜十五年(九一五)十月二十二日までに左兵衞佐に復任。
『園太暦』貞和三年六月十三日「觸穢間~事等沙汰例」
延喜十五年十一月十日仰云。今月廿三日相當新嘗祭。而去月廿二日、左兵衞府腦穢入交内裏。
『日本紀略』延喜十五年十一月廿一日丁丑
停五節舞姫。依左兵衞佐源敏相曹司死穢也。
 
【配偶】
 菅原朝臣道眞の女子
『伊勢集』
 
【子女】
 (女子)
 醍醐天皇の宮人。
 源朝臣允明の母。
『皇胤系圖』 醍醐天皇の子「源允明」(『大日本史料』第一編之八、一四六頁所引
母左兵衞佐源敏相女。
 
【文獻等】
稿本仁明天皇實録』三九五頁「皇曾孫敏相王」


 
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更新日時:2023.04.01.
公開日時:2022.05.09.

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