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八四五年(承和十二年)生。
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『稿本仁明天皇實録』三六五頁〔按〕
王ノ卒年、日本紀略、本朝皇胤紹運録、一代要記ノ三書共記載ヲ異ニス、日本紀略ニ從ヘバ、誕生ハ齊衡元年ト爲リ、貞觀八年年十三ニテ從四位下ニ敍セラレタル事トナリ從ヒ難シ、今姑ク村上本本朝皇胤紹運録竝ニ尊卑分脈圖脱漏ノ四十七歳ニ從ヒ其誕生ヲ逆算ス、
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興基王
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貞觀八年(八六六)正月七日、二世孫王として無位から從四位下に直敍される。
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『日本三代實録』貞觀八年正月七日甲申
[授]越中守棟貞王、散位朝右王並從四位上。无位興基王從四位下。
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『河海抄』九「乙通女」
源興基(彈正尹人康親王男)、貞觀八年正月七日敍從四下(元無位)。源博雅(兵部卿克明親王男)、承平四年正月七日敍從四位下(元無位)。親王子直敍四位、雖爲流例、一世源氏・大臣息大略敍爵歟。源叶(信大臣子)・同靜(光大臣子)・伊渉【源伊陟】(兼明親王子)・忠賢(高明大臣子)、皆是敍從五位下者也。・・・・・
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」袖書
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貞觀九年(八六七)正月十二日、侍從となる。
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貞觀十二年(八七〇)正月二十五日、信濃權守を兼ねる。
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貞觀十三年(八七一)正月二十九日、播磨權守となる。
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」袖書
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貞觀十六年(八七四)正月七日、從四位上に昇敍。
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」袖書
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貞觀十八年(八七六)二月十五日、彈正大弼となる。
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」袖書
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貞觀十九年(八七七)正月十五日、左馬頭となる。
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」袖書
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伊勢守を兼ねる。
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『稿本仁明天皇實録』三六七頁〔按〕
王、左京ニ住セシコト本條三代實録【元慶四年二月八日癸卯】ノ記事ニヨリテ知ルヲ得、又是ヨリ先、伊勢守ヲ兼ネシコト同ジク其記事ニヨリテ察スベシ、然レ共公卿補任ハ元慶四年十月七日兼伊勢守ト爲ス、其是非遽ニ定メ難ケレドモ或ハ同年正月十一日除目ノ日ニテモ其事有リシニヤ、按ヲ附シテ後考ニ俟ツ、
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源朝臣興基
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元慶四年(八八〇)二月八日、源朝臣を賜姓される。時に從四位上行左馬頭兼伊勢守。
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『日本三代實録』元慶四年二月八日癸卯
左京人從四位上行左馬頭兼伊勢守興基王賜姓源朝臣。興基、人康親王之子也。
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元慶四年(八八〇)六月二十一日、子女三人が賜姓に漏れていたため、子女三人が源朝臣を賜姓される。時に從四位上行左馬頭。
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『日本三代實録』元慶四年六月廿一日癸卯
左京人忠相王、敏相王、宜子女王賜姓源朝臣。即是從四位上行左馬頭源朝臣興基之男女也。興基賜姓之日、脱落不載。故今追賜焉。
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元慶四年(八八〇)十月七日、伊豫守となる。
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」袖書
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元慶五年(八八一)十二月十三日、左近衞權中將となる。
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」袖書
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元慶六年(八八二)二月三日、備前守を兼ねる。
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『日本三代實録』元慶六年二月三日丙子
從四位上行左近衛權中將源朝臣興基爲備前守。權中將如故。
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元慶六年(八八二)三月、藏人頭となる。
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」袖書
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元慶六年(八八二)六月二十六日、相撲司の左司となる。時に從四位上行左近衞權中將兼備前守。
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『日本三代實録』元慶六年六月廿六日丁酉
任左[右]相撲司。中納言從三位兼行左衛門督源朝臣能有、參議正四位下行皇太后宮大夫藤原朝臣國經、參議正[從]四位上行左近衛中將藤原朝臣有實、正四位下行左兵衛督兼播磨權守源朝臣光、從四位上行左近衛權中將兼備前守源朝臣興基、從四位下行左中弁兼木工頭藤原朝臣千乘、權左中弁兼左近衛少將藤原朝臣遠經、内藏權頭從五位上兼行讃岐介良岑朝臣晨直、左兵衛佐源朝臣湛、侍從源朝臣是忠、左衛門權佐藤原朝臣CP、左馬助安部朝臣三寅爲左司。中納言從三位在原朝臣行平、參議正四位下[行]右兵衛督源朝臣冷、參議正四位下行右衛門督兼近江權守藤原朝臣諸葛、從四位下行侍從雅望王、正四位下行右近衛中將兼美濃守源朝臣直、從四位上守大藏卿源朝臣定有、從四位下行中務大輔源朝臣至、正五位下守右【イ左】中弁兼[行]大學頭巨勢朝臣文雄、右近衛少將兼[行]備中守藤原朝臣C經、右衛門佐從五位上兼行讃岐權介平朝臣秀【ママ。衍】季式、右兵衛權佐藤原朝臣敏行、從五位下行右馬助藤原朝臣恒興【イ與】爲右司。
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元慶八年(八八四)十一月二十五日、光孝天皇大嘗會敍位において從四位上から正四位下に昇敍。時に從四位上行左近衞權中將兼備前守。
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『日本三代實録』元慶八年十一月廿五日壬午(『類聚國史』)
授无位直實王【『類聚國史』作「眞實王」】從四位下。從四位上行左近衛權中將兼備前守源朝臣興基正四位下。從四位下行丹波權守源朝臣興範、伊勢守藤原朝臣興世、无位源朝臣舊鑑、源朝臣是貞並從四位上。
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仁和二年(八八六)六月二十五日、相撲司の左司となる。時に正四位下行左近衞權中將兼備前守。
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『日本三代實録』仁和二年六月廿五日癸酉
任相撲司。以中納言從三位兼行左衛門督源朝臣能有、參議正四位下行左兵衛督源朝臣光、參議正四位下行皇太后宮大夫兼播磨守藤原朝臣國經、參議正四位下[行]左近衛中將兼近江權守藤原朝臣有實、參議正四位下行近江守源朝臣是忠、正四位下行左近衛權中將兼備前守源朝臣興基、從四位上行美濃守源朝臣貞恒、從五位上守左近衛少將兼[行]讃岐介藤原朝臣高藤、左衛門權佐從五位上源朝臣昇、從五位上守左少弁兼行式部少輔藤原朝臣佐世、左近【兵】衛權佐從五位下藤原朝臣恒興、從五位下行左馬助藤原朝臣連並十二人爲左司。正三位行中納言兼民部卿陸奥出羽按察使在原朝臣行平、參議正四位下行右兵衛督兼伊豫權守源朝臣冷、參議正四位下[行右近衛中將]源朝臣直、參議正四位下行右衛門督藤原朝臣諸葛、大藏卿正四位下源朝臣定有、散位從四位上源朝臣是定、右近衛中將從四位下兼行木工頭讃岐權守平朝臣正範、右近衛少將正五位下兼行越中守源朝臣湛、右衛門佐從五位上平朝臣季式、從五位上守右兵衛佐源朝臣元、從五位下行右馬助在原朝臣載春、齋院長官從五位下兼守右少辨源朝臣希十二人爲右司。
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仁和三年(八八七)二月十七日、伊勢權守を兼ねる。時に正四位下行左近衞權中將。
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『日本三代實録』仁和三年二月十七日辛酉
[以]正四位下行左近衛權中將源朝臣興基爲伊勢權守。
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寛平三年(八九一)三月十九日、参議となる。
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」尻付
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」袖書
仁明天皇孫。四品人康親王一男。母
貞觀八年正七從四位下。同十三正廿九任播磨權守。同十六正七從四位上。同十八[二十五任彈正大弼。十九]正十五左馬頭。元慶四十七兼伊世守。同五[十]二十三左權中將。同六二二兼備前守。[六年三月]補藏人頭。同八十一廿五正四位下。仁和三正廿二聽禁色衣服。同二三兼伊世權守。寛平三三十九人參木。
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寛平三年(八九一)四月十一日、宮内卿となる。
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」尻付
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寛平三年(八九一)九月十日/十一日歿。四十七歳(『尊卑分脈』)。
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村上本『本朝皇胤紹運録』人康親王の子
賜源姓左中將宮内卿大間【弼】
左馬頭三木正四下。
─源 興 基
寛平三九十四薨四十七
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『日本紀略』寛平三年九月十日丁巳
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『公卿補任』寛平三年(辛亥)參議正四位下「×源興基」尻付
三月十九日任。四月十一日兼宮内卿。九月十一【イ十】日卒(頭十年、三木一年)。
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『一代要記』丙集 宇多天皇 參議「源興基」
正四位下、寛平三年三月十九日任。元左中將。同四月十一日宮内卿。年四十四【ママ】。同九月十四【ママ】日卒。
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