前頁 「 能 [能有]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[能久]
 
フレームなし

工事中

□ 能久親王 よしひさ
 北白川宮(三)
もと 公現親王
公現王
能久王「伏見滿宮」
もと 青蓮院門跡(三八)
梶井門跡(四九)
輪王寺門跡慈性親王の附弟
輪王寺門跡(一四)

東武皇帝」(諱は陸運)?
 
【幼稱】
 「滿宮
」 みつのみや
 
【出自】
 邦家親王[伏見殿]の九男(もと四男と公示)。
 仁孝天皇の養子。
 
【生母】
 「盤瀬」
靜子、堀内信子。
家女房。
堀内伊勢守嗣善の女子。
 
【准母】
 「大典侍局」
藤原朝臣績子。
藤原朝臣愛親[中山大納言]の女子。
 
【經歴】
「滿宮」
弘化四年(一八四七)二月十六日生。
『詰所系圖』作「三月十六日」。
「滿宮」[青蓮院門跡]
嘉永元年(一八四八)二月二十二日、青蓮院門跡となる。二歳。
嘉永元年(一八四八)八月三日、仁孝天皇の養子となる。
准母は大典侍局。
「滿宮」[梶井門跡]
嘉永五年(一八五二)三月二十七日(十二日)、梶井門跡となる。六歳。
「滿宮」[輪王寺門跡慈性親王附弟]
安政五年(一八五八)九月二十七日、輪王寺門跡慈性親王(韶仁親王[有栖川宮]の男子)の附弟となる。
能久親王[輪王寺門跡慈性親王附弟]
安政五年(一八五八)十月二十五日、親王宣下、名を「能久」と賜わる。
『非藏人日記』安政五年十月廿五日丁卯
輪王寺御附弟滿宮能久親王宣下也。・・・・・ 巳半一刻前陣被始無獻
公現親王[輪王寺門跡慈性親王附弟]
安政五年(一八五八)十一月二十三日、入寺・得度。法諱「公現」。十二歳。
『非藏人日記』安政五年十一月廿三日甲午
輪王寺滿宮御入寺也。・・・・・
『實麗卿記』安政五年十一月廿三日
能久親王先朝御養子。實入道邦家親王男入于輪王寺室。同日得度於里坊【清和院門外廣小路新道】
『久邇宮家記』安政五年十一月廿三日
輪王寺新宮能久親王御得度改名公現。[※青蓮院宮尊融親王]爲御戒師。
安政六年(一八五九)正月十八日、江戸に下向するため京都を出發。
安政六年(一八五九)二月三日、江戸の上野東叡山に到着。
萬延元年(一八六〇)十二月十五日、二品に敍される。十四歳。
元治元年(一八六四)十二月五日、一品に敍される。十八歳。
公現親王[輪王寺門跡]
慶應三年(一八六七)五月二十四日、輪王寺門跡を相續。二十一歳。
慶應四年(一八六八)、戊辰戰爭に際しては、駿河まで東下した東征大總督熾仁親王[有栖川宮]の營に參伺(三月七日)、源朝臣慶喜[徳川]と江戸住民のために救濟を願うが拒絶され、江戸に戻る。
慶應四年(一八六八)四〜五月、彰義隊に擁立されて上野の山に篭ったが、征東軍に攻撃され、慶應四年(一八六八)五月十五日、上野から根岸方面に脱出する。
慶應四年(一八六八)五月二十五日、羽田沖で長鯨丸に乘船する。
慶應四年(一八六八)五月二十八日、常陸多珂郡平潟沖に到り、上陸。陸路、會津若松へ向かう。
慶應四年(一八六八)六月六日、會津若松に到着。
陸運 「東武皇帝」(?)
慶應四年(一八六八)六月十六日、奧羽越列藩盟主となり、「東武皇帝」(諱は陸運)として即位、「大政元年」と改元した、という。
『菊地容齋所藏文書』
慶應四辰六月十六日於奧州
      改元 大政元年卜成
上野宮樣御事御即位東武皇帝御諱陸
運 皇后光仙台慶邸【伊達慶邦】公養女實は
一條關白ノ御女也
九條殿        關白太政大臣
執柄職        醍醐左大臣
・・・・・
   戊辰八月十五日寫
『蜂須賀家文書』
奧州改元
大政元年六月十五日
御即位上野御宮事
東武皇帝御諱陸運
      御后
一條關白御女仙台慶邦養女
九條關白太政大臣
           醍醐大臣
執柄職        澤大納言
・・・・・
瀧川政次郎「公現法親王の即位」(瀧川政次郎『日本歴史解禁』所收)
むしやこうじ・みのる(武者小路穰)「戊辰役の一資料」(『史學雜誌』第六十一編第八号、昭和二十七年(一九五二)八月、七一(七六〇)〜七二(七六一)頁)
慶應四年(一八六八)六月十八日、會津若松より出發、仙臺に向かう。
慶應四年(一八六八)七月二日、仙臺に到着。奧羽越列藩同盟の軍事總裁に推戴される。
「日光宮令旨」を發す。
公現親王[輪王寺門跡]
明治元年(一八六八)九月十八日、官軍に降伏。
明治元年(一八六八)十一月十九日、京都伏見宮邸に到着、謹愼を命じられる。二十二歳。
公現
明治二年(一八六九)九月二十八日(十月四日)、特旨を以て謹愼を解かれ、伏見宮に復籍。仁孝天皇養子、親王宣下、一品を止められる。二十三歳。
『太政官日誌』明治二年第百三號/九月廿八日
公現(滿宮)
明治二年(一八六九)十月十三日、公現の幼稱「滿宮」を復す。
『伏見宮日記』明治二年十月十三日
明治二年(一八六九)十一月五日、還俗を許される。
『伏見宮日記』明治二年十一月五日
明治三年(一八七〇)閏十月二十八日、海外留學を奏請する。
能久王(滿宮)
明治三年(一八七〇)十一月四日、「能久」と復名、「伏見滿宮」と稱すべきことを仰せつけられる。
『太政官日誌』明治三年第五十一號/十一月四日
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「北白川宮」一〇六頁には、「同【明治】三年十一月二日復名能久、號伏見滿宮」とある。
明治三年(一八七〇)十二月三日、プロイセンへ留學するために横濱を出港。二十四歳。
明治四年(一八七一)正月十二日、アメリカ合衆國ワシントンに到着。
明治四年(一八七一)二月十八日、ベルリンに到着。
明治五年(一八七二)正月六日、三品に敍される。
能久王[北白川宮]
明治五年(一八七二)三月二十四日、北白川宮を相續、一代皇族に列される。
(北白川宮は、智成親王の薨逝後、後継者を缺いていた)。
『太政官日誌』明治五年第廿五號/三月二十四日
『能久親王年譜』明治五年三月二十三日【ママ】
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「北白川宮」一〇六頁には「同【明治】五年三月二十二日繼北白川宮智成親王後」とある。
明治七年(一八七四)九月二十七日、陸軍少佐となる。二十八歳。
明治八年(一八七五)十月、プロイセン國參謀大學校に入校する。二十九歳。
明治十年(一八七七)二月、西南戰爭勃發のため、急遽歸朝を命じられ、四月九日、プロイセン國參謀大學校を退學、四月十二日、ベルリンを出發。
明治十年(一八七七)七月二日、東京に歸着。謹愼。三十一歳。
能久親王[北白川宮]
明治十一年(一八七八)八月二十六日、特旨を以て、仁孝天皇養子および親王を復される。
『法令全書』(明治十一年/宮内省布達)八月二十六日
明治十一年(一八七八)十二月十八日、勲一等に敍され、旭日大綬章を授けられる。
明治十二年(一八七九)一月九日、陸軍歩兵中佐となる。
明治十二年(一八七九)二月、東京地學協會長となる。
明治十三年(一八八〇)五月十八日、二品に敍される。
明治十四年(一八八一)十一月三日、陸軍大佐となる。
明治十七年(一八八四)一月、陸軍少將となる。
明治十九年(一八八六)七月十日、島津富子と結婚。
明治十九年(一八八六)十二月二十九日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
明治二十五年(一八九二)十二月八日、陸軍中將となる。
明治二十八年(一八九五)一月二十八日、近衛師團長に補される。
日C戰爭には、近衛師團を率いて、明治二十八年(一八九五)四月十八日、大連に到着したが既に日C間の講和が進んでおり、實戰することなく終戰を迎える。
明治二十八年(一八九五)五月二十二日、能久親王率いる近衛師團は、旅順を出發、臺灣接収のため臺灣に轉進する。
明治二十八年(一八九五)五月二十九日、臺灣に上陸。臺灣を南進するが、途次、マラリアに罹患する。
明治二十八年(一八九五)十月二十八日午前七時十五分、臺南にて死亡。四十九歳。
明治二十八年(一八九五)十一月一日、菊花章頚飾、功三級金鵄勲章を授けられる。
明治二十八年(一八九五)十一月四日、陸軍大將に任じられる。
明治二十八年(一八九五)十一月五日「薨逝」(発喪)。
明治二十八年(一八九五)十一月十一日、國葬。
 
【墓所】
 東京都文京區大塚の豐島岡皇族墓地
 
【配偶】
 光子 みつこ
 山内豐信(容堂)の一女。
 安政六年(一八五九)五月六日生。
 明治十八年(一八八五)十一月五日離婚。
 ※『平成新修 旧華族家系大成 下巻』、七六六頁
 富子 とみこ
 島津久光の養女。
 伊達宗徳[宇和島]の二女。
 文久二年(一八六二)閏八月八日生。
 昭和十一年(一九三六)三月二十日薨逝。
 
【子女】
恒久王 つねひさ
竹田宮(一)
延久王 のぶひさ
滿子女王
のち甘露寺滿子 かんろじ みつこ
成久王 なるひさ
北白川宮(四)
貞子女王
のち有馬貞子 ありま さだこ
輝久王
のち小松輝久 こまつ てるひさ
二荒芳之 ふたら よしゆき
武子女王
のち保科武子 ほしな たけこ
上野正雄 うへの まさを
信子女王 ことこ
擴子女王
のち二荒擴子 ふたら ひろこ
 
【逸事等】
グリフィス『ミカド』には、一八七一年一月八日の大樂源太郎ら萩脱藩士の亂では、京都にいた能久を擁立しようとした動きがあったかのように書かれている。
グリフィス『ミカド』(岩波文庫)、一五一〜一五二、一八九〜一九〇頁
プロシア陸軍大學校へ留學。ドイツ人貴族の娘との結婚を願い出て許されず、西南戰爭を機に歸國を命じられた。歸國に際して、ドイツの新聞に婚約の廣告を出したため、大問題となり、婚約破約の上、謹愼を命じられた。
『明治天皇紀』四
能久親王妃光子が病弱で嫡子を儲け難かったため、將來の繼嗣として、多田王(朝彦親王[久邇宮]の四男。のちの守正王[梨本宮])が能久親王・光子のもと北白川宮家に預けられた。しかし、明治十八年(一八八五)、光子妃の離婚により解消、多田王は、北白川宮家を離れた。
 
【能久親王の臺灣出兵に關聯する逸事等】
臺灣へは、本來、貞愛親王[伏見宮]が行く予定であったが、これまでの汚名を晴らさんとする能久親王の強い要請により、能久親王が出征することになったという。
能久親王の死については、現地民襲撃説、拳銃自殺説、がある。しかし、軍醫として能久親王に從軍した森林太郎(鴎外)の手になる病状記録には、それらの説を裏づけるような記載は見られない。
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月十八日
・・・・・ 宮は此日午前三時惡寒、腰痛を覺えさせ給ひしかど、七時病を力めて嘉義を發せさせ給ひ、午後一時二十分大茄苳に至らせ給ふ。此時達診しまつるに、後頭重、口渇、全身倦怠などおはしましき。一時三十分體温三十八度、四 脉八十一至おはしき。鹽酸規尼涅を上りぬ。・・・・・
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月十九日
・・・・・ 宮は朝安溪寮にいますを、達診しまつりぬ。體温三十八度、一 脉八十至、全身倦怠稍加はらせ給ふ。脾の少しく肥大せるを認めつ。午前六時出で立たせ給ふとき、御馬に乘らせ給ふべくもあらねば、轎に宮を載せ參らせつ。・・・・・ 午後五時宮古旗後に着かせ給ふ。御服藥は前方を服せさせ給ふ。・・・・・
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月二十日
・・・・・ 宮は朝體温三十八度、五 脈九十二至にして、食思振はせ給はざりき。轎に乘りて古旗後を立たせ給ひ、午後四時半灣裡に至らせ給ひ、五時半某の民家に宿りましぬ。夕の體温三十九度、八 脈九十二至なりき。ANTIFEBRIN(【傍】アンチフエブリン)を服せさせ給ふ。半夜下痢の爲めに次硝酸蒼鉛を上る。・・・・・
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月二十一日
・・・・・ 宮は朝の體温三十九度、五 脈百至おはしき。著く疲れさせ給ふと見えさせ給ひしかば、轎に載せまゐらすべきにあらずとて、竹四本を結びて長方形になし、これに竹蓆を張り、藁を敷き、毛布を展べ、上に竹を架して淺葱色の木綿布を覆ひて、日を遮るやうに補理(【振假名】しつら)ひ、これに載せまつりて土人に舁かせ、午前七時灣裡を立ちぬ。午後三時大目降に着かせ給ふ。夕の體温四十度、一 脈百零一至。倦怠愈甚しきを覺えさせ給ふ。規尼涅、赤葡萄酒、里謨那底を上りぬ。夜下痢せさせ給ふ。・・・・・
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月二十二日
・・・・・ 宮は朝の體温三十九度、六 脈八十至おはしき、午前七時三十分舁かれて大目降を發せさせ給ひ、午後五時三十分臺南に着かせ給ふ。夕の體温四十度、二 脈百零一至おはしき。赤葡萄酒、里謨那底を上りぬ。此夜より徹夜して看病せしむ。
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月二十三日
朝の體温三十九度、二 脈百二十至おはしき。・・・・・ 午後三時諸症稍増惡せさせ給ふ。・・・・・ 夕の體温三十九度、九 脈百二十至おはしき。軟便を下させ給ふこと三度、次硝酸蒼鉛、龍腦、赤葡萄酒、里謨那底を上る。夜譫語せさせ給ふ。此日より客に逢はせ給はず。貞愛親王に逢はせ給ひしを終として、次いで至れる高島軍司令官は空しく歸りぬ。
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月二十四日
朝の體温三十九度、零 脈百十至呼吸三十、夕の體温三十九度、三 脈百十九至呼吸三十三。口渇せさせ給ひて、舌に褐色の苔あり。右肩胛下隅の下に濁音ありて、兩胸の呼吸音〓【鹿鹿鹿】雜に、右胸に水泡音を聞く。こは肺炎の徴なり。尿量六百立方珊米にして、蛋白の痕迹あり。實岐答利斯、吐根の浸劑、龍腦、赤葡萄酒、牛乳を上る。
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月二十五日
朝の體温三十八度、五 脈百零四至呼吸三十、夕の體温三十八度、零 脈軟細にして百二十至呼吸三十。便秘せさせ給ふ。右肩胛下隅の下に捻髪音を聞く。時時應答不明におはしき。
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月二十六日
朝の體温三十八度、二 脈百十八至、夕の體温三十八度、零 脈百十九至呼吸二十九。唇乾き、舌潤ひ、面、胸、手背に粘汗を帶びさせ給ふ。龍腦、加斯篤里幾尼涅を上る。
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月二十七日
朝の體温三十八度、六 脈百二十至呼吸三十、夕の體温三十七度、六 脈百二十至呼吸三十。舌及四肢振顫せさせ給ふ。全身粘汗を帶びさせ給ふ。時時精~朦朧におはす。濁音及捻髪音左胸に及びぬ。前方を上り、龍腦の皮下注射をなしまゐらす。午後九時の體温三十七度、五 脈百三十至呼吸三十七。・・・・・
森林太郎『能久親王事蹟』明治二十八年十月二十八日
午前三時三十分脈不正にして百三十五至。五時體温三十九度、六 脈百三十六至呼吸四十五。四肢厥冷して冷汗を流させ給ふ。人事を省せさせ給はず。龍腦の皮下注射、COGNAC(【傍】コニヤツク)酒の灌腸をなしまゐらす。七時十五分病革(【振假名】すみやか)になりて、幾ならぬに薨ぜさせ給ふ。
「榎本春之助氏との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編)、講談社、一九六八年四月、五五頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、五四頁)によると、邦芳王[伏見宮繼嗣](貞愛親王の二男)の精神病發病は、「北白川宮様が台湾でなくなられたことで衝撃を受け」たことによるという。
 
【文獻等】
『孝明天皇紀』巻八十九 安政五年十月二十五日丁卯
『詰所系圖』仁孝天皇、六六頁
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「伏見宮」 九七頁
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「北白川宮」 一〇六頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三五〜三六頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 二九〜三〇頁
森林太郎『能久親王事蹟』(春陽堂、明治四十一年(一九〇八)六月初刊。森林太郎『鴎外全集 著作篇』第十一巻 史傳 五(東京都千代田區~田一ツ橋、岩波書店、昭和二十八年(一九五三)三月)、一一一〜二三五頁 所收。『鴎外歴史文学集』第一巻(岩波書店)再録
『史蹟調査報告 第一輯 北白川宮能久親王御遺跡』(臺北、臺灣總督府内務局、昭和十年(一九三五)十二月
早稲田大学中央図書館所藏[288/88](柳川平助舊藏書)
青沼鋒太郎『能久親王御遺蹟建碑志』(北白川宮能久親王御遺蹟保存會、昭和十五年(一九四〇)二月
瀬谷義彦「北白川宮を祀る官社創建をめぐって」(『北茨城史壇』第八号、北茨城市教育委員会、平成元年(一九八九)三月、一〜一〇頁)
瀧川政次郎「輪王寺宮の令旨」(瀧川政次郎『日本歴史解禁』(東京、創元社、昭和二十五年(一九五〇)十二月)、一三七〜一三九頁
瀧川政次郎「公現法親王の即位」(瀧川政次郎『日本歴史解禁』(東京、創元社、昭和二十五年(一九五〇)十二月)、一三九〜一四二頁
広岡裕児『皇族』(読売新聞社、一九九八年八月第一刷)、二一〜四四頁
徳富猪一郎『近世日本國民史 明治天皇御宇史 第十四册 〔奧羽平定史〕』(明治書院。昭和十九年(一九四四)十月
有馬頼義「北白川宮生涯」(『別册文藝春秋』第一〇五號(昭和四十三年(一九六八)九月)、二二八〜三一四頁


 
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更新日時: 2006.06.15.
公開日時: 2005.08.21.


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