資邦王 / 白川資邦


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[資邦]

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資邦王
 いちじ源朝臣資邦
 神祇伯[白川神祇伯(八)]
 ※ 宮内庁書陵部所藏『日本帝皇系圖』[271-57]附載「伯」系圖には「
資郡王」と見える。
 
【出自】
 寛和御後
 源朝臣資光(もと資光王)の男子。
 業資王の孫。
『尊卑分脈』「寛和 華山」資光王の子
 〔神祇脇坂本・前田一本・内閣文庫本〕伯
 左少將 從二
資 邦 王──────
 母左京權〔脇坂本・前田一本・内閣文庫本無〕大夫
        信實女
 〔永仁六十二二薨脇坂本・前田一本・内閣文庫本
 
【母】
 藤原朝臣信實の女子。
『諸家傳』十一「白川」資邦
〔業資王孫〕資光子 母左京權大夫信實女 〔又爲資宗卿子
 
【經歴】
一二三三年(貞永二年/天lウ年)生か。
資邦王
嘉禎三年(一二三七)正月五日、從五位下に敍される(王氏爵。寛和御後)。五歳か。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
嘉禎三年正月五日叙位(寛和御後〔給歟〕五男〔才歟〕)。
寶治元年(一二四七)三月十六日、侍從(于時王氏)
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
寶治元年三月十六日侍從(于時王氏)。
源朝臣資邦
寶治元年(一二四七)三月十六日から建長三年(一二五一)正月五日までの間に、源朝臣を賜姓される。
建長三年(一二五一)正月五日、從五位上に敍される。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
建長三年正月五日從五位上。簡一。于時源氏。
建長四年(一二五二)三月二十七日、左近衞權少將となる。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
同【建長】四年三月廿七日左少將。
建長五年(一二五三)正月十三日、石見介を兼任。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
同【建長】五年正十三〔兼〕石見介。
建長六年(一二五四)十月一日、正五位下に敍される。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
同【建長】六年十一正五位下。
建長八年(一二五六)正月六日、從四位下に敍される。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
康元々年正〔三〕六從四位下(勞)。
建長八年(一二五六)三月六日、左近衞少將に還任。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
同年【康元元年】三月六還任左少將。
建長八年(一二五六)三月十五日、石清水臨時祭使を勤仕。
『百錬抄』康元元年三月十五日丙午
石清水臨時祭使也。左少將資邦爲使。
正嘉元年(一二五七)十一月一日、右近衞少將に轉任。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
正嘉元年十一一可渡右之由宣下。
正元二年(一二六〇)三月二十九日、伯耆介を兼任。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
文應元年三廿九伯耆介。
文應二年(一二六一)正月五日、從四位下に任じられる。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
弘長元年正五從四位上(府勞)。
文永五年(一二六八)正月五日、左少將を免じられ、正四位下に任じられる。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
文永五年正五正四位下。罷少將叙之。
文永五年(一二六八)七月七日、復任。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
同【文永】五年七十七復任(父)。
文永六年(一二六九)三月二十九日、左近衞少將に還任。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
同【文永】六年三廿九還任左少將〔復任父いノイ〕。
弘安二年(一二八〇)四月十七日、左近衞少將を辭す。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」袖書
『諸家傳』十一「白川」資邦
弘安三〔二〕四十七罷所帶左少將、以男侍從業顯申任之。
弘安五年(一二八三)十二月二十六日、從三位に敍される。
『公卿補任』弘安五年(壬午)非參議 從三位「白川源資邦」
十二月廿六日叙(元前左少將)。
故從三位神祇伯業資王孫。故正四位下行侍從資光子。母。
嘉禎三正五叙爵(寛和御後。五男【ママ】)。寶治元三十六侍從(于時王氏)。建長三正五從五上(簡一。于時源氏)。同四三廿七左少將。同五正十三兼石見介。同六十一正五下。康元元正六從四下(勞)。同三月六還任少將。正嘉元十一一可渡右之由宣下。文應元三廿九伯耆介。弘長元正五從四上(府勞)。文永五正五正四下(罷少將叙之)。同六三廿九還任左少將。同五七十七復任(父)。弘安二四十七罷所帶左少將。以男侍從業顯申任之。
『諸家傳』十一「白川」資邦
同【弘安】五年十二廿六從三位(元前左少將)。
弘安七年(一二八五)閏四月十三日、松尾社奉幣使を勤仕。
『勘仲記』弘安七年閏四月十三日辛酉
白川源三位資邦卿
弘安十一年(一二八八)四月二十五日、臨時二十二社奉幣の平野使を勤仕。
『勘仲記』弘安十一年四月廿五日己卯
奉幣諸社使
 ・・・・・
 平野
  從三位源朝臣資邦 ・・・・・
正應三年(一二九〇)三月六日、正三位に敍される。
『公卿補任』正應三年(庚寅)非參議 從三位「白川源資邦」尻付
三月六日正三位
『諸家傳』十一「白川」資邦
正應三年三六正三位。
資邦王
正應四年(一二九一)九月九日、~祇伯に任じられ、王となる。
『公卿補任』正應四年(辛卯)非參議 正三位「白川源資邦」尻付
九月九日任~祇伯。今日止姓。
『諸家傳』十一「白川」資邦
同【正應】四年九九任~祇伯。今日止姓〔爲王氏〕。
永仁二年(一二九四)三月二十六日、播磨權守を兼任。
『公卿補任』永仁二年(甲午)非參議 正三位「白川源資邦」尻付
『諸家傳』十一「白川」資邦
永仁二年三廿六日〔兼〕播磨權守。
永仁二年(一二九四)四月三十日、從二位に敍される。
『公卿補任』永仁二年(甲午)非參議 正三位「白川源資邦」尻付
『諸家傳』十一「白川」資邦
同年【永仁二年】四卅從二位元前左少將
永仁二年(一二九四)十一月十日、神祇伯を免じられる。
『公卿補任』永仁二年(甲午)非參議 正三位「白川源資邦」尻付
~祇伯。三月廿六日兼播磨權守。四月卅日從二位。十一月十日止伯。
『諸家傳』十一「白川」資邦
同年【永仁二年】十一十止伯。
永仁六年(一二九八)十二月二日、薨逝。
『公卿補任』永仁六年(戊戌)非參議 從二位「×資邦王」尻付
十二月二日薨。
『諸家傳』十一「白川」資邦
同【永仁】年十二二薨。
 
【子女】
 □
源朝臣業邦
 □ 業顯王
 ○「章義門院小兵衛督」
    『玉葉和歌集』に入歌。
 □【僧】源深
 
【著述】
『白川家文書』「資邦王訴状」(永仁六年(一二九八)四月十一日)
翻刻、曾根研三『伯家記録考』三四四〜三四六頁(資料編第五章四)
曾根研三『伯家記録考』第一〇圖版
曾根研三『伯家記録考』一四二〜一四三頁(本編第五章二五)
 
【關聯ホームページ】
国文学研究資料館 (http://dbrec.nijl.ac.jp/
日本古典籍総合目録データベース (http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/
資邦王訴状
 書誌 (http://dbrec.nijl.ac.jp/KTG_B_100250558
 書誌詳細 (https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100250558/
 画像 (https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100250558/viewer


 
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更新日時: 2020.08.31.
公開日時: 2020.06.28.


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