業顕王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[業顯]

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業顯王
 もと源朝臣業顯
 
【官位】
 神祇伯
  ※ 白川神祇伯(一〇)(一三)
 從二位
 
【出自】
 
資邦王の男子。
『尊卑分脈』「寛和 華山」資邦王の子
│左少將
│伯 從二 〔侍從脇坂本・前田一本・内閣文庫本
業 顯 王──────
│母藤原〔脇坂本・前田一本・内閣文庫本無〕定氏女

│元广二十二廿七卒【薨】
│      五十五才
 
【母】
 藤原朝臣定氏の女子。
『諸家傳』十一「白川」業顯
資邦王男 母藤定氏女
 
【經歴】
一二六六年(文永三年)生。
『公卿補任』より逆算。
源朝臣業顯
文永七年(一二七〇)正月五日、神仙門院御給により源氏として敍爵。五歳
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
『諸家傳』十一「白川」業顯
文永七年正月五日敍爵(五歳)〔于時源。神仙門院當年御給(五歳)
建治二年(一二七六)三月六日、侍從に任じられる。十一歳。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
建治四年(一二七八)正月六日、從五位上に敍される(簡一)。十三歳。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
弘安二年(一二七九)四月十七日、左近衞少將に任じられる。十四歳。(父左少將資邦が官職を辭し、代わって業資を任ずるように申上)。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
『諸家傳』十一「白川」業顯
弘安二年〔三いノイ〕正月五日〔遷〕左少將〔父左少將資邦朝臣罷所帶申任之(十四歳)
弘安三年(一二八〇)十一月四日、正五位下に敍される。十五歳。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
『諸家傳』十一「白川」業顯
同【弘安】三年十一月四日正五位下(十五歳)
弘安六年(一二八三)正月五日、從四位下に敍される(府勞)。十八歳。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
『諸家傳』十一「白川」業顯
同【弘安】六年正月五日從四位下〔府勞(十八歳)
弘安六年(一二八三)二月二十二日、少將に還任。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
『諸家傳』十一「白川」業顯
同年【弘安六年】二月廿二日還任。
弘安九年(一二八六)十月一日、從四位上に任じられる。二十一歳。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
正應三年(一二九〇)正月五日、正四位下に敍される。二十五歳。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
永仁六年(一二九八)三月二十四日、出羽權介を兼任。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
永仁六年(一二九八)八月五日、伏見院の常盤井殿御幸に供奉。
『葉黄記』永仁六年八月五日(柳原家記録827『御幸部類』)
院(【傍注】伏見)脱屣之後初御幸嚴親法皇(【傍注】後深草)御在所常盤井殿 ・・・・・
次殿上人 ・・・・・
 ・・・・・
 左少将業顕朝臣 ・・・・・
 ・・・・・
永仁六年(一二九八)十一月十四日、左中將に任じられる。三十三歳。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
『諸家傳』十一「白川」業顯
同年【永仁六年】十一月十四日〔補〕左中〔少〕將〔以上源朝臣
業顯王
正安二年(一三〇〇)十一月二日、神祇伯に任じられ、王氏となる。三十五歳。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
正安二年(一三〇〇)十二月二十二日、從三位に敍される。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」尻付
十二月廿二日叙。神祇伯。
『公卿補任』正安二年(庚子)非參議從三位「業顯王」袖書
故從三位資邦王男。
[文永七正叙爵(于時源。神仙門院當年御給)。建治二三六任侍從。同四正六從五上(簡一)。弘安二四十七遷任左近少將(父左將資邦朝臣罷職申任之)。同三十一日叙正五下。同六五叙從四下(府勞)。同年二【十二?】廿二還任少將。同九十一從四上。正應三正五叙正四下。永仁六三廿四兼出羽權介。同年十一十四任左少將(以上源朝臣)。正安二十一二遷任神祇伯(于時止源朝臣。爲王氏)。]
乾元二年(一三〇三)十月二十九日、侍從に任じられるが、後日に召名を止めるべしとの由を仰せられる。三十八歳。
『公卿補任』乾元二年(癸卯)非參議從三位「業顯王」尻付
神祇伯。十月廿九日任侍從。後日可止召名之由被仰。
嘉元二年(一三〇四)三月七日、美乃權守を兼ねる。
『公卿補任』嘉元二年(甲辰)非參議從三位「業顯王」尻付
嘉元二年(一三〇四)六月二日、神祇伯を免じられる。三十九歳。
『公卿補任』嘉元二年(甲辰)非參議從三位「業顯王」尻付
神祇伯。三月七日兼美乃權守。六月二日止伯。
『公卿補任』嘉元三年(乙巳)非參議從三位「業顯王(四十)」尻付
美乃權守。
『公卿補任』嘉元四年(丙午)非參議從三位「業顯王(四十一)」尻付
美乃權守。
德治二年(一三〇七)十一月一日、正三位に敍される。四十二歳。
『公卿補任』德治二年(丁巳)非參議從三位「業顯王(四十二)」尻付
十一月一日正三位。
『公卿補任』德治三年(戊申)非參議正三位「業顯王(四十三)」
延慶二年(一三〇九)十二月十九日、神祇伯に還任。美濃權守はもとの如し。四十四歳。
『公卿補任』延慶二年(己酉)非參議正三位「業顯王(四十四)」尻付
十二月十九日還任神祇伯。美乃權守。
延慶三年(一三一〇)四月七日、從二位に敍される。四十五歳。
『公卿補任』延慶三年(庚戌)非參議正三位「業顯王(四十五)」尻付
神祇伯。美乃權守。四月七日叙從二位。
正和二年(一三一三)以降、美濃權守を止められたか。
『公卿補任』正和二年(癸丑)非參議從二位「業顯王(四十八)」尻付
神祇伯。美乃權守。
『公卿補任』正和三年(甲寅)非參議從二位「業顯王(四十九)」尻付
〔神祇伯〕
『公卿補任』正和五年(丙辰)非參議從二位「業顯王(五十一)」尻付
神祇伯。
正和六年(一三一七)正月九日、病氣のため神祇伯を辭し、伯職を子の資淸に讓る。五十二歳。
『公卿補任』正和六年(丁巳)非參議從二位「業顯王」尻付
神祇伯。正月九日止伯。讓男右中將資淸朝臣。所勞之故也。
文保二年(一三一八)二月十一日、侍從に任じられる。五十三歳。
『公卿補任』文保二年(戊午)非參議從二位「業顯王(五十三)」尻付
二月十一日下名次任侍從。
『公卿補任』文保三年 非參議從二位「業顯王(五十四)」尻付
侍從。前神祇伯。
元應二年(一三二〇)十二月二十七日(または二十六日、または二十八日)、薨逝。五十五歳。
『公卿補任』元應二年(庚申)非參議從二位「×業顯王」尻付
侍從。十二月廿七【廿六 廿八】日薨(五十五)。
『諸家傳』十一「白川」業顯
元應二年十二廿七〔六。八〕薨(五十五歳)
 
【子女】
資淸王
源朝臣資廣
資兼王 のち源朝臣資兼
載子女王 [後二條院の即位式の褰帳女王]
瑃子女王(もと忠子[女王])[後醍醐天皇の即位式の褰帳女王]
資子王 / 資子女王 [光嚴院・光明院の即位式の褰帳女王]【資淸王の子となる】
 
【著述等】
田中本『業顯王記』「正安三年西宮參詣記」
 正安三年十一月・十二月
白川家本『業顯王記』
 正安三年三月
〔資料紹介〕桜井彦「業顕王記断簡 ─正安三年─」(『書陵部紀要』第四十七号、一九九六年三月、八一~八三頁+圖版)
 
【文献】
曽根研三『伯家記録考』


 
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公開日時: 2020.05.24.

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