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翻刻、曾根研三『伯家記録考』二八四〜二八五頁(資料編第二章六)
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曾根研三『伯家記録考』八三〜八四頁(本編第二章)
二一 伯家褰帳女王例言上状(○資料編第二章六參照)
白川資光が仁治三年後嵯峨天皇の御即位に當りて記したる褰帳女王に關する文書二通を收めたるものにして、共に案文なり。即ち一は時の~祇伯たる從兄弟の資基王が後嵯峨天皇御即位に際して褰帳女王として出すべき女子なきを以て、妹の宗子を充てんとしたるを退け、且つ自家より女王を出して其の恩賞のもとに~祇伯たらんと企てたる鬱訴の言上状なり。他は右の鬱訴状が容れられざりし結果、六月二十六日付を以て、資基王の父資宗王が御即位の前年たる仁治二年に~祇伯を其の子資基王に讓りしは、資光の父業資王が資宗王に對して資光成長後は~祇伯を同人に讓るべしとの遺命に背くものなりとて之を詰責し、且つ早く己に伯を讓らん事を西園寺公相より幕府に披露せらるべき事を求めたる一種の披露状(○第五圖版參照)なり。・・・・・
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曾根研三『伯家記録考』三二頁
顯廣王の子仲資王に數子ありしも、業資・資宗の兄弟相次いで伯となり、王を稱せしかば、伯家の家系は之が爲め二流に分立せり。即ち業資王が元仁元年閏七月十五日薨去せし時、其の子資光猶幼少の故を以て、弟資宗に遺命して資光成長後、伯職並に管領せる廣田社領の返還を約して伯職を繼承せしめたり。然るに資宗伯王となるの後、兄の業資王の遺命を果さざるのみならず、反つて仁治二年官を辭するや、同年十月其の子資基をして之に代らしめたり。茲に於てか、資光は其の叔父資宗王に對して快からず、遂に仁治三年後嵯峨天皇即位に當りて自家より褰帳女王を出し、その恩賞を以て資基王に代りて伯たらんと企てしも、事成就せざるの間に逝去せり。
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