源顕英


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[顯英]

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顯英
 源朝臣顯英
 
【官位】
 從三位
 左中將
 
【稱號】
 「白川少將」
 「伯少將」「伯中將」
 
【出自】
 
資英王の男子。
『尊卑分脈』「寛和 華山」、資英王の子
從三
右中將 正四下【「正四下」脇坂本・前田一本・内閣文庫本ナシ】
└顯英───────────
 母【脇坂本・前田一本・内閣文庫本ナシ】
 〔广永四十ゝ卒【ママ】【脇坂本・前田一本・内閣文庫本】〕
 
【經歴】
暦應四年(一三四一)正月六日、正月敍位に於いて從五位下に敍される(臨時給)。
『中院一品記』暦應四年正月六日(『大日本史料』第六編之六所引)
今日敍位儀也。・・・・・
・・・・・
從五位下
 基宗王(天暦御後)
 ・・・・・
 源朝臣通茂(氏)
 ・・・・・  源朝臣顯英(臨時)
 ・・・・・
  暦應四年正月六日
左少將に任じられる。
應安四年(一三七一)三月二十三日、踐祚のため土御門殿に向かう緒仁親王(後圓融院)の前駈を勤仕し、後圓融院の受禪に參仕。
『後愚昧記』應安四年三月廿三日所收「帥大納言(實音卿)記」
・・・・・ 顯英[【ク】等]前駈。
『後愚昧記』應安四年三月廿三日所收「中原師香記」
伯少將顯英
應安四年(一三七一)閏三月二十一日、新院(後光嚴院)御幸始に於いて殿上人として勤仕。時に左少將。
『後深心院關白記』應安四年閏三月廿一日甲戌
今日新院【後光嚴院】御幸始也(御幸北山也)。・・・・・
  供奉人
    公卿
 ・・・・・
    殿上人
 ・・・・・
 左少將顯英【白川】 ・・・・・
 ・・・・・
『師守記』應安四年閏三月廿一日
今日、新院【後光嚴院】御幸始也。・・・・・
   殿上人
 ・・・・・
 白川少將
 顯英 ・・・・・
『後愚昧記』應安四年閏三月廿一日
伯少將
顯英(常縫腋。五位袍)
應安四年(一三七一)正月五日、正月敍位に於いて從五位上に敍される。
『後愚昧記』應安四年記紙背文書、應安四年正月五日敍位聞書
從五位上 ・・・・・ 源顯英 源兼邦 ・・・・・ 橘知廣
應安四年(一三七一)四月十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕。
『師守記』應安四年四月十五日
賀茂祭也。近衞使白川少將顯英。・・・・・
應安七年(一三七四)四月十四日、賀茂祭の近衞使を勤仕(沙汰は、兄の顯邦王)。時に左少將。
『師守記』應安七年四月十四日
賀茂祭。・・・・・ 近衞使左少將顯英朝臣(伯三位【顯邦王】被沙汰立)・・・・・
『後愚昧記』應安七年四月十四日
今日、賀茂祭也。使伯中【ママ】將【源顯英】云々。女使平宰相行知卿【安居院】女【知子】云々。・・・・・
應安七年(一三七四)九月二十八日、小除目に於いて右中將に任じられる。
『後愚昧記』應安七年九月廿八日、除目聞書
右近中將源顯英
永和二年(一三七六)四月二十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕した「伯中將」は、源顯英であると推定される。
『後愚昧記』永和二年四月廿五日
賀茂祭。使伯中將。如【女】使帥典侍(隆郷卿【四條】女)。・・・・・
永和四年(一三七八)四月二十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕。
『後愚昧記』永和四年四月十九日
賀茂祭也。近衞使伯中將顯英朝臣。女使典侍藤原兼子(右大弁宰相【廣橋仲光】女)。
康暦元年(一三七九)四月、左近衞權中將となる。
壬生家文書[壬293]叙位除目関係文書23『叙位七卷文書莒文外文書等草(至コ四年正[月])』「兵部省 合武官主典已上補任帳」左近府/權中將
  正四位下源朝臣顕英 康暦元年四月 日任
康暦元年(一三七九)四月二十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕。時に左中將。
『後愚昧記』康暦元年四月廿五日
今日賀茂祭也。近衛使左中將顯英【白川】。女使典侍( 子【兼子】)(新藤中納言仲光卿【廣橋】女)。日來四条前宰相顯保卿女可懃仕之由治定了。而彼卿有所望事依爲難題、無 勅許云々。仍仰仲光卿云々。檢非違使、五位尉藤原宗成。号本庄(大樹室家【藤原業子[日野]】乳父。資教卿【日野】家人也)。并、志明ヽ(明宗【坂上】子)云々。本庄殊刷行粧云々。大樹【義滿】講棧敷(本庄儲之云々。一条烏丸)見物之。今年依彼本庄之渡、多棧敷等云々。九条前關白【經教】并西園寺前右府【實俊】會合棧敷云々。前右相者關白(忠基公。前關白息)室家父也。
康暦二年(一三八〇)正月二十九日、後光嚴院七回忌法會に參仕。
『伯家部類』「白川家褰帳女王例」
  康暦二年正月廿九日法會役之事
顯英朝臣(右ハ本家資英王ガ庶子也。不賜他稱號、仍稱白川歟。如此之類、傍例等可有之事)
永コ二年(一三八二)十二月二十八日、後小松院の即位に於いて右近衞次將として參仕。
『後愚昧記』永コ二年記、十二月廿八日後小松院即位記
顯英朝臣 ・・・・・
至コ四年(一三八七)正月までに正五位下に敍される。
壬生家文書[壬293]叙位除目関係文書23『叙位七卷文書莒文外文書等草(至コ四年正[月])』「兵部省 合武官主典已上補任帳」左近衞府/權中將
應永二年(一三九五)六月三日、從三位に敍される。
『勝定院殿御一級記』應永二年六月三日(『壬生家雜文書拾遺』二-一四一七號。『壬生家文書』五ノ一七四頁)
任大臣節會也。・・・・・ 有小除目。・・・・・
從三位 源顯英
『公卿補任』應永二年(乙亥)非參議從三位「白川源顯英」尻付
六月三日叙。
『公卿補任』應永二年(乙亥)非參議從三位「白川源顯英」袖書
父。
『公卿補任』應永三年(丙子)非參議從三位「白川源顯英」
應永四年(一三九七)四月、出家。
『公卿補任』應永四年(丁丑)非參議從三位「白川×源顯英」
應永四年(一三九七)十月、薨逝。
『公卿補任』應永四年(丁丑)非參議從三位「白川×源顯英」
四月日出家。十月日薨。
 
【子女】
資高王 のち源朝臣資高


 
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更新日時: 2021.04.18.
公開日時: 2012.01.09.


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