源顕英
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『尊卑分脈』「寛和 華山」、資英王の子
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暦應四年(一三四一)正月六日、正月敍位に於いて從五位下に敍される(臨時給)。
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左少將に任じられる。 | |||||||||||
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應安四年(一三七一)三月二十三日、踐祚のため土御門殿に向かう緒仁親王(後圓融院)の前駈を勤仕し、後圓融院の受禪に參仕。
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應安四年(一三七一)閏三月二十一日、新院(後光嚴院)御幸始に於いて殿上人として勤仕。時に左少將。
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應安四年(一三七一)正月五日、正月敍位に於いて從五位上に敍される。
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應安四年(一三七一)四月十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕。
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應安七年(一三七四)四月十四日、賀茂祭の近衞使を勤仕(沙汰は、兄の顯邦王)。時に左少將。
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應安七年(一三七四)九月二十八日、小除目に於いて右中將に任じられる。
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永和二年(一三七六)四月二十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕した「伯中將」は、源顯英であると推定される。
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永和四年(一三七八)四月二十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕。
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康暦元年(一三七九)四月、左近衞權中將となる。
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康暦元年(一三七九)四月二十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕。時に左中將。
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康暦二年(一三八〇)正月二十九日、後光嚴院七回忌法會に參仕。
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永コ二年(一三八二)十二月二十八日、後小松院の即位に於いて右近衞次將として參仕。
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至コ四年(一三八七)正月までに正五位下に敍される。
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應永二年(一三九五)六月三日、從三位に敍される。
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應永四年(一三九七)四月、出家。
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應永四年(一三九七)十月、薨逝。
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