五辻宮 熈明親王


前頁 「 煕 [煕平]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[煕明@]

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煕明親王
 五辻宮(一)
 
【官位】
 三品
 兵部卿
 
【稱號】
 「一宮」「一宮御方
 「
深草宮
 「五辻親王家
 
【出自】
 久明親王の男子(一宮)。
 後深草院の孫。
 伏見院の猶子。
刻本『皇胤紹運録』では、「久明親王」の子孫の系譜が、
 久明親王
   └ 守邦親王
      └ 久良親王
         ├ 宗明
         └ 煕明親王
と擧げられており、煕明親王を久良親王の男子と作す。『續史愚抄』康永三年正月五日丁卯條も、「 無品煕明親王(無品入道久良親王二男。後深草親王御後)」と作す。しかし、煕明親王が久良親王(一三一〇生)の男子であるとすると、煕明親王が伏見院(文保元年(一三一七)崩御)の猶子であることと矛盾する。また、刻本『皇胤紹運録』は、久明親王の男子である久良親王を守邦親王の男子としているように、系譜に混亂が見られる。よって、刻本『皇胤紹運録』の系譜のうち、確實な情報は、煕明親王が久明親王の系統に屬す、ということに過ぎない。
『皇親系』も、誤って久良親王の二男と作す。
 
【生母】
 久明親王廊御方
 藤原朝臣公親[三條]の女子。
『尊卑分脈』公季公孫(三條)「(内大臣)公親」の子「女子」
【尻付】久明親王廊御方。兵部卿親王【煕明親王】母
【左袖書】母 
 
【經歴】
正安三年(一三〇一)以前に誕生。
東山御文庫本『一代要記』四 に、「後深草天皇」の皇子「久明親王」の諸子が、
   二品
守邦親王
 一宮
ヽヽ

久良 三位中將

聖惠

行澄

と擧げられており(『続神道大系 朝儀祭祀編 一代要記』(三)、一七〇頁)、「一宮」の「ヽヽ」が煕明親王にあたると考えられる。よって、煕明親王の生年は、守邦親王の生年たる正安三年(一三〇一)以前であると考えられる。
文保元年(一三一七)以前に、伏見院(煕仁)の猶子となる。
『看聞日記』永享四年【一四三二】四月四日條に、「五辻宮ハ後深草院後胤也。代々、伏見院・花園院爲御猶子、御諱字賜之」とある。よって、煕明親王は、伏見院の猶子となり、その偏諱を賜わったものと考えられる。そして、それは、伏見院崩御の文保元年(一三一七)以前であると考えられる。
親王宣下
嘉暦二年(一三二七)九月十四日、守良親王龜山院の男子)より「五辻屋地」を讓られる。
『東n寢C藏院文書』嘉暦二年九月十四日付 守良親王讓状
 此屋地内少堂并敷地老母聊申置旨候間、是本房讓給候き。其子細定直可申入候歟。
五辻屋地者、自[※守良親王の]祖父中納言入道(實任卿)相傳無相違地也。而依有所存、所讓進式部卿親王【久明親王】若宮御方【煕明親王】也。覺淨【守良親王】一期之後者、早可有御管領。云子孫、云他人、永代更不可有其妨。・・・・・
 嘉暦二年九月十四日      《花押》
【奥書】入道兵部卿宮御讓状(嘉暦貳九十四/五辻屋地事)
讓状において、守良親王が亡くなった後には「式部卿親王若宮御方」即ち煕明親王が直ちに相續し、守良親王の子孫もそのことを妨げることはできない、と取り決められた。
嘉暦三年(一三二八)九月二十一日、守良親王龜山院の男子)より、所領(備前國草部郷、播磨國鵤庄の一部、丹波國六人部庄の一部)を讓られる
『東n寢C藏院文書』元コ元年九月廿日付 北條守時安堵状寫
『東n寢C藏院文書』嘉暦三年九月廿七日付 五辻親王家御所御領注文寫
【端裏書】五辻親王家御所并御領註文(裏封)
  宮分
 備前國草部郷(南方/北方)
 播磨國鵤庄東南條
 丹波國六人部庄内大内村
         宮 村
         生野村(各皆除春富名)
     同新庄内私市村
         行枝名
 五辻殿
  嘉暦參年九月廿七日     沙彌乘圓(御判)
『太子町史』第四巻、第二章 二四二號文書
高橋一樹『中世荘園制と鎌倉幕府』(東京、塙書房、二〇〇四年一月)282〜284頁。
元コ元年(一三二九)九月二十日、所領ならびに五辻殿を、鎌倉幕府より安堵される。
『東n寢C藏院文書』元コ元年九月廿日付 北條守時安堵状寫
備前國草部郷、丹波國六人部庄内(大内・宮村・生野三个村、各皆除春富名)、同新庄内私市村、行枝名、出雲國大田荘(播磨國鵤庄東南條替)、并、五辻殿事、任去嘉暦三年九月廿一日御讓状可有御領掌之由、可被申入一宮御方【煕明親王】之旨候也。恐々謹言。
  元コ元年九月廿日       相模守(判)
謹上 辨入道殿
守良親王の薨後、嘉暦三年九月の取り決めを破り、守良親王の男子 宗覺が、正慶元年(一三三二)十一月八日、父親王の菩提のためと称して「五辻屋地」を大コ寺に寄進した。よって、煕明親王と宗覺との間に、五辻殿をめぐる爭論が起こったものと思われる。
『大コ寺文書』乙、元弘二年十一月八日付 五辻宮宗覺寄進状
本状は、元弘年號を使用していることから、正慶年號が停止された元弘三年五月以降に作成されたものである可能性があるか。
元弘三年(一三三三)八月四日、後醍醐天皇は、五辻宮領の地頭職を宗覺に安堵した。
『東n寢C藏院文書』元弘三年八月四日付 後醍醐天皇綸旨冩
備前國草部郷、出雲國太田庄、長門國牛牧庄等地頭職如元御管領不可有相違者、天氣如此。以此旨可被申入五辻宮給。仍執達如件。
  元弘三年八月四日              式部少輔(判)
 謹上 前右兵衞佐殿
ついで、建武二年(一三三五)七月十二日、「深草宮」即ち煕明親王は後醍醐天皇の綸旨を召し返され、宗覺が後醍醐天皇より五辻殿を安堵された。ここに、煕明親王は完全に反後醍醐天皇勢力へまわるに至ったことが推測される。
『大コ寺文書』乙、建武二年七月十二日付 後醍醐天皇綸旨冩
五辻殿事、被進深草宮【煕明親王】綸旨所被召返也。如元可有御管領之由、天氣所候也。以此旨可令申五辻宮【宗覺】給。仍執達如件。
 建武二年七月十二日       左中將《花押寫》
 大納言僧都御房
『東n寢C藏院文書』建武二年七月十三日付 五辻宮宗覺書状
五辻屋地事、先日令寄附當寺畢。而深草宮【熈明親王】事者被召返彼綸旨、宗覺如元可有管領之由、預勅裁了。任一諾之旨、件綸旨進于寺家候。一具(仁)可被納置寺庫候也。恐惶謹言。
 建武二年七月十三日       宗覺《花押》
大コ寺方丈
下文、「津輕の「式部卿宮」」をも參照せよ。
建武三年(一三三六)八月十五日の光明院の受禪により持明院統の勢力が恢復し、煕明親王も、同年八月晦日、源朝臣尊氏[足利]によって舊領を安堵された。
『東n寢C藏院文書』建武三年八月晦日付 足利尊氏安堵状寫
五辻親王家御領事備止武士之違亂、可令全所努給之状如件。
  建武三年八月晦日              源朝臣(御判)
康永三年(一三四四)一月五日、四品に敍される。
『園太暦』康永三年正月五日
今日敍位所望之輩爲申入、欲參仙洞光【ママ】内々付女房伺時宜之處、御風氣未快、可注進之旨示之。仍注折紙高檀紙進。
『園太暦』康永三年正月六日
及晩敍位聞書到來。續左。
・・・・・
四品煕明親王
『續史愚抄』康永三年正月五日丁卯
無品煕明親王(無品入道久良親王二男。後深草親王御後)敍四品(園太暦、除敍執筆抄、紹運録、公卿補任)。
その後、三品に昇敍。
柳原本『園太暦目録』貞和四年正月九日
貞和四年(一三四八)正月八日、「醉郷に入りて」急死した。
柳原本『園太暦目録』貞和四年正月九日
昨日三品行兵部卿煕明親王早世事(入醉郷頓死事)。
 
【津輕の「式部卿宮」】
名越時如・安達高景らが建武政權に對して起こした津輕での叛亂(元弘三年(一三三三)十二月、津輕大光寺楯(現、青森県平川市)の合戰に始まり、建武元年(一三三四)五月二十一日の陸奧石河楯(現、青森県弘前市)の戰いに續き、同年十一月、名越時如・安達高景らが降伏)には、「式部卿宮と自稱候し惡黨人」が擁立されていた。
『青森県史 資料編 中世1』五四号 南部光徹氏所藏遠野南部家文書「年缺六月十二日付北畠顯家袖判御ヘ書」
鈴木由美「中先代の乱に関する基礎的考察」(阿部猛編『中世の支配と民衆』(同成社中世史選書4。同成社、二〇〇七年十月)127〜165頁)146頁、同152頁 註(9)
奥富敬之「鎌倉北条氏の族的性格」(森克己博士古稀記念会編『史学論集・対外関係と政治文化』二(吉川弘文館、一九七四年
大友幸男『史料解読奥羽南北朝史』(三一書房、一九九六年)六九頁
久米邦武『訂正増補 大日本時代史 南北朝時代史』(早稲田大學出版部、大正五年(一九一六)二月)三二八〜三二九頁に、
奧羽越後の亂〕  本間澁谷の徒が敗北したりとて、敢て〓【僭−人+火】滅したるにはあらず、猶潜勢を養ひたり(明年の亂を伏す)、奧羽岩城の亂は、津輕と氣脈關連し、糠部郡(今の南部地方)の工藤、横溝諸族の嘯起より、四月陸奧國司より攝津人多田木工助貞綱を使節となし、津輕に赴き鎭定せしめ、五月曾我光高等は石川の寨を落せり、凶徒は式部卿宮と稱して衆を募り、六月南部又次カ師行等往いて中條を攻む、安藤五カ二カ国司と足利氏との命を左右して、外濱の地を横領せんとす、平賀某安藤と結び、貞綱の不知案内に乘じて之を欺罔す、糠部やゝ定まれど、津輕は猶穩かならず(南部文書/多田文書)。・・・・・ 八月陸奧守北畠顯家、津輕凶徒追罸として自ら發向せんとし、岩城諸郡の兵を催發し、六日伊賀三カ盛光等府中を發して(府中とは顯家に從へ【三二九頁】るなり)津輕に向ひ、南部師行等と持寄城を會撃し、月を互る(南部文書、飯野八幡文書)、と古文書に見ゆ。
とあり、「式部卿宮」は詐稱であると見做されている。
この「式部卿宮」に關聯して、岡田清一「元弘・建武期の津軽大乱と曾我氏」(岡田清一『鎌倉幕府と東国』(続群書類従完成会、二〇〇六年)所收。初出、一九九〇年)三八一頁に、
・・・・・ 建武政権の派遣した義良親王に対する『式部卿宮』を戴いたうえでの津軽進攻であったのであるから、時如・高景らにすれば、決して『叛乱』ではなかった点に、この一連の合戦の意味を理解すべきであろう。
と述べられている。
鈴木由美「中先代の乱に関する基礎的考察」163頁 註(89)
この「式部卿宮」は、鎌倉將軍守邦親王の兄にあたる煕明親王である可能性があるように思われる。煕明親王は、五辻宮領地頭職および五辻殿をめぐる爭論において、建武政權に反感を抱いていたことが確實である。また、建武二年(一三三五)七月十二日に五辻殿安堵の後醍醐天皇綸旨を召し返されたのも、親王が津輕での叛亂に關わったためであると考えることも可能である。(二千八年二月二十六日識
 
【詠歌】
『風雅和歌集』十五「雜歌」上
  冬の歌の中に        兵部卿凞明親王
行く末を思ふにつけて老ゆらくの身には今更惜しき年哉
 
【子女】
富明王富□王のち*富明親王
祥u庵主
「五辻親王家」
【花園院の猶子】
 
【備考】
稿本後深草天皇實録』「皇孫某親王」八一一〜八一二頁〔按〕に、
本條ノ王子某親王、尊卑分脈ニ據ルニ兵部卿親王トアリ、而シテ參考ニ附載セル園太暦目録ノ貞和四年正月九日ノ條ニハ三品行兵部卿煕明親王ノ語アリ、又、天龍寺重書目録ニモ兵部卿親王ノ語見ユ、兵部卿相同ジケレバ此等イヅレモ同人ナルヤ知ルベカラズ、又同ジク海藏院文書ニ式部卿親王若宮ノ語アレドモ其名明カナラズ、或ハ本條ノ王子某親王ニ宛ツベキニヤ、尚ホ看聞御記永享四年八月廿八日ノ條ニ五辻宮後深草院後胤也、代々伏見院、花園院爲御猶子御諱字賜之トアルハ園太暦目録ノ兵部卿煕明親王ニ就キ示唆ヲ與フル史料ナルベキカ、今姑ク參考トシテ王子某親王ニ關聯セル諸史料ヲ收録シ、按ヲ附シテ後ノ考證ニ備フ、
とある。
 
【文獻等】
久保木圭一「最後の鎌倉将軍・守邦親王の兄」(日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識』第3巻(ぶい&ぶい新書 No.0003)岩田書院、二〇一八年九月)
『大日本史料』第六編之十一、貞和四年正月八日、三三九〜三四〇頁
稿本後深草天皇實録』 八〇八〜八一二頁 「皇孫某親王」
『皇室制度史料 皇族四』 一九〜二二頁
 


 
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更新日時: 2020.02.13.
公開日時: 2008.02.25.


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