● |
正安三年(一三〇一)以前に誕生。
※ |
東山御文庫本『一代要記』四 に、「後深草天皇」の皇子「久明親王」の諸子が、
二品
┐ 守邦親王
│ 一宮
│ ヽヽ
│
│ 久良 三位中將
│山
│ 聖惠
│
│ 行澄
|
|
と擧げられており(『続神道大系 朝儀祭祀編 一代要記』(三)、一七〇頁)、「一宮」の「ヽヽ」が煕明親王にあたると考えられる。よって、煕明親王の生年は、守邦親王の生年たる正安三年(一三〇一)以前であると考えられる。
|
|
● |
文保元年(一三一七)以前に、伏見院(煕仁)の猶子となる。
※ |
『看聞日記』永享四年【一四三二】四月四日條に、「五辻宮ハ後深草院後胤也。代々、伏見院・花園院爲御猶子、御諱字賜之」とある。よって、煕明親王は、伏見院の猶子となり、その偏諱を賜わったものと考えられる。そして、それは、伏見院崩御の文保元年(一三一七)以前であると考えられる。
|
|
● |
親王宣下。
|
● |
嘉暦二年(一三二七)九月十四日、守良親王(龜山院の男子)より「五辻屋地」を讓られる。
◎ |
『東n寢C藏院文書』嘉暦二年九月十四日付 守良親王讓状
此屋地内少堂并敷地老母聊申置旨候間、是本房仁讓給候き。其子細定直可申入候歟。
五辻屋地者、自[※守良親王の]祖父中納言入道(實任卿)相傳無相違地也。而依有所存、所讓進式部卿親王【久明親王】若宮御方【煕明親王】也。覺淨【守良親王】一期之後者、早可有御管領。云子孫、云他人、永代更不可有其妨。・・・・・
嘉暦二年九月十四日 《花押》
|
【奥書】入道兵部卿宮御讓状(嘉暦貳九十四/五辻屋地事)
|
|
※ |
讓状において、守良親王が亡くなった後には「式部卿親王若宮御方」即ち煕明親王が直ちに相續し、守良親王の子孫もそのことを妨げることはできない、と取り決められた。
|
|
● |
嘉暦三年(一三二八)九月二十一日、守良親王(龜山院の男子)より、所領(備前國草部郷、播磨國鵤庄の一部、丹波國六人部庄の一部)を讓られる
◎ |
『東n寢C藏院文書』元コ元年九月廿日付 北條守時安堵状寫
|
◎ |
『東n寢C藏院文書』嘉暦三年九月廿七日付 五辻親王家御所并御領注文寫
宮分
備前國草部郷(南方/北方)
播磨國鵤庄東南條
丹波國六人部庄内大内村
宮 村
生野村(各皆除春富名)
同新庄内私市村
行枝名
五辻殿
嘉暦參年九月廿七日 沙彌乘圓(御判)
|
|
※ |
『太子町史』第四巻、第二章 二四二號文書
|
※ |
高橋一樹『中世荘園制と鎌倉幕府』(東京、塙書房、二〇〇四年一月)282〜284頁。
|
|
● |
元コ元年(一三二九)九月二十日、所領ならびに五辻殿を、鎌倉幕府より安堵される。
◎ |
『東n寢C藏院文書』元コ元年九月廿日付 北條守時安堵状寫
備前國草部郷、丹波國六人部庄内(大内・宮村・生野三个村、各皆除春富名)、同新庄内私市村、行枝名、出雲國大田荘(播磨國鵤庄東南條替)、并、五辻殿事、任去嘉暦三年九月廿一日御讓状可有御領掌之由、可被申入一宮御方【煕明親王】之旨候也。恐々謹言。
元コ元年九月廿日 相模守(判)
謹上 辨入道殿
|
|
|
● |
守良親王の薨後、嘉暦三年九月の取り決めを破り、守良親王の男子 宗覺が、正慶元年(一三三二)十一月八日、父親王の菩提のためと称して「五辻屋地」を大コ寺に寄進した。よって、煕明親王と宗覺との間に、五辻殿をめぐる爭論が起こったものと思われる。
◎ |
『大コ寺文書』乙、元弘二年十一月八日付 五辻宮宗覺寄進状
|
※ |
本状は、元弘年號を使用していることから、正慶年號が停止された元弘三年五月以降に作成されたものである可能性があるか。
|
|
● |
元弘三年(一三三三)八月四日、後醍醐天皇は、五辻宮領の地頭職を宗覺に安堵した。
◎ |
『東n寢C藏院文書』元弘三年八月四日付 後醍醐天皇綸旨冩
備前國草部郷、出雲國太田庄、長門國牛牧庄等地頭職如元御管領不可有相違者、天氣如此。以此旨可被申入五辻宮給。仍執達如件。
元弘三年八月四日 式部少輔(判)
謹上 前右兵衞佐殿
|
|
|
● |
ついで、建武二年(一三三五)七月十二日、「深草宮」即ち煕明親王は後醍醐天皇の綸旨を召し返され、宗覺が後醍醐天皇より五辻殿を安堵された。ここに、煕明親王は完全に反後醍醐天皇勢力へまわるに至ったことが推測される。
◎ |
『大コ寺文書』乙、建武二年七月十二日付 後醍醐天皇綸旨冩
五辻殿事、被進深草宮【煕明親王】綸旨所被召返也。如元可有御管領之由、天氣所候也。以此旨可令申五辻宮【宗覺】給。仍執達如件。
建武二年七月十二日 左中將《花押寫》
大納言僧都御房
|
|
◎ |
『東n寢C藏院文書』建武二年七月十三日付 五辻宮宗覺書状
五辻屋地事、先日令寄附當寺畢。而深草宮【熈明親王】事者被召返彼綸旨、宗覺如元可有管領之由、預勅裁了。任一諾之旨、件綸旨進于寺家候。一具(仁)可被納置寺庫候也。恐惶謹言。
建武二年七月十三日 宗覺《花押》
大コ寺方丈
|
|
※ |
下文、「津輕の「式部卿宮」」をも參照せよ。
|
|
● |
建武三年(一三三六)八月十五日の光明院の受禪により持明院統の勢力が恢復し、煕明親王も、同年八月晦日、源朝臣尊氏[足利]によって舊領を安堵された。
◎ |
『東n寢C藏院文書』建武三年八月晦日付 足利尊氏安堵状寫
五辻親王家御領事備止武士之違亂、可令全所努給之状如件。
建武三年八月晦日 源朝臣(御判)
|
|
|
● |
康永三年(一三四四)一月五日、四品に敍される。
◎ |
『園太暦』康永三年正月五日
今日敍位所望之輩爲申入、欲參仙洞光【ママ】内々付女房伺時宜之處、御風氣未快、可注進之旨示之。仍注折紙高檀紙進。
|
|
◎ |
『園太暦』康永三年正月六日
及晩敍位聞書到來。續左。
・・・・・
四品煕明親王
|
|
◎ |
『續史愚抄』康永三年正月五日丁卯
無品煕明親王(無品入道久良親王二男。後深草親王御後)敍四品(園太暦、除敍執筆抄、紹運録、公卿補任)。
|
|
|
● |
その後、三品に昇敍。
|
● |
貞和四年(一三四八)正月八日、「醉郷に入りて」急死した。
|