五辻宮 宗覚
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六波羅兩探題が正慶二年/元弘三年(一三三三)五月七日に京都の合戰に敗れ、關東へ落ち下るとの由を聞いた、近江國三宅・篠原・日夏・大所(老曾)・愛智河・小野・四十九院・摺針・番場・醒井・柏原・鈴鹿河の「山立・強盜・溢者」ども二・三千人が集まり、出家して近江國の伊吹山麓に忍び住まいをしていた「五宮」(先帝第五宮)を大將として擁立し、近江國番場の東にある小山の峯に布陣。行く手を阻まれた六波羅北探題北條仲時主從は、五月九日、近江國番場で自害。仲時と共に東下していた主上(光嚴院)、二上皇(後伏見院・花園院)・皇太子康仁親王以下は捕えられ、三種の~器等を「五宮」に引き渡した。
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この「五宮」は、通説では大覚寺統の五辻宮に比定される。この大覚寺統の五辻宮は、守良親王に比定されたが、この時點に於いて守良親王は薨逝は既に薨逝していた。そのため、「五宮」は、五辻宮守良親王の男子 宗覺に比定されている。但し、異説もある。
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『皇室制度史料 皇族四』一九〜二二頁 |
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平泉澄「史上に湮滅せし五辻宮」(平泉澄『我が歴史觀』東京、至文堂、大正十五年(一九二六)五月 所收) |
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