五辻宮 宗覚


前頁 「 宗 [宗康]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[宗覺]

フレームなし


【僧】宗覺
 五辻宮
 
【出自】
 
守良親王[五辻宮]の男子。
 龜山院の孫。
 
【經歴】
宗覺は、守良親王の薨後、「五辻屋地」を煕明親王(久明親王の一宮)に讓るとした嘉暦二年(一三二七)九月十四日の守良親王讓状における取り決めを破り、正慶元年(一三三二)十一月八日、父親王の菩提のためと称して「五辻屋地」を大コ寺に寄進した。よって、煕明親王と宗覺との間に、五辻殿をめぐる爭論が起こったものと思われる。
『大コ寺文書』乙、元弘二年十一月八日付五辻宮宗覺寄進状(『鎌倉遺文』古文書編 第四十一巻、一四七(一六一三八)頁上、第三一八八八號文書)
【本紙端裏書】「五辻殿事」
五辻屋地等事、載故按察典侍本券之間、爲先考【守良親王】菩提、令寄進大コ寺候也。向後更不可有他妨。仍寄附状如件。
 元弘貳年【正慶元年】十一月八日       宗覺
                       《花押》
大コ寺侍者御中
本状は、元弘年號を使用していることから、正慶年號が停止された元弘三年五月以降に作成されたものである可能性があるか。
元弘三年(一三三三)八月四日、後醍醐天皇は、五辻宮領の備前國草部郷、出雲國大田庄、長門國牛牧庄等の地頭職を宗覺に安堵した。
『東n寢C藏院文書』元弘三年八月四日付「後醍醐天皇綸旨冩」
備前國草部郷、出雲國大田庄、長門國牛牧庄等地頭職、如元御管領不可有相違者、天氣如此。以此旨可令申入五辻宮【宗覺】給。仍執達如件。
  元弘三年八月四日         式部少輔 判
 謹上 前右兵衞佐殿
元弘三年(一三三三)十一月十日、後醍醐天皇は、大コ寺長老妙超に、「五辻宮の寄附に任せ」、紀伊國日高郡高家庄の四箇村の「管領」を安堵した。
『大コ寺文書』元弘三年十一月十日付「後醍醐天皇綸旨」(『鎌倉遺文』古文書編 第四十二巻、四二(一六三九九)頁所收、第三二六八三號文書「後醍醐天皇綸旨(○山城大コ寺文書)」)
【宿紙】紀伊國高家庄【日高郡】四ヶ村、任五辻宮【守良親王】寄附、管領不可相違者、
天氣如此。仍執達如件。
  元弘三年十一月十日       宮内卿《花押》(【押紙】經季朝臣【中御門】)
 大コ寺長老【妙超】禪室
久保田収『建武中興』(日本教文社、昭和四十年九月)155〜156頁に、
    もとより[※建武新政]政府の所領に対する処置に幾多の不手際があったことは、たしかである。たとえば、・・・・・ 五辻宮守良親王【ママ】から大徳寺に寄進せられた紀伊国高家庄の地を、誤って五辻姫宮に賜(【振假名】たま)い、やがてこれを訂正している。
とある。
建武二年(一三三五)七月十二日、煕明親王は後醍醐天皇の綸旨を召し返され、宗覺が後醍醐天皇より五辻殿を安堵された。
『大コ寺文書』乙、建武二年七月十二日付「後醍醐天皇綸旨冩」
五辻殿事、被進深草宮【熈明親王】綸旨所被召返也。如元可有御管領之由、天氣所候也。以此旨可令申五辻宮【宗覺】給。仍執達如件。
 建武二年七月十二日       左中將《花押寫》
 大納言僧都御房
東n寢C藏院文書、建武二年七月十三日付五辻宮宗覺書状
五辻屋地事、先日令寄附當寺畢。而深草宮【熈明親王】事者被召返彼綸旨、宗覺如元可有管領之由、預勅裁了。任一諾之旨、件綸旨進于寺家候。一具(仁)可被納置寺庫候也。恐惶謹言。
 建武二年七月十三日       宗覺《花押》
大コ寺方丈
 
【北條仲時を滅ぼした「五宮」】
六波羅兩探題が正慶二年/元弘三年(一三三三)五月七日に京都の合戰に敗れ、關東へ落ち下るとの由を聞いた、近江國三宅・篠原・日夏・大所(老曾)・愛智河・小野・四十九院・摺針・番場・醒井・柏原・鈴鹿河の「山立・強盜・溢者」ども二・三千人が集まり、出家して近江國の伊吹山麓に忍び住まいをしていた「五宮」(先帝第五宮)を大將として擁立し、近江國番場の東にある小山の峯に布陣。行く手を阻まれた六波羅北探題北條仲時主從は、五月九日、近江國番場で自害。仲時と共に東下していた主上(光嚴院)、二上皇(後伏見院・花園院)・皇太子康仁親王以下は捕えられ、三種の~器等を「五宮」に引き渡した。
『竹むきが記』六二
・・・・・ 近江國伊吹とかやにて五宮といふ人、御所々々とゞめ奉らせ給由聞えしかば、いみじともさらに言はん方なし。・・・・・
西源院本『太平記』第九卷「一番場自害事」(鷲尾順敬校訂本 二二八頁)
去程ニ西【兩】六波羅、京都ノ合戰ニ打負、關東ヘ落ラルヽ由、披露アリケレハ、三宅ミヤウシロシノ原、日夏ヒ ナツヲヽ所、愛智エ チ河、四十九院、摺針、番場、佐目井、柏原、鈴香河ノ山立、カウ盜、者共二三千人、一夜ノ程ニ馳集テ、先帝第五宮、御遁世ノ體ニテ、伊吹ノ麓ニ忍テ御座ケルヲ大將ニ取奉リ、錦ノ御旗ヲ指上テ、東山道第一之難所、番馬ノ宿ノ東ナル、山ノ峯ニ立渡リ、岸ノ下ナル細道ヲ中ニハサミテ待懸タリ、夜明ケレハ、越後守仲時、篠原ノ宿ヲ立テ、仙ヒツヲ重山ノ深キニウナカシ奉ル、都ヲ出シ昨日マテ、供奉之軍勢二千餘騎候シカ共、次第ニ落散ケルニヤ、今日ハ纔ニ七百騎ニモ不足ケリ、若跡ヨリ追懸奉ル事モアラハ、防矢仕レトテ、佐々木判官時信ヲハ後陣ニウタセラレ、賊徒道ヲ塞ク事アラハ、打散シテ道ヲアケヨト、糟屋三カニ先陣ヲ打セ(ラカ)ル、鸞輿レンヨノ跡ニ列リテ、糟屋既ニ番馬ノ ヒ向ヲ越ントスル處ニ、數千ノ敵路ヲ中ニ挾ミ、楯ヲ一面ニツキ双テ、矢前ヲソロヘテ待懸奉ル、
西源院本『太平記』第九卷「一番場自害事」(鷲尾順敬校訂本 二三二頁)
主上々皇ハ、此死人共之有樣ヲ御覽スルニ、御肝心モ御身ニソハス、只アキレテソ御座アリケル、去程ニ五宮ノ官軍共、主上々皇ヲ取奉テ、其日長光寺ヘ入奉ル、三種~器、玄サウノ下濃 スソコ、二之御本尊ニ至ルマテ、自ラ五宮ヘソ渡サレケル、
この「五宮」は、通説では大覚寺統の五辻宮に比定される。この大覚寺統の五辻宮は、守良親王に比定されたが、この時點に於いて守良親王は薨逝は既に薨逝していた。そのため、「五宮」は、五辻宮守良親王の男子 宗覺に比定されている。但し、異説もある。
魚住惣五郎『吉野朝史』一(綜合日本史大系 第六巻 一)(東京、内外書籍株式會社、昭和二年二月發行、昭和十五年(一九四〇)八月訂正再版)一一六〜一一七頁
 六波羅館内にては北方は北條仲時、南方は北條時u等が楯籠つて居たが相議して、後伏見、花園兩上皇光嚴院並に東宮康仁親王を奉じて、行在を洛外に移し奉り、關東の援兵または金剛山の攻圍軍と合せんことを決し、七日【五月】夜半窃かにこゝを脱れて近江に奔り、日野資名、勸修寺經顯、四條驤、日野資明は上皇に供奉した。あくれば八日近江守山邊まで落のびたのであつたが、野伏どもの追撃に遭ひ、六波羅の敗兵の死傷者亦尠くなく、既に時uも七日夜四宮河原附近にて戰死したのであつた(註一)。 かくて此夜は觀音寺を以て一夜の皇居とし、九日更らに東に向つた。時に伊吹山の附近にて五辻兵部卿親王(註二)が附近の武士を集めて番場峠を塞がれ、且つ美濃の土岐、三河の吉良氏なども皆官軍に應じたので、六波羅殘兵も到底東海道を突破することは出來ないことを悟り、番場宿の米山の麓一向堂の前にて仲時以下四百三十餘人擧つて自殺し、其人名は空しく蓮華寺過去帳に留めたのである(註三)。十日上皇光嚴院は官軍に奉ぜられて伊吹山太平護國寺に入御なされた。
 〔註一〕 時uの戰死は増鏡には「守山」とし、皇年代略記には「番場」としてゐる。梅松論、元弘日記裏書には、四宮河原、或は關山とあつて、もとより此方が正しからう。
 〔註二〕 五辻兵部卿親王については増鏡には「何某の宮とかや法師にて在しけるが云々」とあつて、太平記には先帝第五宮或は金勝院本太平記には五辻兵部卿親王宮とある。參考太平記には龜山天皇の皇子と按じてゐる。何れにしても後醍醐天皇の密旨を奉ぜられたのであらう。
 〔註三〕 蓮華寺は今八葉山と稱し時宗の一本山である。仲時等四百三十四人の悲壮を物語る約高さ三尺の五輪塔の墓石は三百餘基、山内に並んでゐる。殉死者の姓名を録した過去帳は今國寶となつてゐて、六百年前の哀史をば偲しむるのである。
 
工事中 【文獻等】
『皇室制度史料 皇族四』一九〜二二頁
平泉澄「史上に湮滅せし五辻宮」(平泉澄『我が歴史觀』東京、至文堂、大正十五年(一九二六)五月 所收)



 
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公開日時: 2020.03.26.

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