専修寺円遵 / 无上上院宮


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[圓遵]

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【僧】圓遵 ヱンジユン
 
 高田專修寺門跡 第十八世門主
 
 もと
圓智
 
【幼稱】
 「季宮」 としのみや
 
【法號】
 「无上上院
 
【字】
 「コ猷」
 
【雅號】
 「秋香臺」
 
【出自】
 音仁親王[有栖川若宮]の一男。
 職仁親王[有栖川宮]の實子(五男)。
 
【生母】
 「多緒」
 家女房
 
【經歴】
延享五年(一七四八)三月十八日、「百萬遍屋敷少貳宅」において誕生。
『有栖川宮日記』延享五年三月十八日
一、今暁多越百万遍屋敷少貳宅被差遣處辰剋比若宮樣御誕生。
『有栖川宮系譜』『專修寺門室系譜』では誕生は「延享三年十一月廿三日」。
職仁親王[有栖川宮]の實子(五男)となる。
季宮
延享五年(一七四八)三月二十六日、七夜。幼稱「季宮」。
『有栖川宮日記』延享五年三月廿六日
延享五年(一七四八)四月十九日、「百萬遍屋敷少貳宅」より有栖川宮邸の裏御殿に入る。
『有栖川宮日記』延享五年四月十九日
寛延二年(一七四九)十一月七日、髪置。
『有栖川宮日記』寛延二年十一月七日
一、季宮樣御髪置。
寛延三年(一七五〇)十一月二十六日、色直。
『有栖川宮日記』寛延三年十一月廿六日
寶暦元年(一七五一)十二月十三日、專修寺門主圓猷(貞致親王[伏見宮]の五男)の附弟となる内約が整う。五歳。
『職仁親王日記』寛延四年十月八日
『職仁親王日記』寛延四年十一月十四日
『有栖川宮日記』寶暦元年十二月十三日
『職仁親王日記』寛延四年十二月十三日
『職仁親王日記』寶暦二年正月十七日
寶暦二年(一七五二)十一月二十七日、專修寺圓猷の附弟となることが勅許され、十二月二十一日、披露。
『有栖川宮日記』寶暦二年十月十三日
『有栖川宮日記』寶暦二年十一月廿七日
『職仁親王日記』寶暦二年十一月廿七日
『有栖川宮日記』寶暦二年十二月廿一日
『職仁親王日記』寶暦二年十二月廿一日
『有栖川宮日記』寶暦二年十二月廿二日
『有栖川宮日記』寶暦二年十二月廿一日
寶暦三年(一七五三)正月二日、專修寺門主圓猷が遷化。專修寺門主を相續する。
『伏見宮日記』寶暦三年正月四日
寶暦三年(一七五三)三月二十九日、深曾木。
『有栖川宮日記』寶暦三年三月廿二日
『職仁親王日記』寶暦三年三月廿四日
『職仁親王日記』寶暦三年三月廿五日
『有栖川宮日記』寶暦三年三月廿九日
『職仁親王日記』寶暦三年三月廿九日
『伏見宮日記』寶暦三年三月廿九日
『有栖川宮日記』寶暦三年四月朔日
『有栖川宮日記』寶暦三年四月三日
『有栖川宮日記』寶暦三年四月四日
寶暦三年(一七五三)四月三十日、有栖川宮邸から本誓寺(專修寺の京都里坊。河原町二條上ル丁)に移る。
『職仁親王日記』寶暦三年四月十九日
『有栖川宮日記』寶暦三年四月晦日
『職仁親王日記』寶暦三年四月卅日
『有栖川宮日記』寶暦三年五月三日
『職仁親王日記』寶暦三年五月三日
寶暦三年(一七五三)九月五日、伊勢國一身田へ下向するため京都を出發し、九月七日、一身田專修寺に入寺。
『有栖川宮日記』寶暦三年八月廿日
『有栖川宮日記』寶暦三年八月廿六日
『職仁親王日記』寶暦三年九月四日
『有栖川宮日記』寶暦三年九月五日
『職仁親王日記』寶暦三年九月五日
『桂宮日記』寶暦三年九月五日
『有栖川宮日記』寶暦三年九月六日
『有栖川宮日記』寶暦三年九月八日
『桂宮日記』寶暦三年九月十三日
『有栖川宮日記』寶暦三年九月十六日
『有栖川宮日記』寶暦三年九月廿二日
專修寺藏『寶暦三年 季宮樣御入室御道中到來諸拂日記』
寶暦七年(一七五七)九月六日、伊勢~宮に參詣。
『有栖川宮日記』寶暦七年六月十八日
『有栖川宮日記』寶暦七年九月八日
『有栖川宮日記』寶暦七年九月十九日
圓智
寶暦八年(一七五八)三月二十日、得度。十三歳。法諱「圓智」。
『有栖川宮日記』寶暦八年二月廿五日
『有栖川宮日記』寶暦八年三月十五日
『職仁親王日記』寶暦八年三月十七日辛【癸】
一、季宮名某書付候樣、音仁被申故、書付圓智(マトトシ)。考ハ伊藤正蔵【伊藤長衡。伊藤仁齋の三男】也。
『有栖川宮日記』寶暦八年三月廿日
專修寺藏『季宮樣御得度記録』
『有栖川宮日記』寶暦八年四月十一日
寶暦十二年(一七六二)十二月十二日、紫衣を勅許される。
『桂宮日記』寶暦十二年十二月十二日
圓遵
寶暦十三年(一七六三)八月二十一日、法諱を「圓遵」と改める。
『有栖川宮系譜』
後櫻町院の諱「智子」を避けたため。
東下し、明和四年(一七六七)三月四日、七日、江戸城に登城し、征夷大將軍源朝臣家治[コ川]に謁見。
『コ川實紀』「浚明院殿」卷十五、明和四年二月廿九日
『有栖川宮日記』明和四年三月廿二日
『コ川實紀』「浚明院殿」卷十五、明和四年三月四日
『コ川實紀』「浚明院殿」卷十五、明和四年三月六日
『コ川實紀』「浚明院殿」卷十五、明和四年三月七日
明和四年(一七六七)四月二十一日、江戸より一身田に歸着。
『有栖川宮日記』明和四年四月晦日
『職仁親王日記』明和四年四月晦日
『有栖川宮日記』明和四年五月三日
明和五年(一七六八)二月十六日、「嘉傳宮」(近子女王。貞建親王[伏見宮]の養女。專修寺圓猷の一男 圓超の一女)と結婚。
『有栖川宮日記』明和五年二月九日
『有栖川宮日記』明和五年二月廿九日
『有栖川宮日記』明和五年三月四日
專修寺住持職補任の綸旨の復興を願い出、安永七年(一七七八)八月二十八日、綸旨を拜受。
專修寺藏「後桃園天皇圓遵上人ヘ住職綸旨」(安永八年八月廿八日付 下野國高田專修寺住持御房宛)
『有栖川宮日記』安永七年八月廿八日
天明三年(一七八三)十一月六日、專修寺の本堂以下が燒亡。而後、復興に努める。
文化八年(一八一一)三月十日、專修寺住持職を圓祥に讓り、隱居。「无上上院」と稱す。五月三日、專修寺住持職讓與を聽許される。
專修寺蔵「圓遵上人より圓祥上人へ住職讓状」(文化八歳三月十日付)
『有栖川宮日記』文化八年三月四日
『有栖川宮日記』文化八年五月廿八日
『有栖川宮日記』文化八年六月三日
文政二年(一八一九)十月二十二日(陽暦十二月九日)死去。七十二歳。
『有栖川宮日記』文政二年六月二日
『職仁親王日記』文政二年六月二日
『有栖川宮日記』文政二年九月七日
『有栖川宮日記』文政二年十月十九日
『有栖川宮日記』文政二年十月廿三日
文政二年(一八一九)十月二十三日、發喪。
『有栖川宮日記』文政二年十月廿三日
文政二年(一八一九)十二月十二日、荼毘。
『有栖川宮日記』文政二年十二月八日
『有栖川宮日記』文政二年十二月十七日
 
【配偶】
 「
嘉傳宮
 近子[女王]
 貞建親王[伏見宮]の養女。
 圓超(第十七世專修寺門主圓猷の一男)の一女。
 
【子女】
 「奉姫」
 明和八年正月八日生。
 伊勢國奄藝郡北K田村の淨光寺に嫁ぐ。
 天保五年九月十一日歿。六十四歳。
 「如意香院」
 「美壽姫」のち「理姫」
 明和九年五月二十日生。
 藤原朝臣爲訓[下冷泉]の室。
 享和三年七月二十日歿。三十二歳。
 「桂林院」
 「起姫」
 安永二年五月二十七日生。
 安永六年二月二十日歿。五歳。
 ※ 系譜等において十日歿とするのは誤り。
 「明澄院」
 「茂姫」のち「睦姫」
 安永四年五月二十九日生。
 ※ 系譜等において二十日生とするのは誤り。
 伊勢國一身田(專修寺山内)玉保院の寛剛の室。
 文政十一年十一月二十七日歿。六十四歳。
 「無量香院」
 「言姫」
 伊勢國安濃津の上宮寺の慶遇に縁約。
 寛政十一年八月十八日歿。
 「歸本院」
 「
C宮
 もと「C丸」
 「廣C院宮徳皎圓空」
 
【附弟】
 
圓祥
章宮
 
【逸事等】
故ありて、僧官・僧位を申請しなかった。
 
【著述等】
『高田三祖傳』
明和二年十月二十四日、青蓮院宮尊眞親王に依ョした序文が完成。
光格天皇に上り、寛政十二年(一八〇〇)八月四日、光格天皇より女房奉書を以て叡感淺からざる旨を傳えられ、橘香合を賜わる。
『斷肉消息』
明和三年編述。
『平生用心鈔』
天明二年著作。
 
【文獻等】
『有栖川宮實録』三五『職仁親王實録』二四(宮内公文書館 75399)「王孫 圓遵一」
『有栖川宮實録』三六『職仁親王實録』二五(宮内公文書館 75400)「王孫 圓遵二」
『職仁親王行實』第十三章 王孫竝に王孫女「圓遵」
『專修寺門室歴世系譜』(『真宗史料集成 第七巻』所収) *頁
改訂有栖川宮系譜』(宮内公文書館 32773)
新修有栖川宮系譜』 *頁


 
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更新日時: 2021.07.19.
公開日時: 2021.07.15.


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