専修寺円祥 / 真無量院宮
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『詰所系圖』有栖川宮、織仁親王の子
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鷹司輔平の側室。 「美登」のち「玉橋」 上北面の藤原朝臣宗弟[山形播磨守]の女子。 |
「守君」 | |||||||
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天明八年(一七八八)七月十日、洛東岡崎の鷹司家寓居において誕生。 | ||||||
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寛政二年(一七九〇)九月十九日、勅旨により織仁親王[有栖川宮]の實子となり第十八世専修寺門主圓遵の附弟となり法嗣となることが内定する。
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「章宮」 | |||||||
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寛政二年(一七九〇)九月二十七日、織仁親王[有栖川宮]の實子(三男)となり、有栖川宮の裏御殿に移り、「章宮(たかのみや)」と稱される。
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寛政二年(一七九〇)十二月二十二日、專修寺門主圓遵の附弟となることが聽許される。
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寛政四年(一七九二)、着袴。 | ||||||
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寛政五年(一七九三)正月二十日、深曾木。 | ||||||
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寛政五年(一七九三)二月二十日、伊勢に下向。六歳。 | ||||||
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寛政五年(一七九三)二月二十三日、伊勢國一身田の高田專修寺に入室。 | ||||||
圓祥 | |||||||
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享和三年(一八〇三)十月二十五日、得度。十六歳。 | ||||||
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文化八年(一八一一)三月十日、專修寺を相續する。 | ||||||
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文化八年(一八一一)十月四日、光格天皇より、下野國高田專修寺住持職の綸旨を賜わる。 | ||||||
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文政五年(一八二二)二月二十日、法眼に敍され、大僧都に任じられる。 | ||||||
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文政六年(一八二三)正月二十八日、法印に敍される。 | ||||||
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文政六年(一八二三)十月四日、僧正に任じられる。
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文政七年(一八二四)八月十六日、大僧正に任じられる。 | ||||||
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天保八年(一八三七)十一月二十一日(陽暦十二月十八日)未刻、歿。五十歳。
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天保八年(一八三七)十二月八日、荼毘式。專修寺廟所に葬られる。 |
圓祥[專修寺]の正室 彩子 そめこ 「霜信院」 藤堂左近衞權少將高嶷[津]の十二女。 寛政四年(一七九二)生。 文化八年(一八一一)四月、圓祥[專修寺]と結婚。 天保十五年(一八四四)十二月二十一日、薙髪。 嘉永七年(一八五四)八月三日歿。六十三歳。 法名「C貞圓芳」 |
圓祥[專修寺]の一女。 法號「光瑞院」 法名「寂定圓義」 文化四年(一八〇七)生。 文化四年(一八〇七)九月二十三日歿。一歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
圓祥[專修寺]の二女。 法號「靈瑞院」 法名「摩尼圓華」 文化五年(一八〇八)生。 文化六年(一八〇九)六月十六日歿。二歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
圓祥[專修寺]の三女。 法號「乘道院」 法名「來覺圓瑞」 文化七年(一八一〇)生。 文化七年(一八一〇)七月五日歿。一歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
圓祥[專修寺]の四女。 法號「休徴院」 法名「章瑞圓祚」 文化八年(一八一一)生。 文化十一年(一八一四)六月十日歿。四歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
專修寺執綱 のち常磐井圓 圓祥[專修寺]の一男(庶子)。 母は家女房「文崎」(文操院)。 法號「須彌天冠院」 字「コ眞」 幼名「守若(もりわか)」「守君」 文化九年(一八一二)八月十九日生。 ※『新修 有栖川宮系譜』は、「文化九年壬申九月 日誕生」と作す。 天保十一年(一八四〇)二月二十一日、得度。 一身田山内の別院に居住。 明治十一年(一八七八)十月、權中ヘ正に補される。 明治十三年(一八八〇)八月二十四日歿。六十九歳。 ※『專修寺門室歴世系譜』(『真宗史料集成』第七巻 所收)は「円禎」と作す。 |
越前國加戸(福井県坂井市三国町加戸)の本流院の住職 圓祥[專修寺]の二男(庶子)。 母は家女房「文崎」(文操院)。 法號「月映金院」 字「コ驕v 幼名「豐若(とよわか)」 文化十年(一八一三)生。 文政五年(一八二二)八月、越前國(福井)加戸の本流院の附弟となる。 加戸本流院住職 天保六年(一八三五)八月十日歿。二十三歳。 |
圓祥[專修寺]の三男。 母は彩姫(霜信院)。 法號「後廣C院」 法名「淨慧圓禪」 文化十二年(一八一五)生。 文化十三年(一八一六)六月十二日歿。二歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
圓祥[專修寺]の五女。 法號「高鶴院」 法名「淨雲圓禎」 文化十二年(一八一五)生。 文化十三年(一八一六)七月二十日歿。二歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
圓祥[專修寺]の六女。 母は家女房「文崎」(文操院)。 法號「寶牀院」 法名「玉養圓機」 文化十二年(一八一五)七月二十七日生。 文政十三年(一八三〇)七月二十日歿。十六歳。 |
「松若(まつわか)」「學宮(さとのみや)」 第二十世專修寺門主 圓祥[專修寺]の四男。韶仁親王[有栖川殿]の養子。 |
圓祥[專修寺]の七女。 法號「善鏡院」 法名「歸眞圓耀」 文化十四年(一八一七)生。 文化十四年(一八一七)十月四日歿。一歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
專修寺坊官 圓祥[專修寺]の五男。 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は九男とする。 母は家女房「文崎」(文操院)。 幼名「藤丸」 法號「光啓院」 字「コ耿」 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は「光啓院コ秋」と作す。 文化十四年(一八一七)生。 專修寺坊官の明日香法橋宗普の實子となる。 弘化四年(一八四七)八月十八日歿。三十一歳。 ※ 明日香家は、飛鳥井家の庶流。 |
圓祥[專修寺]の八女。 法號「千香院」 法名「傳芳圓達」 文化十五年/文政元年(一八一八)生。 文政十一年(一八二八)六月二十七日歿。十一歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
羅貝姫 圓祥[專修寺]の九女。 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は十一女とする。 母は家女房「二葉」。 法號「淨華院」 法名「圓曉慶薫」 文化十五年/文政元年(一八一八)生。 伊勢國安濃津(三重県津市乙部)の上宮寺慶光の室。 天保十五年(一八四四)二月二日歿。二十七歳。 |
伊勢國一身田(專修寺内)の智慧光院の住職。 圓祥[專修寺]の六男。 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は十男とする。 母は家女房「二葉」。 幼名「棟若(むねわか)」 法號「無量幢院」 字「コ梁」 文政二年(一八一九)六月四日生。 天保三年(一八三二)二月、得度。
法印に敍され、權大僧正に任じられる。 明治十四年(一八八一)十二月二十一日、權少ヘ正に補される。 明治十六年(一八八三)二月二十日歿。六十五歳。 |
圓祥[專修寺]の七男。 法號「善月院」 法名「淨空圓影」 文政二年(一八一九)生。 文政二年(一八一九)七月十五日歿。一歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
伊勢國小山(三重県津市一志町小山)の金龍山巖寺の住職 圓祥[專修寺]の七男。 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は六男とする。 ※『新修 有栖川宮系譜』では通冨の後に排列される。 母は家女房「園木」。 法號「功コ池院」 字「コ瀧」 幼名「瀧丸(たきまる)」 文政七年(一八二四)六月十二日生。 天保三年(一八三二)四月、得度。 安政六年(一八五九)十月、小山巖寺の附弟となる。 明治十一年(一八七八)十月九日、權少ヘ正に補される。 明治十四年(一八八一)十月十四日歿。五十八歳。 ※「青巖寺について | 小山 青巖寺」 http://oyama-seiganji.com/info/ |
中院家第二十五代當主。 權大納言 正二位 伯爵 圓祥[專修寺]の九男。 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は七男とする。 藤原朝臣實堅[徳大寺](藤原朝臣輔平[鷹司]の十一男。圓祥の兄)の實子(二男)。 源朝臣通繋[中院]の養子。 母は彩姫(霜信院)。 幼名「珠鶴若(すずわか)」 文政六年(一八二三)九月二十三日生。 天保六年(一八三五)十月三日、藤原朝臣實堅(さねみ)[コ大寺大納言]の實子(二男)となり、源朝臣通繋(みちつぐ)[中院]の養子となり、中院家を相續。十三歳。 天保七年(一八三六)正月二十七日、中院邸に移る。 天保七年(一八三六)五月二十三日、從五位下に敍される。十四歳。 天保七年(一八三六)十一月二十七日、從五位上に敍される。 天保七年(一八三六)十二月二十六日、侍從に任じられる。 天保八年(一八三七)三月二十五日、元服。昇殿。同日、正五位下に敍される。 天保九年(一八三八)三月二十一日、從四位下に敍される。 天保十年(一八三九)正月四日、從四位上に敍される。 天保十二年(一八四一)二月四日、正四位下に敍される。 天保十二年(一八四一)八月二十九日、右近衞權少將に任じられる。 嘉永四年(一八五一)七月二十八日、右近衞權中將に轉ず。 安政四年(一八五七)五月十五日、參議に任じられる(右中將兼任)。 安政四年(一八五七)九月十八日、從三位に敍される。
文久三年(一八六三)九月二日、權中納言に任じられる。 文久三年(一八六三)十一月二十八日、從二位に敍される。 慶應元年(一八六五)九月二十七日、正二位に敍される。 慶應四年(一八六八)二月二日、權大納言に任じられる。 幕末、國事に盡し、明治維新後、參與となった。 殿掌 明治十七年(一八八四)七月七日、伯爵を授けられる。 明治十八年(一八八五)六月十九日薨。六十二歳。 正二位
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圓祥[專修寺]の十女。 法號「蔡華院」 法名「香玉圓龜」 文政七年(一八二四)生。 文政八年(一八二五)十一月二十四日歿。二歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
圓祥[專修寺]の十一女。 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は八女とする。 母は家女房「袖紫」。 法號「實秀院」 法名「圓茂寛雲」 文政八年(一八二五)生。 伊勢國一身田(專修寺内)玉保院の寛潮(のち水沼寛潮)の室。 ※『新修 有栖川宮系譜』に「東院殿深解院室」とある。 安政四年(一八五七)九月二十二日歿。
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伊勢國奄藝郡北K田村(三重県津市河芸町北黒田)の淨光寺の住職 圓祥[專修寺]の十男。 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は八男とする。 母は家女房「袖紫」。 幼名「享丸(あてまる)」 法號「皆同慶院」 字「コ享」 ※『新修 有栖川宮系譜』に「號二解道ヘ院一」とある。 文政十年(一八二七)生。 天保六年(一八三五)二月、得度。
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圓祥[專修寺]の十一男。 法號「西巖院」 法名「敬瞻圓祝」 文政十一年(一八二八)生。 文政十一年(一八二八)十月十七日歿。一歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
藤原朝臣政煕[近衞]の女子(末女)。 圓祥[專修寺]の養子。 文政十一年(一八二八)八月十二日生。 圓祥の養子となり、伊勢國安濃津の彰見寺に縁約。 後、實家の近衞家に歸家。 |
圓祥[專修寺]の十二男。
法號「觀珠院」 法名「義海圓泡」 文政十二年(一八二九)生。 文政十二年(一八二九)十一月十二日歿。一歳。 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。 |
三河國桑子(愛知県岡崎市大和町沓市場)の桑子山妙源寺の住職 圓祥[專修寺]の十三男。
幼名「尚若(ひさわか)」又「學君(さと[ぎみ])」 法號「紫金成院」 字「コ尚」 天保二年(一八三一)生。 ※『新修 有栖川宮系譜』は「天保元年庚寅 月 二血誕生」と作す。 天保九年(一八三八)二月、得度。 弘化四年(一八四七)五月、三河國桑子の妙源寺の住職となる。 明治六年(一八七三)十二月十五日歿。四十三歳。 |
圓祥[專修寺]の十二女。 母は彩姫(霜信院)。 法號「貞協院」 法名「圓美光麗」 天保二年(一八三一)生。 三河國岡崎の滿性寺の光憲に縁約。 天保六年(一八三五)二月十八日歿。五歳。 |
圓祥[專修寺]の十三女。 母は家女房「袖紫」。 法號「如心院」 法名「圓安慶慰」 天保二年(一八三一)生。 伊勢國松阪の常念寺の慶眞に縁約。 天保十三年(一八四二)十月五日歿。十二歳。 |
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小妻隆文『円祥上人行実』には、圓祥[專修寺]の十四女として「彰(トシ)子」が擧げられるが、『專修寺門室歴世系譜』(『真宗史料集成』第七巻 所收)では、系線が亂れているものの、彰子は、圓メi圓祥の庶長子)の子とされている。參考のため、彰子の經歴を次に掲ぐ。
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「親鸞の再來」と噂された。
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專修寺門跡では、圓猷・圓遵・圓祥と三代に亙り、親王宣下を熱望していた。
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小妻隆文『円祥上人行実』所收「円祥・円禧上人年譜 補遺」天保七年(一八三六)に、「上人漸次肥満して長坐を苦痛とす」とある。 |
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『高田學報』第十八輯「圓祥上人全集」 |
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『高田學報』第十九輯「圓祥上人全集續篇」 |
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小妻隆文『円祥上人行実 附 円禧上人行実』(津、高田学会、一九七三年九月) |
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『專修寺門室歴世系譜』(『真宗史料集成』第七巻 所収) 七四三〜七四六頁 |
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『新修 有栖川宮系譜』 四九〜五三頁 |
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『平成新修 旧華族家系大成』下巻 149頁 |
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