専修寺円祥 / 真無量院宮


前頁 「 圓 [圓實照院]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[圓祥]

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【僧】圓祥 ヱンシヤウ
 
 高田專修寺門跡 第十九世門主
 大僧正
 法印
 
【幼稱】
 「守君
 「
章宮」 たかのみや
  ※「幸宮」は誤りであろう。
 
【法號】
 「眞無量院宮
 
【雅號】
 「墨化臺」
 
【出自】
 織仁親王[有栖川宮]の實子。
 藤原朝臣輔平[鷹司](典仁親王[閑院宮]の男子)の男子。
 圓遵[專修寺](音仁親王[有栖川若宮]の一男。職仁親王[有栖川宮]の實子)の附弟。
『詰所系圖』有栖川宮、織仁親王の子



男子
專修寺、實鷹司輔平公末子、天明八年七月十日生、寛政二年十二月二十二日爲織仁親王養子、爲圓遵附弟、同五年正月廿日深曾木。同年二月廿日勢州一身田下向(六歳)、享和三年十月二十五日得度(十六歳)。
 
【母】
 「瓔光院」
鷹司輔平の側室。
「美登」のち「玉橋」
上北面の藤原朝臣宗弟[山形播磨守]の女子。
 
【經歴】
守君
天明八年(一七八八)七月十日、洛東岡崎の鷹司家寓居において誕生。
寛政二年(一七九〇)九月十九日、勅旨により織仁親王[有栖川宮]の實子となり第十八世専修寺門主圓遵の附弟となり法嗣となることが内定する。
『有栖川宮日記』寛政二年九月十九日
  関白輔平公御末男
一、守君御方當宮様実々爲御養子専御門主御附弟可被進御治定御座候。來ル廿七日房君様【織仁親王妃藤原朝臣nq】御引取御座候。尤房君様御子様之事御座候。其段一統被心得候様、主膳・式部木工頭申渡ス。
章宮
寛政二年(一七九〇)九月二十七日、織仁親王[有栖川宮]の實子(三男)となり、有栖川宮の裏御殿に移り、「章宮(たかのみや)」と稱される。
『有栖川宮日記』寛政二年九月廿七日
一、関白殿御末男守君御方爲御養子今日被爲入御息所被爲成御相輿ニ而被爲入。
 於御書院諸大夫始御近習中小姓迄御目見。
 御名章宮ト被進。    壹統恐悦申上ル。
寛政二年(一七九〇)十二月二十二日、專修寺門主圓遵の附弟となることが聽許される。
『有栖川宮日記』寛政二年十一月十六日
一、専修寺御門跡章宮御附弟御願被差出御口上書左之通。
    御口上覺
 中務卿宮御息男章宮(三歳)從専修寺御門跡附弟所望有之ニ付御領掌被成度候間、右之旨可然様御沙汰頼思召候。已上。
           有栖川宮御使
            中川河内守
  万里小路前大納言様御内
     山本式部殿
     中村大膳殿
   久我右大將様御内
     辻信濃守殿
     岡本内記殿
 専修寺御門主ゟ被差出書付左之通。
  専修寺御門跡此度中務卿宮御方御息男章宮御方(三歳)附弟被願申候。當御門主ハ從有栖川宮御入室之義御座候御得者、願之通宜御沙汰被頼存候。已上。
            専修寺御門跡使者
   十一月十六日     園井越前守
   万里小路前大納言様御内
    山本式部殿
    中村大膳殿
   久我右大將様御内
    辻信濃守殿
    岡本内記殿
 右越前守河内守同道月番万里小路家行向。御口上書差出、同断御口上申入候處、被致承知御書付落手之由、専門様ヘ之同断落手之由。夫ゟ久我家行向、右之通ノ御口上申述処、参内故帰宅之節可申入由。専門様も同様。
『有栖川宮日記』寛政二年十二月廿二日
一、御所取次來。書状到來。如左。
 御用之義御座候間、今日申刻非蔵人口御参候様可申達旨、久我右大將殿被仰渡候。仍申入候。以上。
  十二月廿二日    町口美濃守
   諸大夫御中
・・・・・
 申刻非蔵人口木工頭罷出、久我右大將殿申入候処、兩傳奏御出會、久我殿御申渡シ。
  先達御願御座候御三男専修寺御門主御附弟御願之通被仰出候。此旨可申上義御申渡。
 罷帰リ及言上、御請使同人(久我殿承リ)。
寛政四年(一七九二)、着袴。
寛政五年(一七九三)正月二十日、深曾木。
寛政五年(一七九三)二月二十日、伊勢に下向。六歳。
寛政五年(一七九三)二月二十三日、伊勢國一身田の高田專修寺に入室。
圓祥
享和三年(一八〇三)十月二十五日、得度。十六歳。
文化八年(一八一一)三月十日、專修寺を相續する。
文化八年(一八一一)十月四日、光格天皇より、下野國高田專修寺住持職の綸旨を賜わる。
文政五年(一八二二)二月二十日、法眼に敍され、大僧都に任じられる。
文政六年(一八二三)正月二十八日、法印に敍される。
文政六年(一八二三)十月四日、僧正に任じられる。
小妻隆文『円祥上人行実』36頁には「同【天保】同【六年】十一月四日 正僧正」とある。
文政七年(一八二四)八月十六日、大僧正に任じられる。
天保八年(一八三七)十一月二十一日(陽暦十二月十八日)未刻、歿。五十歳。
『雲上御系譜』皇族篇「有栖川宮」八十二頁は「天保八年十二月三日薨去五十歳」と作す。
天保八年(一八三七)十二月八日、荼毘式。專修寺廟所に葬られる。
 
【配偶】
 彩姫 そめひめ
 圓祥[專修寺]の正室
 彩子 そめこ
 「霜信院」
 藤堂左近衞權少將高嶷[津]の十二女。
 寛政四年(一七九二)生。
 文化八年(一八一一)四月、圓祥[專修寺]と結婚。
 天保十五年(一八四四)十二月二十一日、薙髪。
 嘉永七年(一八五四)八月三日歿。六十三歳。
 法名「C貞圓芳」
 
【子女】
 知義姫
 圓祥[專修寺]の一女。
 法號「光瑞院」
 法名「寂定圓義」
 文化四年(一八〇七)生。
 文化四年(一八〇七)九月二十三日歿。一歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 摩尼姫
 圓祥[專修寺]の二女。
 法號「靈瑞院」
 法名「摩尼圓華」
 文化五年(一八〇八)生。
 文化六年(一八〇九)六月十六日歿。二歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 寄姫
 圓祥[專修寺]の三女。
 法號「乘道院」
 法名「來覺圓瑞」
 文化七年(一八一〇)生。
 文化七年(一八一〇)七月五日歿。一歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 永姫
 圓祥[專修寺]の四女。
 法號「休徴院」
 法名「章瑞圓祚」
 文化八年(一八一一)生。
 文化十一年(一八一四)六月十日歿。四歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 圓
 專修寺執綱
 のち常磐井圓
 圓祥[專修寺]の一男(庶子)。
 母は家女房「文崎」(文操院)。
 法號「須彌天冠院」
 字「コ眞」
 幼名「守若(もりわか)」「守君」
 文化九年(一八一二)八月十九日生。
 ※『新修 有栖川宮系譜』は、「文化九年壬申九月 日誕生」と作す。
 天保十一年(一八四〇)二月二十一日、得度。
 一身田山内の別院に居住。
 明治十一年(一八七八)十月、權中ヘ正に補される。
 明治十三年(一八八〇)八月二十四日歿。六十九歳。
 ※『專修寺門室歴世系譜』(『真宗史料集成』第七巻 所收)は「円禎」と作す。
 圓禮
 越前國加戸(福井県坂井市三国町加戸)の本流院の住職
 圓祥[專修寺]の二男(庶子)。
 母は家女房「文崎」(文操院)。
 法號「月映金院」
 字「コ驕v
 幼名「豐若(とよわか)」
 文化十年(一八一三)生。
 文政五年(一八二二)八月、越前國(福井)加戸の本流院の附弟となる。  加戸本流院住職
 天保六年(一八三五)八月十日歿。二十三歳。
 「C若」
 圓祥[專修寺]の三男。
 母は彩姫(霜信院)。
 法號「後廣C院」
 法名「淨慧圓禪」
 文化十二年(一八一五)生。
 文化十三年(一八一六)六月十二日歿。二歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 那鶴姫 なつひめ
 圓祥[專修寺]の五女。
 法號「高鶴院」
 法名「淨雲圓禎」
 文化十二年(一八一五)生。
 文化十三年(一八一六)七月二十日歿。二歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 由賀姫 ゆかひめ
 圓祥[專修寺]の六女。
 母は家女房「文崎」(文操院)。
 法號「寶牀院」
 法名「玉養圓機」
 文化十二年(一八一五)七月二十七日生。
 文政十三年(一八三〇)七月二十日歿。十六歳。
 
圓禧 ヱンキ
 「松若(まつわか)」「學宮(さとのみや)」
 第二十世專修寺門主
 圓祥[專修寺]の四男。韶仁親王[有栖川殿]の養子。
 (女子)
 圓祥[專修寺]の七女。
 法號「善鏡院」
 法名「歸眞圓耀」
 文化十四年(一八一七)生。
 文化十四年(一八一七)十月四日歿。一歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 明日香大藏卿宗旭
 專修寺坊官
 圓祥[專修寺]の五男。
 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は九男とする。
 母は家女房「文崎」(文操院)。
 幼名「藤丸」
 法號「光啓院」
 字「コ耿」
 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は「光啓院コ秋」と作す。
 文化十四年(一八一七)生。
 專修寺坊官の明日香法橋宗普の實子となる。
 弘化四年(一八四七)八月十八日歿。三十一歳。
 ※ 明日香家は、飛鳥井家の庶流。
 千傳姫 ちでひめ
 圓祥[專修寺]の八女。
 法號「千香院」
 法名「傳芳圓達」
 文化十五年/文政元年(一八一八)生。
 文政十一年(一八二八)六月二十七日歿。十一歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 樂姫 らくひめ
 羅貝姫
 圓祥[專修寺]の九女。
 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は十一女とする。
 母は家女房「二葉」。
 法號「淨華院」
 法名「圓曉慶薫」
 文化十五年/文政元年(一八一八)生。
 伊勢國安濃津(三重県津市乙部)の上宮寺慶光の室。
 天保十五年(一八四四)二月二日歿。二十七歳。
 圓崇 のち玉樹 圓崇
 伊勢國一身田(專修寺内)の智慧光院の住職。
 圓祥[專修寺]の六男。
 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は十男とする。
 母は家女房「二葉」。
 幼名「棟若(むねわか)」
 法號「無量幢院」
 字「コ梁」
 文政二年(一八一九)六月四日生。
 天保三年(一八三二)二月、得度。
圓崇C書本『墨化台年譜』天保三年二月條に「不肖【棟若。智慧光院圓崇】以住智恵光院」とある。小妻隆文『円祥上人行実』34〜35頁。
 天保四年(一八三三)十一月、智慧光院の住職となる。
 法印に敍され、權大僧正に任じられる。
 明治十四年(一八八一)十二月二十一日、權少ヘ正に補される。
 明治十六年(一八八三)二月二十日歿。六十五歳。
 倶若 ともわか
 圓祥[專修寺]の七男。
 法號「善月院」
 法名「淨空圓影」
 文政二年(一八一九)生。
 文政二年(一八一九)七月十五日歿。一歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 祥明 のちC水谷 祥明
 伊勢國小山(三重県津市一志町小山)の金龍山巖寺の住職
 圓祥[專修寺]の七男。
 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は六男とする。
 ※『新修 有栖川宮系譜』では通冨の後に排列される。
 母は家女房「園木」。
 法號「功コ池院」
 字「コ瀧」
 幼名「瀧丸(たきまる)」
 文政七年(一八二四)六月十二日生。
 天保三年(一八三二)四月、得度。
 安政六年(一八五九)十月、小山巖寺の附弟となる。
 明治十一年(一八七八)十月九日、權少ヘ正に補される。
 明治十四年(一八八一)十月十四日歿。五十八歳。
 ※「青巖寺について | 小山 青巖寺」 http://oyama-seiganji.com/info/
 源朝臣通富 のち中院 通富 なかのゐん みちとよ
 中院家第二十五代當主。
 權大納言
 正二位
 伯爵
 圓祥[專修寺]の九男。
 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は七男とする。
 藤原朝臣實堅[徳大寺](藤原朝臣輔平[鷹司]の十一男。圓祥の兄)の實子(二男)。
 源朝臣通繋[中院]の養子。
 母は彩姫(霜信院)。
 幼名「珠鶴若(すずわか)」
 文政六年(一八二三)九月二十三日生。
 天保六年(一八三五)十月三日、藤原朝臣實堅(さねみ)[コ大寺大納言]の實子(二男)となり、源朝臣通繋(みちつぐ)[中院]の養子となり、中院家を相續。十三歳。
 天保七年(一八三六)正月二十七日、中院邸に移る。
 天保七年(一八三六)五月二十三日、從五位下に敍される。十四歳。
 天保七年(一八三六)十一月二十七日、從五位上に敍される。
 天保七年(一八三六)十二月二十六日、侍從に任じられる。
 天保八年(一八三七)三月二十五日、元服。昇殿。同日、正五位下に敍される。
 天保九年(一八三八)三月二十一日、從四位下に敍される。
 天保十年(一八三九)正月四日、從四位上に敍される。
 天保十二年(一八四一)二月四日、正四位下に敍される。
 天保十二年(一八四一)八月二十九日、右近衞權少將に任じられる。
 嘉永四年(一八五一)七月二十八日、右近衞權中將に轉ず。
 安政四年(一八五七)五月十五日、參議に任じられる(右中將兼任)。
 安政四年(一八五七)九月十八日、從三位に敍される。
『公卿補任』安政四年 參議 正四位下「(中院)源通富(三十五)」
右中將。五月十五日兼(小除目)。同月廿五日拜賀着陣。同月廿七日聽直衣。同日直衣始。九月十八日叙從三位。○石清水放生會參向。
正四位下通繋朝臣男。母肥前故少將治茂朝臣女。實前内大臣實堅公次男。母故前權大納言輝久卿女。
文政六九廿三誕生。天保七五廿三叙從五位下(十四歳)。同年十一廿七叙從五位上。同年十二廿六任侍從。同八三廿五元服聽昇殿(十五歳)。同日叙正五位下。同九三廿一叙從四位下(十六歳)。同十正四叙從四位上(十七歳)。同十二二四叙正四位下(十九歳)。同年八廿九任右權少將。同十三正一拜賀。同十四五十七服解(實母)。同年七八除服出仕復任。弘化三三四賜仁孝天皇御當色。同月七賜同御素服。同年四四除服宣下。嘉永四七廿八轉權中將(廿九歳)。同年九十六拜賀。
 安政六年(一八五九)二月十一日、正三位に敍される。
 文久三年(一八六三)九月二日、權中納言に任じられる。
 文久三年(一八六三)十一月二十八日、從二位に敍される。
 慶應元年(一八六五)九月二十七日、正二位に敍される。
 慶應四年(一八六八)二月二日、權大納言に任じられる。
 幕末、國事に盡し、明治維新後、參與となった。
 殿掌
 明治十七年(一八八四)七月七日、伯爵を授けられる。
 明治十八年(一八八五)六月十九日薨。六十二歳。
 正二位
平成新修 旧華族家系大成』下巻 二三八頁
韶仁親王の男子とする系圖があるが、韶仁親王の養子となった圓禧の弟という關係から、韶仁親王の子と誤解されたものであろう。
 萬龜姫
 圓祥[專修寺]の十女。
 法號「蔡華院」
 法名「香玉圓龜」
 文政七年(一八二四)生。
 文政八年(一八二五)十一月二十四日歿。二歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 禾姫 のぎひめ
 圓祥[專修寺]の十一女。
 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は八女とする。
 母は家女房「袖紫」。
 法號「實秀院」
 法名「圓茂寛雲」
 文政八年(一八二五)生。
 伊勢國一身田(專修寺内)玉保院の寛潮(のち水沼寛潮)の室。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に「東院殿深解院室」とある。
 安政四年(一八五七)九月二十二日歿。
【参考】
 水沼寛潮[玉保院住職]
  ├────水沼眞崇──水沼寛厚[玉保院住職]
┬禾姫           ├────(養子)水沼志朗
└中院通富──中院通規─┬水沼冨子     ↑
            └中院四カ のち中院志朗 のち水沼志朗(水沼寛厚養子)
 ※柏原祐泉、薗田香融、平松令三 監修、赤松徹真 等編『真宗人名辞典』(法藏館、一九九九年七月)
 誓標
 伊勢國奄藝郡北K田村(三重県津市河芸町北黒田)の淨光寺の住職
 圓祥[專修寺]の十男。
 ※ 小妻隆文『円祥上人行実』は八男とする。
 母は家女房「袖紫」。
 幼名「享丸(あてまる)」
 法號「皆同慶院」
 字「コ享」
 ※『新修 有栖川宮系譜』に「號解道ヘ院」とある。
 文政十年(一八二七)生。
 天保六年(一八三五)二月、得度。
小妻隆文『円祥上人行実』に「天保二年十二月九日有栖川宮韶仁親王の王子となる。天保六年二月得度」とあるが、檢討を要す。
 慶應三年(一八六七)十月五日歿。四十一歳。
 岩若
 圓祥[專修寺]の十一男。
 法號「西巖院」
 法名「敬瞻圓祝」
 文政十一年(一八二八)生。
 文政十一年(一八二八)十月十七日歿。一歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 綱君 つな[ぎみ]
 藤原朝臣政煕[近衞]の女子(末女)。
 圓祥[專修寺]の養子。
 文政十一年(一八二八)八月十二日生。
 圓祥の養子となり、伊勢國安濃津の彰見寺に縁約。
 後、實家の近衞家に歸家。
 (男子)
 圓祥[專修寺]の十二男。
『專修寺門室歴世系譜』(『真宗史料集成』第七巻 所收)では、「某」として、円禕の次に排列され、これに從うと十三男となる。
 母は彩姫(霜信院)。
 法號「觀珠院」
 法名「義海圓泡」
 文政十二年(一八二九)生。
 文政十二年(一八二九)十一月十二日歿。一歳。
 ※『新修 有栖川宮系譜』に不見。
 圓禕
 三河國桑子(愛知県岡崎市大和町沓市場)の桑子山妙源寺の住職
 圓祥[專修寺]の十三男。
小妻隆文『円祥上人行実』は十二男とする。
『專修寺門室歴世系譜』(『真宗史料集成』第七巻 所收)では、「某」の次に排列され、これに從うと十二男となる。
 母は家女房「文崎」(文操院)。
 幼名「尚若(ひさわか)」又「學君(さと[ぎみ])」
 法號「紫金成院」
 字「コ尚」
 天保二年(一八三一)生。
 ※『新修 有栖川宮系譜』は「天保元年庚寅 月 二血誕生」と作す。
 天保九年(一八三八)二月、得度。
 弘化四年(一八四七)五月、三河國桑子の妙源寺の住職となる。
 明治六年(一八七三)十二月十五日歿。四十三歳。
 八十姫 やそひめ / 于傳姫 うてひめ
 圓祥[專修寺]の十二女。
 母は彩姫(霜信院)。
 法號「貞協院」
 法名「圓美光麗」
 天保二年(一八三一)生。
 三河國岡崎の滿性寺の光憲に縁約。
 天保六年(一八三五)二月十八日歿。五歳。
 杖姫 つえひめ
 圓祥[專修寺]の十三女。
 母は家女房「袖紫」。
 法號「如心院」
 法名「圓安慶慰」
 天保二年(一八三一)生。
 伊勢國松阪の常念寺の慶眞に縁約。
 天保十三年(一八四二)十月五日歿。十二歳。
小妻隆文『円祥上人行実』には、圓祥[專修寺]の十四女として「彰(トシ)子」が擧げられるが、『專修寺門室歴世系譜』(『真宗史料集成』第七巻 所收)では、系線が亂れているものの、彰子は、圓メi圓祥の庶長子)の子とされている。參考のため、彰子の經歴を次に掲ぐ。
 法號「等曜院」
 法名「圓實寛照」
 天保九年(一八三八)生。
 伊勢國一身田(專修寺内)の玉保院の寛治の室。
 文久三年(一八六三)二月十五日歿。二十六歳。
 
【逸事等】
「親鸞の再來」と噂された。
『円祥上人行実』 104頁
專修寺門跡では、圓猷・圓遵・圓祥と三代に亙り、親王宣下を熱望していた。
『円祥上人行実』 36頁
小妻隆文『円祥上人行実』所收「円祥・円禧上人年譜 補遺」天保七年(一八三六)に、「上人漸次肥満して長坐を苦痛とす」とある。
 
【著述等】
『高田學報』第十八輯「圓祥上人全集」
『高田學報』第十九輯「圓祥上人全集續篇」
 
【文獻等】
小妻隆文『円祥上人行実 附 円禧上人行実』(津、高田学会、一九七三年九月)
『專修寺門室歴世系譜』(『真宗史料集成』第七巻 所収) 七四三〜七四六頁
新修 有栖川宮系譜』 四九〜五三頁
平成新修 旧華族家系大成』下巻 149頁



 
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更新日時: 2021.07.15.
公開日時: 2011.02.16.


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