前頁 「 織 [織子]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[織仁]
 
フレームなし

工事中

□ 織仁親王 おりひと
 
 有栖川宮(六)
 
【官位】
 一品
 兵部卿、中務卿
 
【幼稱】
 「
壽手宮」 すてのみや
 
【法號】
 「文聚院宮
 
【出自】
 職仁親王[有栖川殿]の七男(八男と公示か)。
 桃園院の猶子
 
【生母】
 「月照院」
 家女房
 「千重」
 藤原温子
『詰所系圖』有栖川殿「織仁親王」
母辰君。實家女房。始千重。後爲公雄卿猶子、又爲隆煕卿猶子。職仁親王薨時剃髪、號月照院眞惟。
『織仁親王行實』 一頁
御生母は家女房後藤温子、後藤左一郎の女にして、常盤木、又は菖蒲小路と稱し、後、月照院と號す。
 
【實母】
 藤原朝臣淳子 アツコ
 御息所
 「辰君(トキギミ)」
 「光臺院殿普照鶴山」
 藤原朝臣吉忠[二條]の一女。
 
【經歴】
寶暦三年(一七五三)七月二日、誕生。
『織仁親王行實』 一頁
寶暦三年七月二日、辰刻宮邸に於て御誕生あり。父宮、會、四十二歳に當るを以て、俚俗の例に隨ひ、殊更に宮邸の塀重門に捨て、次いで太宰少貳某をして之を拾い、其の宅に奉ぜしめらる。五日、胞衣を五條若宮八幡社地内に埋む。
『有栖川宮系譜』「織(【振假名】オリ)仁親王」
御母御息所光臺院殿。
實御母家女房月照院。
寶暦四年(【傍】甲戌)八月一日御誕生。號壽手(【振假名】ステ)宮。
 實寶暦三年(【傍】癸酉)七月三日。同月五日納御胞衣於五條若宮八幡社地。
同年二月廿一日、八十宮(吉子内親王)御預、御年被改八月一日。
のち、寶暦四年八月一日生と改める。
「壽手宮」
寶暦三年(一七五三)七月二日、「壽手宮(すてのみや)」と稱される。
『織仁親王行實』 一〜二頁
七日、七夜の祝ありて、父宮より壽手宮の幼稱を賜ふ。即ち捨宮に因みしものなり。又、太宰少貳に特に御祝儀として金百疋・酒一樽・肴一折を下賜せらる。八月二十七日、父宮より侍兩人を少貳宅に遣して、親王を貰ひ受けしめ、同所より御裏年寄永井、宮の網代輿に乘添ひ、宮參として上御靈社に參拜の後、始めて宮邸に入らせらる。
寶暦四年(一七五四)二月二十一日、誕生日を寶暦四年八月一日と改める。
『織仁親王行實』 二頁
四年二月二十一日、御伯母吉子内親王(靈元天皇第十二皇女八十宮)御殿に預けらるゝ事となり、包輿にて女中瀧口乘添ひて、同所に移徙せらる。この時、御誕辰を改めて寶暦四年八月一日となす。爾來、内親王御殿に鞠育せらるゝこと、凡そ二年なり。
「壽手宮」[有栖川若宮]
寶暦六年(一七五六)十二月十九日、有栖川宮繼嗣と定められる。四歳。
『有栖川宮日記』寶暦六年十二月十九日壬午
一、壽手宮様【のちの織仁親王】、今日御色直也。
・・・・・
一、御前へ元雄・凭季被召。
壽手宮樣御事、御家督之思召入之旨被仰渡。尤此御趣承知仕、御近習・侍中迄も仰之趣可相心得旨申渡候樣被仰渡。且御歳齢御四歳可相心得旨。
『織仁親王行實』 二頁
六年十二月十九日、御色直の儀を行はせらる。是日、父宮、宮を世子宮に御治定、御意を家臣一同に諭告し、且つ、輔導に心を盡さしめらる。即ち前年五月九日、世子宮音仁親王の薨去あらせられしを以てなり。
寶暦十年(一七六〇)三月七日、深曾木。
『織仁親王行實』 二〜三頁
寶暦十二年(一七六二)十二月七日、先帝桃園院の猶子となる。十歳。
『御湯殿上日記』寶暦十二年十二月七日
リ。有栖河宮の若宮、閑院宮若宮方、桃園院樣御在世の御時分御ねがひ仰入られおかれ候ゆへ今日ねがひの通仰出され奉書出る。
『有栖川宮日記』寶暦十二年十二月七日乙未
一、壽手宮樣御猶子之義、今日被仰出。女房奉書如左(中鷹紙、竪文也)。
くはう樣より申せとて候。有栖川宮若宮先帝樣【桃園院】御在世に御猶子の御事御ねかい仰入られおかれ候よしきこしめされ、御ねかひの通仰出され候。このよし申せとて候。御心得候て御申入候へく候。かしく。
                          〓【より】
 〆 たれにてもの御つほねへまいらせ候。
『有栖川宮系譜』「織(【振假名】オリ)仁親王」
寶暦十二年十二月七日、爲桃園院御猶子。
 去七月御願。明年二月十九日御弘。
寶暦十三年(一七六三)二月十九日、桃園院猶子を披露。
寶暦十三年(一七六三)十月五日、名を「織仁(オリヒト)」と賜わる。
『有栖川日記』寶暦十三年十月五日戊子
一、壽手宮樣御名字御爪點御窺之處、
   織仁
『御櫻町院宸記』寶暦十三年「宮かたしん王せん下に付候ての事共」
 來月中旬
 壽手宮親王宣下
勅別當 西園寺大納言
上卿  葉室大納言
辨   伊光
 致宮親王宣下
勅別當 源大納言
上卿  鷲尾大納言
辨   光房
 奉行 隆望朝臣
壽手宮肝煎
    植松前宰相
致宮肝煎
    平松中納言
・・・・・
 有栖川宮(壽手宮)
 閑院宮(たきの宮)
     名字
寶暦十三年十月十六日親王宣下ニ付
同月五日爪てんの申さるゝ則爪てん也
 織(【振假名】をり)仁
 美(【振假名】はる)仁
織仁親王[有栖川若宮]
寶暦十三年(一七六三)十月十六日、親王宣下。十一歳。
『有栖川日記』寶暦十三年十月十六日己亥
一、壽手宮御方【織仁】親王宣下陣儀(辰剋
   上卿  權大納言ョ要卿
   辨   權左中辨伊光
   奉行  藏人頭右近衞權中將隆望朝臣
『八槐記』寶暦十三年十月十六日己亥
『定リ卿記』寶暦十三年十月十六日己亥
餈後、參前右大臣見參。・・・・・ 又有親王宣下事。一品中務卿親王(職仁)息、大宰帥親王(典仁)息等也。一品宮上卿葉室大納言ョ要卿、辨權左中辨伊光。家司可尋記(【傍注】後聞。大藏權大輔雅陳云々)。・・・・・ 中書王息名字織【振假名「ヲリ」】仁云々。勅別當(一品宮西園寺大納言。帥宮源大納言)。
『ョ言卿記』寶暦十三年十月十六日己亥
『御湯殿上日記』寶暦十三年十月十六日
稿本後櫻町天皇實録』一一七〜一一九頁 寶暦十三年十月十六日、「有栖川宮職仁親王ノ王子壽手宮竝ニ閑院宮典仁親王ノ王子致宮ニ親王宣下アリ、名字ヲ壽手宮ニ織仁、致宮ニ美仁ト賜フ、」
織仁親王(兵部卿)[有栖川若宮]
寶暦十四年(一七六四)三月十八日、元服。三品に敍され、兵部卿に任じられる。十二歳。
『八槐記』寶暦十四年三月十八日己巳
織仁親王(一品職仁親王息。桃園院御猶子)於有栖川宮有元服儀。加冠式部卿家仁親王。理髪頭左中將隆望朝臣。C水谷大納言・C閑寺中納言・實理朝臣著上達部座(簾外)。敍三品、任兵部卿。藏人左少辨光房仰宣下。鷲尾大納言著仗座奉行。大内記輝長朝臣作位記。少納言爲璞朝臣・中務大輔光村朝臣捺請印。大外記師資成上宣旨。
明和二年(一七六五)六月二十八日、二品に敍され、隨身・兵仗を聽される。十三歳。
『紀光卿記』明和二年六月廿八日壬申
今日兵部卿織仁親王(【傍注】有栖川)(元三品)二品・隨身兵仗等於陣宣下。上卿新大納言(隆前)。辨權右中光祖。奉行頭中將公明朝臣。
織仁親王(兵部卿)[有栖川宮]
明和六年(一七六九)十月二十二日、父 職仁親王の薨去により、有栖川宮を繼承。十七歳。
織仁親王(中務卿)[有栖川宮]
明和七年(一七七〇)十一月一日、中務卿に遷任。十八歳。
『有栖川宮日記』明和七年十一月朔日癸卯
一、取次渡邊隱岐守〓【より】來状。諸大夫壹人御用之儀付、非藏人口迄罷出候樣、烏丸辨殿御申渡之由、即剋内匠頭被差出候處、烏丸殿御逢被成候。
 被任中務卿之旨、尤兵部卿者御申替之旨御申渡。歸殿其由言上。御請使内匠頭。
文化八年(一八一一)十二月十九日、一品に敍される。五十九歳。
『織仁親王日記』文化八年十二月一日
一、依御内慮豐岡三位酉剋過入來。面會。
 仰言葉一紙
今度依可有落飾、被願申可被一品宣下之事、非一世親王者、近來其例邂逅不容易。雖然靈元院御近親、仙洞【後櫻町院】亦御由緒、且被仰進候旨等有之。加之漸被及老年之間、依格別之叡慮、以不可爲後例之旨、可被宣下之事。
一世ではない親王の一品宣下は近來は稀なことであったが、格別の叡慮により、後例としないという條件で許された。
『織仁親王日記』文化八年十二月十九日
一、吉辰一品宣下。御所々々獻上物・拜領物。未半剋宣旨請。
龍淵 「入道一品宮」
文化九年(一八一二)二月十五日、中務卿を辭官、隨身・兵仗を辭退し、落飾。六十歳。法名「龍淵」
『有栖川宮日記』文化九年二月十五日戊午
一、一品宮【織仁親王】今日(未剋)御落飾被爲在。尤於梶井宮御役也。・・・・・
一、非藏人口  御使 圖書頭
頭中將殿御面會ニ而今日御落飾ニ付御辭官【中務卿】、隨身兵杖【兵仗】御辭退之義、被聞召候旨被旨上。梶井御殿參上及言上。御承知御使相勤
『有栖川宮日記』文化九年二月十七日庚申
一、今日被仰出候趣、木工頭承。一統申渡。
一品宮樣御落飾、御法諱「龍淵」。以來常々一品宮樣可奉稱。他向ニ而者或以入道一品宮稱候而も宜候。尤御隱居相心得可申候。
文政三年(一八二〇)二月十九日死亡。
『有栖川宮日記』文政三年二月十九日乙巳
一、戌半剋頃河原御殿〓【より】參ル。  坂部左近
一品宮樣【織仁親王】至不被遊御勝ニ付、右之趣、實枝宮御方【韶仁親王妃宣子女王】八穗宮御方【幟仁親王】初等被仰進。・・・・・
 内實者、戌剋過薨去也。
文政三年(一八二〇)二月二十日「薨逝」(發喪)。六十八歳。
『洞中執次詰所日記』文政三年二月廿一日丁未
一、有栖川入道一品宮昨廿日亥剋薨去ニ付、今日より來廿三日迠三ヶ日之間廢朝被仰出候旨、上御所より申來。
一、右御同樣ニ付、從今日三ヶ日洞中被止物音候旨、被仰出候段、兩役衆被仰渡、如左申達。
『光格天皇日次案』文政三年二月廿一日丁未
入道一品宮【織仁親王】薨去(昨夜)。自今日三箇日洞中被停物音。
稿本光格天皇實録』一八〇六頁 文政三年二月二十一日、「有栖川宮織仁親王、昨夜、薨去ニ依リ、是日ヨリ三箇日間、物音ヲ停メラル、」
文政三年(一八二〇)三月五日、大コ寺龍光院に葬られる。
『詰所系圖』有栖川殿「織仁親王」
寶暦四【ママ】年七月二日生。號壽手宮。同十二年十二月七日爲御猶子。同十三年十月十六日親王宣下、織仁。同十四年三月十八日元服。加冠京極式部卿家仁親王。同日敍三品、任兵部卿。明和二年六月二十八日敍二品(陣)。同七年十一月一日遷任中務卿。安永七年十月二十八日三部抄從仙洞御傳授。同十一月四日迎鷹司輔平公女(房君)爲御休所。天明四年十一月從九條攝政尚實公入木道御傳授。同八年正月三十日洛大火亭宅燒亡。後移于舊地。寛政六年五月二十五日伊勢物語從仙洞御傳授。同九年五月二十五日灌頂同上。同九月二十五日古今集同上。同十年五月二十五日一事之儀同上。同十一年三月二十六日諷誦願文切紙、廣橋伊光卿・甘露寺篤長卿令傳給。同年十月二十五日亭宅中宮御産殿被用。享和三年三月十五日入木道灌頂當今傳上。文化元年五月十七日額字并入木道灌頂二ヶ條專修寺令傳給。同八年十二月十九日一品宣下。同九年二月十五日辭中務卿。同日落飾。法名龍淵。文政三年二月廿日薨(六十六)。號文聚院。同三月五日酉刻葬于大コ寺中龍光院。
 
【配偶】
 藤原朝臣nq トミコ
 御息所
 「房君(フサギミ)」
 藤原朝臣輔平[鷹司](直仁親王[閑院宮]の男子)の三女。
 寶暦十三年(一七六三)四月二十二日生。
 安永七年(一七七八)閏七月二十八日、結納。
 安永七年(一七七八)十一月四日、入輿。
 文化元年(一八〇四)九月二十四日、死去。
 大コ寺龍光院に葬られる。號「明臺院殿圓月C鏡」
 
【子女】
高貴宮
孚希宮織子女王
【源朝臣齊賢[淺野(廣島)]の室】
同宮」「榮宮幸子女王
【大江朝臣齊房[毛利(山口)]の室】
韶仁親王
有栖川宮(七)
【光格天皇の猶子】
もと
「若宮」「阿計宮
大機文成のち文乘
圓照寺宮(五)
【光格天皇の養子】
もと
淑宮[中宮寺宮]
邦宮」「永宮承眞親王
[梶井宮]
【光格天皇の養子】
「C宮」
【專修寺圓遵(音仁親王の一男)の一男】
公猷親王のち舜仁親王
[輪王寺宮(一〇)]
【光格天皇の養子。准三宮】
もと
龜代宮[知恩院門跡のち一乘院門跡] 正道親王[輪王寺宮附弟]
「萬壽宮」「繁宮」
幾宮
【實子】「章宮」 圓祥
[專修寺門主(一九)]
【藤原朝臣輔平[鷹司]の男子。專修寺圓遵(音仁親王の一男)の附弟】

「千鶴宮」 尊照榮暉
[中宮寺宮]
美保宮」「秀宮」 熈子女王
樂宮喬子女王
【源朝臣家慶[コ川]の室】
彌宮
「壽宮」
脩道親王 濟仁親王
[仁和寺御室]
【光格天皇の養子】
もと
「誠宮」[勸修寺宮
嘉寧宮苞子女王
綽宮
萬信宮
種宮sケ親王 尊超親王
[知恩院宮]
【光格天皇の養子。源朝臣家齊[コ川]の猶子】

「登美宮」 吉子女王
【源朝臣齊昭[徳川(水戸)]の室】
【實子】「精宮」 明道親王 慈性親王
[大覺寺宮のち輪王寺宮]
【韶仁親王の二男】

 
【逸事等】
寶暦十一年(一七六一)正月十六日、源朝臣治高[K田(福岡)]の女子、いと姫と婚約したが、明和元年(一七六四)十一月、解消。
『織仁親王行實』 三頁
十一年正月十六日、筑前藩主K田治高の女いと姫との間に婚約内定す。この婚約は、後、明和元年十一月同姫の虚弱と親王の既に冠禮を畢りて婚を急がるゝ等の事情ありしが爲め、K田家と合議の上解約となれり。
 
【備考】
父 職仁親王の死亡(明和六年十月二十日)により、明和六年十月二十一日、後櫻町院より和歌手仁遠波口傳を傳授された。
『紀光卿記』明和六年十月廿一日己巳
今夕、俄自主上【後櫻町院】和歌手仁遠波口傳有御相傳于兵部卿宮(織仁親王。十六歳。中書王【職仁親王】息)。是父宮違例以外之故云々。
稿本後櫻町天皇實録』 六四九頁
 
【著述等】
『織仁親王日記』
 
 
【文獻等】
『織仁親王行實』(高松宮藏版、昭和十三年(一九三八)六月
新修 有栖川宮系譜』 三〇〜三三頁
『皇室制度史料 皇族三』 六四〜六五頁
『皇室制度史料 皇族四』 一五九〜一六二頁
稿本桃園天皇實録』一〇一九〜一〇二〇頁 寶暦十二年十二月七日 「有栖川宮職仁親王ノ王子(織仁親王)竝ニ閑院宮典仁親王ノ王子(美仁親王)ヲ猶子ト爲ラル、天皇、崩後ナレドモ御在世中ノ情願ニ依リテナリ、」


 
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更新日時: 2008.05.13.
公開日時: 2008.02.13.

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