幾宮


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[幾A]

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幾宮」 いくのみや
 
【出自】
 
織仁親王[有栖川殿]の五女。
 
【法號】
 「華光院宮」 けくわうゐんのみや
 
【生母】
 中臈「千尋」
 のち家女房(上臈格)「常盤木」
 「常信院」
 敦子 あつこ
 西本願寺家臣 村井ョ母の女子。
 桂宮諸大夫 尾崎積興の養女。
 
【經歴】
寛政二年(一七九〇)二月二十四日子刻に誕生。生誕日を二十五日と定める。
『有栖川宮日記』寛政二年二月廿四日
一、今子剋姫宮御誕生。
  廿五日御日取相成候。
『有栖川宮日記』寛政二年二月廿六日
一、新誕之姫宮雜事日時勘進之義、幸コ井ヘ木工頭以切紙申遣。則勘文如左。
  擇申昨廿五日丑一點御誕生姫宮雜事日時。
    御蔵胞衣日時
     今月廿八日己卯時辰(可埋坤方)
    御着衣日時
     三月一日辛巳時辰(可着御白色御衣)
    御剃髪日時
     三月一日辛巳時辰
  寛政二年二月廿六日
        権助兼土佐守賀茂朝臣保ヘ
        助     賀茂朝臣保延
        刑部権大輔兼暦博士賀茂朝臣保ロ
寛政二年(一七九〇)三月二日、「幾宮」と稱號を定められる。
『有栖川宮日記』寛政二年三月二日
一、新誕姫宮御名被進幾(イク)宮。
  御守刀被進(伊賀守金通)
寛政二年(一七九〇)四月一日、七夜の祝儀が行われる。
『有栖川宮日記』寛政二年四月朔日
寛政二年(一七九〇)九月十五日、喰初。
『有栖川宮日記』寛政二年九月十五日
一、幾宮御法御箸初。
 ・・・・・
寛政三年(一七九一)四月四日死亡。喪を秘す。
『有栖川宮日記』寛政三年四月四日
一、幾宮御方卯剋頃御直視、暫ニ而御治り、午剋比ゟ又御直視。御治り無之。戊午剋御大切被為及。
一、右ニ付山科岱安・同里安被召。
          早朝御使前川軍治
 同三谷丈順・同太順召状遣。
 右四人とも参診。
 午剋過福井終吉参診付診被仰付御薬龍膽湯献ス。御通り不被遊。其外諸薬とも同様。
    ・・・・・
一、戌下剋被為及御大切ニ付
       前川主鈴 嶋丘掃部 まつ
 右御用掛り被仰附。
寛政三年(一七九一)四月五日發喪。三歳。大コ寺龍光院に葬られる。追號「華光院」。
『有栖川宮日記』寛政三年四月五日
一、幾宮御方為御養生前川主鈴方被為入、酉剋御出門。・・・・・
  實者御寺竜光院被為成。四日戌ノ半剋薨去也。早朝ゟ勝之進参懸合。昼ゟ前川主鈴参拵等調置。今日戌剋竜光院被為入。方丈西ノ間御輿ヲ入。
一、幾宮御方終戌下剋薨去被為在候旨、亥半剋前川軍治帰殿役所申出ル。即剋及言上。被惣代木工頭(麻上下ニ而)御悔申上ル。宮々御方、月照院殿も、奧向茂信濃惣代申上ル。
一、幾宮御方終戌下剋薨去被為在候。
一、御法諱 華(ケ)光院宮。
一、華光院宮御入棺戌剋。右ニ付竜光院一山之僧御経。其後焼香。
・・・・・
一、御送葬竜光院方丈客殿ゟ御廟所迄衆僧御道経。續御行列。
 ・・・・・
 
【墓所】
 大コ寺中龍光院内有栖川宮墓地
 京都市北区紫野大コ寺町
 
【文獻】
『有栖川宮實録』五二『織仁親王實録』一六(宮内公文書館 識別番号 75416)「王女 某(幾宮)」


 
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公開日時: 2020.12.26.

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