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寛政二年(一七九〇)二月二十四日子刻に誕生。生誕日を二十五日と定める。
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『有栖川宮日記』寛政二年二月廿四日乙亥
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『有栖川宮日記』寛政二年二月廿六日丁丑
一、新誕之姫宮雜事日時勘進之義、幸コ井ヘ木工頭以切紙申遣。則勘文如左。
擇申昨廿五日丑一點御誕生姫宮雜事日時。
御蔵胞衣日時
今月廿八日己卯時辰(可埋坤方)
御着衣日時
三月一日辛巳時辰(可着御白色御衣)
御剃髪日時
三月一日辛巳時辰
寛政二年二月廿六日
権助兼土佐守賀茂朝臣保ヘ
助 賀茂朝臣保延
刑部権大輔兼暦博士賀茂朝臣保ロ
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寛政二年(一七九〇)三月二日、「幾宮」と稱號を定められる。
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『有栖川宮日記』寛政二年三月二日壬午
一、新誕姫宮御名被進幾(イク)宮。
御守刀被進(伊賀守金通)
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寛政二年(一七九〇)四月一日、七夜の祝儀が行われる。
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寛政二年(一七九〇)九月十五日、喰初。
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寛政三年(一七九一)四月四日死亡。喪を秘す。
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『有栖川宮日記』寛政三年四月四日戊申
一、幾宮御方卯剋頃御直視、暫ニ而御治り、午剋比ゟ又御直視。御治り無之。戊午剋御大切ニ被為及。
一、右ニ付山科岱安・同里安被召。
早朝御使前川軍治
同三谷丈順・同太順召状遣。
右四人とも参診。
午剋過福井終吉参診ニ付診被仰付御薬龍膽湯献ス。御通り不被遊。其外諸薬とも同様。
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一、戌下剋被為及御大切ニ付
前川主鈴 嶋丘掃部 まつ
右御用掛り被仰附。
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寛政三年(一七九一)四月五日發喪。三歳。大コ寺龍光院に葬られる。追號「華光院」。
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『有栖川宮日記』寛政三年四月五日己酉
一、幾宮御方為御養生前川主鈴方江被為入、酉剋御出門。・・・・・
實者御寺竜光院江被為成。四日戌ノ半剋薨去也。早朝ゟ勝之進参懸合。昼ゟ前川主鈴参拵等調置。今日戌剋竜光院江被為入。方丈西ノ間江御輿ヲ入。
一、幾宮御方終ニ戌下剋薨去被為在候旨、亥半剋前川軍治帰殿役所江申出ル。即剋及言上。被惣代木工頭(麻上下ニ而)御悔申上ル。宮々御方、月照院殿江も、奧向茂信濃惣代ニ申上ル。
一、幾宮御方終ニ戌下剋薨去被為在候。
一、御法諱 華(ケ)光院宮。
一、華光院宮御入棺戌剋。右ニ付竜光院一山之僧御経。其後焼香。
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一、御送葬竜光院方丈客殿ゟ御廟所迄衆僧御道経。續而御行列。
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