前頁 「 音 [音恒]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[音仁]

フレームなし

工事中

音仁親王 オトヒト
 有栖川殿
若宮
 一品
 常陸太守、彈正尹
 
【幼稱】
 「若宮」 わかみや
 「遠久宮」 をくのみや
 「億宮」 おくのみや
 
【法號】
 「淨圓覺院宮
 
【出自】
 職仁親王[有栖川殿]の一男。
 櫻町院の猶子。
 
【生母】
 藤原朝臣辰子
「辰君」
御息所
藤原朝臣吉忠[二條]の女子。
 
【經歴】
享保十四年(一七二九)八月十一日巳半刻、有栖川宮邸において誕生。
『詰所系圖』に十二日生とあるのは誤り。
「若宮」
享保十五年(一七三〇)九月二十三日、髪置。二歳。
享保十六年(一七三一)十一月十六日、色直。三歳。
享保十八年(一七三三)十一月十六日、深曾木。五歳。
「億宮」「遠久宮」
寛保元年(一七四一)三月二十七日、「億宮(遠久宮)」と改號。
『職仁親王行實』「音仁親王」 二〇九〜二一〇頁
寛保元年三月二十七日、若宮を億宮と改稱せらるゝ旨仰出され、日常は遠久宮を用ひしめらる。この億宮の文字は、靈元天皇御在世中に御撰考あらせられしものなりといふ。
寛保二年(一七四二)三月十二日、櫻町院(當今)の猶子となる。十四歳。
『詰所系圖』に十六日爲御猶子とあるのは誤り。十六日は御禮參内、披露の日。
『御湯殿上日記』寛保二年三月十二日
はるゝ。閑院宮、京ごくの宮、ありす河宮より、若宮かた御ゆうし御ねがいの奉書まいる。御返事まいる。
『ョ言卿記』寛保二年三月十二日辛未
尹宮、式部卿宮、中務卿宮、右若宮御猶子相濟了。
『御湯殿上日記』寛保二年三月十三日
くもる。閑院宮、京ごくの宮、ありす河宮へ、若宮から御ゆうしの御禮に御參内の御日がら十六日にと奉せうにて申まいる。
『御湯殿上日記』寛保二年三月十六日
はるゝ。御はいあり。此度親王がた若宮がた御ゆうし仰出され候に付、若宮がた御參内。閑院宮より二しゆ壹かまいる。京極宮、有栖河宮よりも右同斷。ひさの宮【壽宮】の御かたより御太刀、馬代、白かね十兩、三しゆ二かまいる。遠久宮の御かた、胡佐の宮の御かたよりも右同斷。八十宮の御かたより御しうぎ【祝儀】に御まな一折まいる。とき君より御まな一折しん上。こなたより閑院宮へさあや三卷、御まな一折、ひさの宮【壽宮】の御かたへはぶたへ【羽二重】五疋、壹か二しゆまいる。右勅使たか野少將。京極宮へ御まな一折、こさの宮【胡佐宮】御かたへはぶたへ五疋、壹か二しゆまいる。勅使坊ぜう左衞門權佐。有栖河宮へ御まな一折、遠久宮の御かたへはぶたへ五疋、壹か二しゆまいる。勅使おか崎兵部少輔。(【傍】右の)若宮かた御參内。四季閧ノて御たいめん成。御こぶあわにて御さかづき一こんまいる。・・・・・
『ョ言卿記』寛保二年三月十六日乙亥
御猶子爲御歡御使尹宮(高野少將隆古)、式部卿宮(左衞門權佐俊逸)、中務卿宮(兵部少輔國榮)。
寛保三年(一七四三)九月一日、名を「音仁」と賜わる。
音仁親王
寛保三年(一七四三)九月四日、親王宣下
『通兄公記』寛保三年九月四日癸未
音仁(中務卿宮【職仁親王】息。号遠久宮。今上【櫻町院】御猶子)親王宣下。上卿廣幡大納言【長忠】、辨宣時【中御門】、奉行職事基望朝臣【園】。勅別當三條大納言(利季)。
『八槐記』寛保三年九月四日癸未
此日有親王宣下(典仁。一品彈正尹直仁親王嫡男。今上【櫻町院】御猶子)。・・・・・ 次又有同宣下(音仁。二品中務卿職仁親王嫡男。今上御猶子)。上卿新源大納言(長忠)【廣幡】。辨右少宣時【中御門】。奉行基望朝臣。別當三條大納言(利季)。
『ョ言卿記』寛保三年九月四日乙【癸】未
今日一品宮御息、親王宣下ニ付午刻參賀。申半刻歸。直有栖川宮御息親王宣ニ付參賀了。
・・・・・
中務卿宮息男遠久宮親王宣下(音仁。十五)。上卿新大納言(長忠)【廣幡】。辨宣時【中御門】。勅別當三條大納言(利季)。家司幸雅。右奉行職事基望朝臣。
『稙房卿記』寛保三年九月四日癸未
リ。傳聞。今日一品宮息(典仁)、有栖川宮息(音仁)等爲當今【櫻町院】御養子、有親王宣下。先一品宮若宮。上卿高倉大納言【永房】。并【辨】祐光朝臣【裏松】。勅別當源大納言【久我通兄】。有栖川宮若宮。上卿新源大納言【廣幡長忠】。并【辨】C胤【烏丸】【ママ】。勅別當三條大納言【利季】。兩方奉行基望朝臣【園】。
寛保三年(一七四三)九月二十六日、元服(加冠、兵部卿貞建親王)。常陸太守に任じられる。十五歳。
『通兄公記』寛保三年九月廿六日乙巳
「今日音仁親王(中務卿親王【職仁】息)於父宮許被加元服。加冠兵部卿宮【貞建親王】。・・・・・ 理髪頭中將基望朝臣【園】。役送殿上人基貫朝臣【壬生】・雅辰【白川】・長視【桑原】。家司幸雅【植松】。・・・・・ 即被任常陸太守(云々)。 ・・・・・
晩頭常陸宮參内。・・・・・
十月二十七日元服は誤り。
延享元年(一七四四)十一月二十六日、三品に敍される。
『通兄公記』延享元年十一月廿六日
『稙房卿記』寛保四年十一月廿六日己亥
リ。敍品宣下(中務卿職仁親王子無品音仁親王)。奉行兼日被仰下之間、巳刻着束帶參内、着陣(奧)。頭辨ョ要朝臣來仰云。『以無品音仁親王可敍三品令作位記』。次予移着端座、令敷軾召内記。少内記永C着軾(大内記【爲成】依所勞不參)。仰々詞。次永C持參位記(入筥)。披見了、給永C、令内覽(殿下・右府等不參之間、持參里第)。歸來置筥。更給筥、起座(内記相從)、進弓場、以ョ要朝臣奏聞。御覽了、返給。仰可請印、次予復仗座(内記置筥)。次予以官人召將監(其詞『チカキマモリノツカサ召セ』)、左將監茂C候小庭。予云、『請印催』。將監唯退。次主殿撤幔、掃部敷筵設案。少納言時名、主鈴兩人(一人持印、一人持盤)、將監等入自月花門進立軒廊。次予召少外記友俊問中務候否。申候由。仰云、『召セ』。中務大輔冬輔朝臣來軾。予賜位記(入筥)、仰云、『印ヲセ』。大輔進軒廊案下請印。儀了付軾獻之。予披見。了氣【ママ】氣色。大輔稱唯、退入。少納言已下退。主殿、掃部等撤案筵張幔。次予召少内記、又令内覽。了予起座(内記相從)。弓場以ョ要朝臣奏聞。御覽了、返賜。仰云、『聞食』。次予復仗座(内記置筥)。更賜位記於内記(入筥)。仰云、『本所持參』。内記取筥退。次予令官人撤軾、起座退出。于時未半剋。
『ョ言卿記』寛保四年十一月廿六日
音仁親王敍三品宣下。上卿万里小路大納言【稙房】。奉行ョ要朝臣。少納言時名。大内記爲成朝臣。中務輔冬輔朝臣。
『少外記平田家日次記』K61-143 嘉永三年十二月十九日丙子
延享元年十一月廿六日
 有栖川无品音仁親王三品
 宣下()・・・・・
寛延二年(一七四九)八月二十六日、二品に敍され、隨身兵仗を聽される。
『通兄公記』寛延二年八月廿六日壬寅
是日三品音仁親王敍二品宣下。上卿醍醐大納言【兼潔】。奉行職事俊逸朝臣【坊城】。
寶暦四年(一七五四)四月九日、保養のため仁和寺里坊へ移る。二十六歳。
『八槐記』公武御用部 寶暦四年四月十日(『廣橋兼胤公武御用日記』四ノ二九二頁
一、常陸宮【音仁親王】是迄中務卿宮【職仁親王】被同居候得共、狹少不勝手付、仁和寺宮【覺仁親王】里坊之座敷を被借被引移候。右里坊之玄關ハ仁門より不被借、仁門之用事相弁候由、被屆候旨、爲心得別當【葉室頼要】物語了。
寶暦四年(一七五四)十一月二十六日、彈正尹を兼任。
『少外記平田家日次記』K61-2 寳暦四年十一月廿六日
任彈正尹(大守如元)有栖川音仁親王
『通兄公記』寶暦四年十一月廿六日辛丑
今日常陸太守音仁親王任彈正尹。太守如旧云々。
寶暦四年(一七五四)十二月十九日、新町御殿へ移る。二十六歳。
『八槐記』公武御用部 寶暦四年十二月廿日補書(『廣橋兼胤公武御用日記』五ノ一七九頁
一、尹宮【音仁親王】是迄仁門より坊被借宅候へ共、新町通一条下ル町懸屋敷ヘ被引移候由被屆候。爲心得帥【正親町三條公積】申入了。
寶暦五年(一七五五)九月五日、脚疾の水腫が惡化、「危篤」となる。一品に敍される。死亡。
少外記平田家記録 J10-13『寳暦五年分配日次記』九月五日(丙子)
一有栖川宮彈正尹 仁親王叙品消息
宣下 ・・・・・
・・・・・
  二品音仁親王
  右 可 一品
中務聡明超邁容儀端正
藩邸崇皇衢之居磐石固
帝家之基宜申榮爵式耀
龍光可依前件主者施行
 寳暦五年九月五日
  一品行中務卿職仁親王宣
  ・・・・・
寶暦五年(一七五五)九月六日、「薨逝」(發喪)。二十七歳。
『通兄公記』寶暦五年九月六日丁丑
彈正尹音仁親王薨云々(脚氣云々)。
父に先立って薨逝したため、宮家を相續することなし。
寶暦五年(一七五五)九月十三日、法謚を「淨圓覺院宮」と號し、龍光院に葬られる。
寶暦五年(一七五五)九月二十三日夜、薨奏。
『御湯殿上日記』寶暦五年九月廿三日
とりの半こくすぎ比に、ぎそう【議奏】より申入られ、ありす川尹宮【音仁親王】六日七つ時にかう【薨】ぜられ候よし、申入らるゝ。こよひより廿五日まで三日のあいだ、はいてう【廢朝】の事ぎそうに仰出さるゝ。
『八槐記』寶暦五年九月廿三日甲午
黄昏更參内。尹宮【音仁親王】去六日薨去之由奏之(依爲御~事中今夜奏聞)。自今三ヶ日廢朝。
『憲臺記』寶暦五年九月廿三日
去六日彈正尹音仁親王(廿七歳。中務卿職仁親王男)薨、依御~事等事今日有薨奏、即自今日三ヶ日廢朝事被仰之了。
『通兄公記』寶暦五年九月廿三日甲午
依彈正尹音仁親王薨(今日奏云々)自今日至明後日三ヶ日廢朝云々
『稙房卿記』寶暦五年九月廿三日丙【甲】午
依有栖川尹宮【音仁親王】薨、自今日至廿五日三箇日廢朝被仰出了。
稿本桃園天皇實録』六一〇頁 寶暦五年九月二十三日「有栖川宮一品音仁親王ノ薨奏ヲ奏ス、仍ツテ是日ヨリ三箇日間ノ廢朝アリ、」
 
【子女】
兼宮」 「知宮」
經子[女王]
職仁親王の子となる。
佛光寺堯祐の室。

「季宮」
職仁親王の子となる。
專修寺圓智 のち圓遵
茂見宮」 「茂美宮
瑞龍寺日圓 のち日照
 
【逸事等】
音仁親王の九歳の詠歌について、『職仁親王行實』「音仁親王」に、
 親王、幼少より家學に志し、御短命なりしも、御詠草の殘存するもの多く、九歳の頃、既に左の御詠あり。
泊瀬山 ふけゆく夜半の かねの聲 月の光に すましてぞきく 古寺月
身にしみて 寒けき月の 池の面に さやかにみえて 影うつすなり 寒夜冬月
十歳の頃より櫻町天皇の御點を賜はり、御幼少の頃の御署名には、遠久宮に因みて、遠久丸を用ひらる。
と見える。
『職仁親王行實』「音仁親王」二一九頁
寳暦三年七月二十二日、弟 叡仁親王[梶井]の薨去につき、音仁親王は次の「長歌を手向けて哀悼の眞情を吐露」した。
弟宮、とし頃ながき病になやみ、おもき枕をおきもあへず、徒に月日を送られしことも そのためしなきにしもあらねば、今一度うるはしきけはいをも見えむとのみ待しかひもなく、死出の山路にすゝまれしこと、誠、有爲轉變のことはりとは わきまへながら、愁歎止がたく、いさゝか靈前にそなへ侍ける なが歌
夢の世を げに夢の世と おどろきし いまのこゝろの かなしさは 何のまぎれに わすれまじ もとよりおなじ ははの木の 枝をつらねし えにしとて 猶したしみも 淺からず いとけなかりし そのおりは ひとつ家居に すみなれて いく明暮を 過ごししも しのぶにつけて おもひいづる 堤川邊の 月花を ともにむかへし 春秋も うつりかはりて はかなくも かぞふる年は 二十あまり 四つの玉の緒 むすびおきて あはれ文月の はつかりの 鳴てわかれし よるのそら したふ涙ぞ さき立ちて ことのは草も 筆のあとも かゝる拙き すさびだに せめて手向と しるよしもかな
反歌
なきあとは 名のみほとけの かたはらに うつしてむかふ 袖ぞつゆけき
『職仁親王行實』「音仁親王」二一五〜二一七頁
音仁親王の詩作について、『職仁親王行實』「音仁親王」に、
又、折には、詩作の御事もあり。今、左に一二篇を掲ぐ。
  占風鐸
 鏗々起惰 志氣如~ 嗟此是鐸 風聲日新
  同
 南風之薫 爰占成聲 鏗々錚々 使吾意C
と見える。
『職仁親王行實』「音仁親王」二一九頁
寶暦四年七月、「父宮、加州の前田家より親王の妃を迎へむとし、その交渉を開始せられしが、未だ其の確答を得ざるに先ち、其の翌年、親王薨去ありしを以て、終に迎妃のことなし。」
『職仁親王行實』「音仁親王」二一七頁
 
【文獻等】
『職仁親王行實』第十一章 王子「音仁親王」(二〇八〜二二〇頁)
新修 有栖川宮系譜』 一六〜一七頁
『野史』巻三十三 列傳 皇族五「音仁親王」


 
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更新日時: 2010.03.11.
公開日時: 2004.02.27.


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