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寛保三年(一七四三)九月四日、親王宣下。
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『通兄公記』寛保三年九月四日癸未
音仁(中務卿宮【職仁親王】息。号遠久宮。今上【櫻町院】御猶子)親王宣下。上卿廣幡大納言【長忠】、辨宣時【中御門】、奉行職事基望朝臣【園】。勅別當三條大納言(利季)。
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『八槐記』寛保三年九月四日癸未
此日有親王宣下(典仁。一品彈正尹直仁親王嫡男。今上【櫻町院】御猶子)。・・・・・ 次又有同宣下(音仁。二品中務卿職仁親王嫡男。今上御猶子)。上卿新源大納言(長忠)【廣幡】。辨右少宣時【中御門】。奉行基望朝臣。別當三條大納言(利季)。
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『ョ言卿記』寛保三年九月四日乙【癸】未
今日一品宮御息、親王宣下ニ付午刻參賀。申半刻歸。直有栖川宮御息親王宣ニ付參賀了。
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中務卿宮息男遠久宮親王宣下(音仁。十五)。上卿新大納言(長忠)【廣幡】。辨宣時【中御門】。勅別當三條大納言(利季)。家司幸雅。右奉行職事基望朝臣。
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『稙房卿記』寛保三年九月四日癸未
リ。傳聞。今日一品宮息(典仁)、有栖川宮息(音仁)等爲當今【櫻町院】御養子、有親王宣下。先一品宮若宮。上卿高倉大納言【永房】。并【辨】祐光朝臣【裏松】。勅別當源大納言【久我通兄】。有栖川宮若宮。上卿新源大納言【廣幡長忠】。并【辨】C胤【烏丸】【ママ】。勅別當三條大納言【利季】。兩方奉行基望朝臣【園】。
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寛保三年(一七四三)九月二十六日、元服(加冠、兵部卿貞建親王)。常陸太守に任じられる。十五歳。
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『通兄公記』寛保三年九月廿六日乙巳
「今日音仁親王(中務卿親王【職仁】息)於父宮許被加元服。加冠兵部卿宮【貞建親王】。・・・・・ 理髪頭中將基望朝臣【園】。役送殿上人基貫朝臣【壬生】・雅辰【白川】・長視【桑原】。家司幸雅【植松】。・・・・・ 即被任常陸太守(云々)。
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晩頭常陸宮參内。・・・・・
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十月二十七日元服は誤り。
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延享元年(一七四四)十一月二十六日、三品に敍される。
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『通兄公記』延享元年十一月廿六日
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『稙房卿記』寛保四年十一月廿六日己亥
リ。敍品宣下(中務卿職仁親王子無品音仁親王)。奉行兼日被仰下之間、巳刻着束帶參内、着陣(奧)。頭辨ョ要朝臣來仰云。『以無品音仁親王可敍三品令作位記ヨ』。次予移着端座、令敷軾召内記。少内記永C着軾(大内記【爲成】依所勞不參)。仰々詞。次永C持參位記(入筥)。披見了、給永C、令内覽(殿下・右府等不參之間、持參里第)。歸來置筥。更給筥、起座(内記相從)、進弓場、以ョ要朝臣奏聞。御覽了、返給。仰可請印、次予復仗座(内記置筥)。次予以官人召將監(其詞『チカキマモリノツカサ召セ』)、左將監茂C候小庭。予云、『請印催セ』。將監唯退。次主殿撤幔、掃部敷筵設案。少納言時名、主鈴兩人(一人持印、一人持盤)、將監等入自月花門進立軒廊。次予召少外記友俊問中務候否。申候由。仰云、『召セ』。中務大輔冬輔朝臣來軾。予賜位記(入筥)、仰云、『印ヲセ』。大輔進軒廊案下請印。儀了付軾獻之。予披見。了氣【ママ】氣色。大輔稱唯、退入。少納言已下退。主殿、掃部等撤案筵張幔。次予召少内記、又令内覽。了予起座(内記相從)。弓場以ョ要朝臣奏聞。御覽了、返賜。仰云、『聞食』。次予復仗座(内記置筥)。更賜位記於内記(入筥)。仰云、『本所ニ持參レ』。内記取筥退。次予令官人撤軾、起座退出。于時未半剋。
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『ョ言卿記』寛保四年十一月廿六日
音仁親王敍三品宣下。上卿万里小路大納言【稙房】。奉行ョ要朝臣。少納言時名。大内記爲成朝臣。中務輔冬輔朝臣。
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『少外記平田家日次記』K61-143 嘉永三年十二月十九日丙子
延享元年十一月廿六日
有栖川无品音仁親王三品
宣下(陣)・・・・・
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寛延二年(一七四九)八月二十六日、二品に敍され、隨身兵仗を聽される。
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『通兄公記』寛延二年八月廿六日壬寅
是日三品音仁親王敍二品宣下。上卿醍醐大納言【兼潔】。奉行職事俊逸朝臣【坊城】。
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寶暦四年(一七五四)四月九日、保養のため仁和寺里坊へ移る。二十六歳。
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『八槐記』公武御用部 寶暦四年四月十日(『廣橋兼胤公武御用日記』四ノ二九二頁)
一、常陸宮【音仁親王】是迄中務卿宮【職仁親王】与被同居候得共、狹少不勝手ニ付、仁和寺宮【覺仁親王】里坊之座敷を被借被引移候。右里坊之玄關ハ仁門より不被借、仁門之用事相弁候由、被屆候旨、爲心得別當【葉室頼要】江物語了。
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寶暦四年(一七五四)十一月二十六日、彈正尹を兼任。
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『少外記平田家日次記』K61-2 寳暦四年十一月廿六日
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『通兄公記』寶暦四年十一月廿六日辛丑
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寶暦四年(一七五四)十二月十九日、新町御殿へ移る。二十六歳。
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『八槐記』公武御用部 寶暦四年十二月廿日補書(『廣橋兼胤公武御用日記』五ノ一七九頁)
一、尹宮【音仁親王】是迄仁門より坊被借宅候へ共、新町通一条下ル町懸屋敷ヘ被引移候由被屆候。爲心得帥【正親町三條公積】江申入了。
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寶暦五年(一七五五)九月五日、脚疾の水腫が惡化、「危篤」となる。一品に敍される。死亡。
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少外記平田家記録 J10-13『寳暦五年分配日次記』九月五日(丙子)
一有栖川宮彈正尹 仁親王叙品消息
宣下 ・・・・・
・・・・・
二品音仁親王
右 可 一品
中務聡明超邁容儀端正
藩邸崇皇衢之居磐石固
帝家之基宜申榮爵式耀
龍光可依前件主者施行
寳暦五年九月五日
一品行中務卿職仁親王宣
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寶暦五年(一七五五)九月六日、「薨逝」(發喪)。二十七歳。
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『通兄公記』寶暦五年九月六日丁丑
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父に先立って薨逝したため、宮家を相續することなし。
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寶暦五年(一七五五)九月十三日、法謚を「淨圓覺院宮」と號し、龍光院に葬られる。
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寶暦五年(一七五五)九月二十三日夜、薨奏。
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『御湯殿上日記』寶暦五年九月廿三日
とりの半こくすぎ比に、ぎそう【議奏】より申入られ、ありす川尹宮【音仁親王】六日七つ時にかう【薨】ぜられ候よし、申入らるゝ。こよひより廿五日まで三日のあいだ、はいてう【廢朝】の事ぎそうに仰出さるゝ。
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『八槐記』寶暦五年九月廿三日甲午
黄昏更參内。尹宮【音仁親王】去六日薨去之由奏之(依爲御~事中今夜奏聞)。自今三ヶ日廢朝。
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『憲臺記』寶暦五年九月廿三日
去六日彈正尹音仁親王(廿七歳。中務卿職仁親王男)薨、依御~事等事今日有薨奏、即自今日三ヶ日廢朝事被仰之了。
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『通兄公記』寶暦五年九月廿三日甲午
依彈正尹音仁親王薨(今日奏云々)自今日至明後日三ヶ日廢朝云々。
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『稙房卿記』寶暦五年九月廿三日丙【甲】午
依有栖川尹宮【音仁親王】薨、自今日至廿五日三箇日廢朝被仰出了。
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『稿本桃園天皇實録』六一〇頁 寶暦五年九月二十三日「有栖川宮一品音仁親王ノ薨奏ヲ奏ス、仍ツテ是日ヨリ三箇日間ノ廢朝アリ、」
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