雄豊王


前頁 「 雄 [雄風]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[雄豐]

フレームなし

工事中

雄豐王
 
 
小豐王に同じ。
 
【出自】
 淺井王左京五條一坊戸主)の戸口。
『東大寺藥師院文書』弘仁七年十一月廿一日付「雄豐王家地相博券文」
 四世王か。
 
【經歴】
弘仁七年(八一六)十一月二十一日より以前に滿二十一歳となり、蔭位により正六位上に敍された、と推定される。
弘仁七年(八一六)十一月二十一日までに、大和國添上郡春日郷内の家地三段、墾田四段一百歩を、左京六條一坊戸主の正六位上石川朝臣圓足の京家と交換した。時に正六位上内舍人。
『東大寺藥師院文書』弘仁七年十一月廿一日付「雄豐王家地相博券文」(貞觀十五年六月廿六日 大和國判)
相替家立券文事
 合壱區 地参段 墾田肆段壹佰歩
 
    東限並城王家西道 南限公田
  四至
    西限美濃女王家  北限公田
 
  在大和国添上郡春日郷(五上春日里五坪者)
右家、得左京五條一坊戸主正五位上淺井王戸口正
六位上小豊王辞状偁、以便宜左京六條一坊戸主正
六位上石川朝臣圓足之京家相替既畢。望請、依
法欲券文立者。依申状、刀祢等覆勘、所陳有
實。仍勒相替兩人署、言上如件、以解。
         弘仁七年十一月廿一日
以貞觀十四年十二月十三日  相替正六位上内舎人「雄豊王」
 与沽實行王、以同     證正六位上「真豊王」
 十五年六月廿六日立國判、仍 正六位上「廣井王」
   毀了、
郡判
 大領外従八位上物部清水  主政无位道祖「道麻□【呂】」
              主帳丸部
貞観ノ追筆 に「大和國印」三あり。
「藥院庄印」四十四あり。
早稲田大学図書館所藏[リ05 03740 0008]
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_03740/ri05_03740_0008/ri05_03740_0008_p0001.jpg
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_03740_0008/index.html

雄豊王家地相博券文 yūhōō【ママ】 yachi sōhaku kenmon
印記:[藥院]庄印、大和國印
重要文化財 東大寺薬師院文書 28.6×51.4cm(外寸30.3×129.2cm) 卷子装 田中光顕舊藏
『平安遺文』第一卷、第四二號文書
岸俊男「家・戸・保」(竹内理三博士還暦記念会編『律令国家と貴族社会』(吉川弘文館、昭和四十四年(一九六九)六月) 二四〇頁
弘仁七年(八一六)十一月廿一日付の雄豊王家地相博券文によると、大和国添上郡春日郷内に家地三段・墾田四段一〇〇歩を有した左京五条一坊戸主浅井王の戸口正六位上内舎人雄豊王は、それを左京六条一坊戸主正六位上石川朝臣円足の京家と交換している。現地は旧平城京の近郊に属するが、四至の記載によると、その東西にはやはり京戸と推定される並城王家や美濃女王家があった。
小豐王(雄豐王)の舊家地・墾田は、貞觀十四年(八七二)十二月十三日、實行王に沽却された。
弘仁七年(八一六)十一月二十一日から天長三年(八二六)正月七日までの間に、正六位上から從五位下に敍される。
天長三年(八二六)正月七日、從五位下から從五位上に敍される。
『類聚國史』卷九十九「職官」四「叙位」四、天長三年正月甲戌
[授]從五位下雄豊王從五位上。
從五位上の雄豐王が降位して承和九年(八四二)九月十一日までに從五位下となったものか、または、從五位上の雄豐王は承和九年(八四二)九月十一日に散位從五位下の雄豐王と別人であるのか、または、『類聚國史』卷九十九の年代が誤りであるのか、いずれとも判斷し難い。
承和九年(八四二)九月十一日、伊勢例幣の使王を勤仕。時に散位從五位下。
『續日本後紀』承和九年九月壬寅
遣散位從五位下雄豊王、~祇少副從五位下大中臣朝臣礒守等、奉幣於伊勢大~宮。例也。
『類聚國史』巻三「伊勢太~」承和九年九月壬寅
承和十年(八四三)十二月七日、宮内大輔に任じられる。
『續日本後紀』承和十年十二月辛酉
從五位下雄豊王爲宮内大輔。
 
【文獻等】
泉谷康夫「大和国の墾田 ―― 古代的景観の復元と関連して ――」『古文化財教育研究報告』五、奈良教育大学、一九七六年三月、79〜83頁
 http://hdl.handle.net/10105/354



 
次頁 「 熊 [熊凝]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 ゆ 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


公開日時: 2021.02.10.

Copyright: Ahmadjan 2021.2 - All rights reserved.