雄風王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[雄風]

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□ 雄風王
『尊卑分脈』橘氏「廣相」の子「公材」、および、『群書類從』巻第六十三所收「橘氏系圖」「廣相」の子「公材」に「母左馬頭博風王女」とあるが、この「博風王」は「雄風王」の誤り。
『公卿補任』延長五年 參議「從四位上橘公ョ」に「母左馬頭從四下雅風王【九條本「惟風王」】女」と見えるが、この「雅風王」「惟風王」はいずれも「雄風王」の誤り。
 
【出自】
 
萬多親王の四男。
 桓武天皇の二世孫王。
 
【經歴】
八二四年(弘仁十五年/天長元年)生。
大學寮に入學。
皇太子道康親王(承和九年(八四二)八月四日立太子。のちの文コ天皇)の侍者となる。
嘉祥三年(八五〇)四月十七日、文コ天皇即位敍位において、無位より從四位下に敍される。
『日本文コ天皇實録』嘉祥三年四月甲子
帝即位於大極殿。・・・・・ [授]无位雄風王・利基王等從四位下。
嘉祥四年(八五一)四月一日、次侍從に補される。
『日本文コ天皇實録』仁壽元年四月癸卯朔
從四位下道野王・房世王・正躬王・貞内王・雄風王・高叡王 ・・・・・ 並爲次侍從。
仁壽二年(八五二)正月十五日、左馬頭に任じられる。
『日本文コ天皇實録』仁壽二年正月壬午
從四位下雄風王爲左馬頭。
齊衡二年(八五五)六月二十六日、卒去。三十二歳。
『日本文コ天皇實録』齊衡二年六月癸卯
從四位下雄風王卒。雄風、贈一品萬多親王第四子也。爲人沈敏。弱冠入學。帝在東宮時、引爲侍者。頗習鷹馬。踐祚之日、授從四位下。除左馬頭。補次侍從。給事殿中、進退閑雅。性素寛裕。卒官。時年卅【イ卌】二。帝甚愍悼之。
 
【子女】
定相王 のち平朝臣定相
有相王 のち平朝臣ヽヽ
【 橘朝臣廣相の室。橘朝臣公廉・橘朝臣公材・橘朝臣公ョの母 】
『尊卑分脈』橘氏「廣相」の子「公材」(新訂増補國史大系本第四篇、五〇頁
母左馬頭博風王女。
『群書類從』巻第六十三所收「橘氏系圖」、「廣相」の子「公材」
母左馬頭博風王女。
『續群書類從』巻第百六十四所收「橘氏系圖」、「廣相」の子(抄出)
┌公廉
母左馬頭從四下雄風女。

├公村【ママ】
母同。

└公ョ
『公卿補任』延長五年 參議「從四位上(【傍注】位兼輔上)橘公ョ(五十一)」(新訂増補國史大系本第一篇、一七四頁
贈中納言廣相六男。母左馬頭從四下雅風王【九條本「惟風王」】女。
【 豐後介藤原朝臣維綱(遠江守藤原朝臣忠行の男子)の母 】
『尊卑分脈』眞作孫「三守」の子「有貞」の子「忠行」の子「維綱」(新訂増補國史大系本第二篇、四四〇頁
母左馬頭從四下雄風安【「安」は「王女」の誤り】。
 
【逸事等】
『日本文コ天皇實録』齊衡二年六月癸卯條によると、人となりが落ちついており賢明であり、鷹狩と馬術に練達しており、また、宮中に仕えては、立ち居ふるまいが閑かで雅やかであり、性格はもとより心が広くゆったりとしていた、という。
 
【文獻等】
稿本桓武天皇實録』四〇六〜四〇七頁「皇孫雄風王」


 
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更新日時: 2021.02.11.
公開日時: 2006.10.25.


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