● |
天應元年(七八一)四月十五日、桓武天皇の即位式の敍位で、無位より從五位下に敍される。
|
● |
延暦四年(七八五)正月十五日、諸陵頭に任じられる。
|
● |
延暦五年(七八六)十月八日、内匠頭に任じられる。
|
● |
延暦七年(七八八)二月六日、丹波守に任じられる。
|
● |
尋来津首月足が大和國添上郡春日郷の家地を小治田朝臣v呂に賣却する際に、その賣買が正當なものであることを證明するために作成された券文に基づいて、大和國添上郡司が延暦七年(七八八)十二月二十三日に作成した「解」(上申書)において、「相知」として署名した。時に丹波守從五位下。
◎ |
『東大寺藥師院文書』延暦七年十二月廿三日付「大和國添上郡司解」(延暦八年二月四日 國司證判)
添上郡司解 申賣買家立券文事
東限稻城王家中垣 南限中道
家壹區地肆段伯歩
西限大春日朝臣難波麻呂家中垣 北佰姓口分田佰
檜皮葺板敷屋二宇(各四間/在東庇)草葺椋一宇
在物 在部下春日郷
板屋三宇(二各五間/一三間屋形屋)門屋一基
右得右京六條三坊戸主従七位上勲八等尋来津首
月足解状偁、已家充價直銭壹拾貫文賣与
右京五條一坊戸主正六位上小治田朝臣豊人戸口同姓
福麻呂已畢。望請、欲依式立券者、郡依辞状勘問
知實、仍勅賣買兩人署名、申送如件、以解。
延暦七年十二月廿三日
賣人散位寮散位従七位上勲八等尋来津首「月足」
相賣男兵部位子无位尋来津首「倭万呂」
買人小治田朝臣「福麻呂」
相知丹波國守従五位下「淺井王」
内竪无位「稲城王」
无位「並城王」
郷長日置造「人主」
刀祢左大舎人正七位上若櫻部朝臣「廣門」
右大舎人正七位下大春日朝臣「清嗣」
右兵衛従七位上江野臣「老麻呂」
右大舎人従八位上大春日朝臣「難波麻呂」
擬少領正八位下八嶋「家長」 擬主政従七位上巫部連「廣之」
一通留國 一通置郡
國判立券参通
一通給今□【買】 主料
延暦八年二月四日正六位上行大目土師宿祢
従五位下行介倉朝臣「殿嗣」 従五位下行少掾平羣朝臣「国人」
|
○ |
早稲田大学図書館所藏[リ05 03740 0005]
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_03740/ri05_03740_0005/ri05_03740_0005_p0001.jpg
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_03740_0005/index.html
|
※ |
『平安遺文』第一卷、第五號文書
|
※ |
柴辻俊六、海老沢衷、本郷和人編集『古文書演習 様式と解釈』(続群書類従完成会、二〇〇三年四月)2〜3頁
|
|
|
● |
延暦十年(七九一)七月四日、主馬首を兼ねる。
◎ |
『續日本紀』延暦十年七月癸亥
[以]從五位下淺井王爲主馬頭【ママ】。丹波守如故。
|
|
|
● |
延暦十年(七九一)七月四日から延暦十八年(七九九)正月二十九日までの間に、從五位上に敍される。
|
● |
延暦十八年(七九九)正月二十九日、伊豫守に任じられる。
|
● |
弘仁七年(八一六)十一月二十一日までに正五位上に任じられる。
◎ |
『東大寺藥師院文書』弘仁七年十一月廿一日付「雄豐王家地相博劵文」(貞觀十五年六月廿六日 大和國判)
相替家立券文事
合壱區 地参段 墾田肆段壹佰歩
東限並城王家西道 南限公田
四至
西限美濃女王家 北限公田
在大和国添上郡春日郷(五上春日里五坪者)
右家、得左京五條一坊戸主正五位上淺井王戸口正
六位上小豊王辞状偁、以便宜左京六條一坊戸主正
六位上石川朝臣圓足之京家相替既畢。望請、依
法欲券文立者。依申状、刀祢等覆勘、所陳有
實。仍勒相替兩人署、言上如件、以解。
弘仁七年十一月廿一日
以貞觀十四年十二月十三日 相替正六位上内舎人「雄豊王」
与沽實行王、以同 證正六位上「真豊王」
十五年六月廿六日立國判、仍 正六位上「廣井王」
毀了、
郡判
大領外従八位上物部清水 主政无位道祖「道麻□【呂】」
主帳丸部
|
○ |
早稲田大学図書館所藏[リ05 03740 0008]
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_03740/ri05_03740_0008/ri05_03740_0008_p0001.jpg
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_03740_0008/index.html
|
※ |
『平安遺文』第一卷、第四二號文書
|
※ |
岸俊男「家・戸・保」(竹内理三博士還暦記念会編『律令国家と貴族社会』(吉川弘文館、昭和四十四年(一九六九)六月) 二四〇頁
弘仁七年(八一六)十一月廿一日付の雄豊王家地相博券文によると、大和国添上郡春日郷内に家地三段・墾田四段一〇〇歩を有した左京五条一坊戸主浅井王の戸口正六位上内舎人雄豊王は、それを左京六条一坊戸主正六位上石川朝臣円足の京家と交換している。現地は旧平城京の近郊に属するが、四至の記載によると、その東西にはやはり京戸と推定される並城王家や美濃女王家があった。
|
|
|
|