豊前王
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八〇五年(延暦二十四年)生。
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蔭位の規定で、滿二十一歳に達した天長三年(八二六)、正六位上に敍されたと考えられる。 | ||||||
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天長三年(八二六)、大學助となる。二十二歳。
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にわかにして式部大丞に遷る。
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天長五年(八二八)、父 榮井王の卒去により職を去るが、服喪中にもかかわらず詔勅によって本官に復す。二十四歳。
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天長七年(八三〇)、諸陵助に遷る。二十六歳。
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天長九年(八三二)、大宰大監となる。二十八歳。
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天長十年(八三三)十一月十八日、仁明天皇大嘗会敍位にて、正六位上から從五位下に敍される。二十九歳。
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承和元年(八三四)、備中守に任じられる。三十歳。
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承和六年(八三九)二月十八日、大膳大夫に任じられる。三十五歳。
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承和七年(八四〇)正月三十日、參河守に任じられる。三十六歳。
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承和十三年(八四六)九月十四日、大藏少輔に任じられる。四十二歳。
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承和十三年(八四六)十二月八日、班大和田使次官となる。
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承和十四年(八四七)正月七日、從五位上に敍される。四十三歳。
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承和十四年(八四七)、安藝守に任じられる。
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承和十五年(八四八)正月十三日、伊豫守に任じられる。四十四歳。
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仁壽三年(八五三)正月七日、正五位下に敍される。四十九歳。
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仁壽三年(八五三)四月十日、大和守に任じられる。
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齊衡二年(八五五)二月十五日、左京權大夫を兼任。五十一歳。
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天安元年(八五七)九月、母の死去により解官。五十三歳。
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天安二年(八五八)十一月二十五日、民部大輔に任じられる。五十四歳。
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貞觀元年(八五九)十一月十九日、C和天皇の大嘗會敍位に於いて、正五位下から從四位下に昇敍される。時に民部大輔。
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貞觀三年(八六一)正月十三日、伊豫守となる。「不之任」すなわち遙任。五十七歳。
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貞觀五年(八六三)正月三日、源朝臣定への贈位の使として遣わされる。時に從四位下行伊豫守。
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貞觀六年(八六四)正月七日、從四位上に敍される。六十歳。
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貞觀七年(八六五)二月二日卒去。六十一歳。時に從四位上行伊豫守。
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年少時より博学で知られていたが、そのためか性格が傲慢で、大言壮語を吐き、他人を品定めし、わがままをし放題であったという。
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五位の位階にある五世以下の王は、紫衣の着用が許されていなかったにもかかわらず、豐前王は五位の五世王にして紫衣を着用していた。役人に糺問された後に、ようやく緋衣を着用した。
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良吏として知られる。C和天皇が詔勅を下し、參議以上に時政の是非を論ずるように求め、それに應じて、貞觀四年(八六二)十二月二十七日、藤原良相が上表し、豐前王を含む五人の良吏に意見を具申させることを奏上しており、その上表の中で、「伊豫守豊前王は、才學早彰、資歴淹久、他の異跡なきも、老成と謂うに足る」(才学が早くあらわれ、官職を久しく歴任し、取り立てて優れた業績はないものの、経験を積んで物事に熟達していると言うに足る)と評されている。
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貞觀四年(八六二)十二月〜同六年(八六四)の間に、豐前王等は、「國を利するの政は、節用を先と爲す。今、府帑稍(ようや)く空しく、貢賦入ること少なし。當に諸王の祿を停めて救弊の計を存すべし」と意見して、「諸王の給服は、人数が定まらず、徒らに費帑藏を費やし、何れも紀極なし。望むらくは當時所在を定數となすを以て、闕に隨いてこれを補わんことを請う」と上奏した。この上奏は、豐前王卒去後の貞觀十二年二月二十日に、認可された。
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『今昔物語』卷第十「豐前王ノ事」に見える、春の縣召(あがためし)の除目における國守(くにのかみ)の任官予測がよくあたったという刑部卿、大和守の豐前王は、「柏原の御門」すなわち桓武天皇の皇子の「五の御子」とされるが、「柏原の御門」は「淨原の御門」すなわち天武天皇の、「五の御子」は「五世孫」の誤りであると考えれば、この豐前王に比定される。 | ||||||||
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豐前王が卒去した貞觀七年二月二日の夜、京都で流星が觀察された。
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鈴木眞年『諸氏家牒』「近江國御家人井口中原系圖」によると、弘宗王の父とされるが、年代的に合致せず、明白な誤りである。宝賀寿男編著『古代氏族系譜集成』上巻(大阪、古代氏族研究会、一九八六年四月)を參照せよ。 |
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田島公「八・九世紀の参河国司補任者の特徴と国政 ―遣唐使・文人・医薬官人、祥瑞、豊前王―」(『新編西尾市史研究』第8号、二〇二二年三月、31〜44頁) |
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日本史史料研究会監修、赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、二〇二〇年一月) 60〜63頁 |
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