豊前王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[豐前]

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豐前王 トヨザキ
 
【出自】
 
榮井王の男子。
 天武天皇五世。
 舍人親王の玄孫。
 
【經歴】
八〇五年(延暦二十四年)生。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)より逆算。
蔭位の規定で、滿二十一歳に達した天長三年(八二六)、正六位上に敍されたと考えられる。
天長三年(八二六)、大學助となる。二十二歳。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
にわかにして式部大丞に遷る。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
天長五年(八二八)、父 榮井王の卒去により職を去るが、服喪中にもかかわらず詔勅によって本官に復す。二十四歳。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
天長七年(八三〇)、諸陵助に遷る。二十六歳。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
天長九年(八三二)、大宰大監となる。二十八歳。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
天長十年(八三三)十一月十八日、仁明天皇大嘗会敍位にて、正六位上から從五位下に敍される。二十九歳。
『續日本後紀』天長十年十一月庚午
 天皇御豊樂殿、宴于群臣。詔授 ・・・・・ 從四位下磐田王從四位上。從五位上峯成王正五位下。正六位上氏雄王、豊前王並從五位下。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
承和元年(八三四)、備中守に任じられる。三十歳。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
承和六年(八三九)二月十八日、大膳大夫に任じられる。三十五歳。
『續日本後紀』承和六年二月庚午
[以]從五位下豊前王爲大膳大夫。
承和七年(八四〇)正月三十日、參河守に任じられる。三十六歳。
『續日本後紀』承和七年正月丁未
[以]從五位下豊前王爲參河守。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
承和十三年(八四六)九月十四日、大藏少輔に任じられる。四十二歳。
『續日本後紀』承和十三年九月壬子
從五位下豊前王爲大藏大【少】輔。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
承和十三年(八四六)十二月八日、班大和田使次官となる。
『續日本後紀』承和十三年十二月乙亥
參議正四位下源朝臣弘爲班山城田使長官。從五位上藤原朝臣氏宗爲次官。從五位下豊前王爲班大和田使次官。正五位上岑成王爲班河内・和泉田使次官。從五位上路眞人永名爲班攝津田使次官。
承和十四年(八四七)正月七日、從五位上に敍される。四十三歳。
『續日本後紀』承和十四年正月甲辰
 天皇御紫震殿、宴于群臣。詔授三品仲野親王二品。正四位下源朝臣弘從三位。從四位下橘朝臣岑繼從四位上。正五位下長田王從四位下。從五位上有雄王正五位下。從五位下豊前王從五位上。无位礒江王、正六位上高叡王並從五位下。无位源朝臣勤從四位上。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
承和十四年(八四七)、安藝守に任じられる。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
承和十五年(八四八)正月十三日、伊豫守に任じられる。四十四歳。
『續日本後紀』承和十五年正月甲戌
從五位上豊前王爲伊勢【伊豫】守。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
仁壽三年(八五三)正月七日、正五位下に敍される。四十九歳。
『日本文コ天皇實録』仁壽三年正月戊戌
幸豊樂院、觀馬、賜宴群臣、亦如舊儀。授從四位上伴宿祢善男正四位下。從四位下道野王、藤原朝臣氏宗等並從四位上。无位當世王從四位下。從五位上豊前王正五位下。從五位下善永王、u善王等並從五位上。正六位上正岑王、仲井王、眞貞王等並從五位下。
仁壽三年(八五三)四月十日、大和守に任じられる。
『日本文コ天皇實録』仁壽三年四月庚午
正五位下豊前王爲大和守。
齊衡二年(八五五)二月十五日、左京權大夫を兼任。五十一歳。
『日本文コ天皇實録』齊衡二年二月乙丑
正五位下豊前王爲左京權大夫。大和守如故。
天安元年(八五七)九月、母の死去により解官。五十三歳。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
天安二年(八五八)十一月二十五日、民部大輔に任じられる。五十四歳。
『日本三代實録』天安二年十一月廿五日壬午
正五位下豊前王爲民部大輔。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
貞觀元年(八五九)十一月十九日、C和天皇の大嘗會敍位に於いて、正五位下から從四位下に昇敍される。時に民部大輔。
『日本三代實録』貞觀元年十一月十九日庚午
[進]彈正大弼從四位下茂世王[階加]從四位上。無位棟良王從四位下。散位從五位下礒江王從五位上。無位久須繼王從五位下。從四位下行攝津守滋野朝臣貞雄從四位上。民部大輔正五位下豊前王從四位下。
貞觀三年(八六一)正月十三日、伊豫守となる。「不之任」すなわち遙任。五十七歳。
『日本三代實録』貞觀三年正月十三日戊子
從四位下行民部大輔豊前王爲伊豫守。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
貞觀三年、遷伊豫守。不之任。
貞觀五年(八六三)正月三日、源朝臣定への贈位の使として遣わされる。時に從四位下行伊豫守。
『日本三代實録』貞觀五年正月三日丙寅
大納言正三位兼行右近衛大將源朝臣定薨。贈從二位。遣從四位下行伊豫守豊前王、散位從五位下田口朝臣統範等於柩前宣制。・・・・・
貞觀六年(八六四)正月七日、從四位上に敍される。六十歳。
『日本三代實録』貞觀六年正月七日甲午
 天皇御前殿、覽馬、賜宴群臣。奏樂賜祿如常。・・・・・ 授无品惟條親王四品。散位從四位下輔世王從四位上。无位忠範王、朝右王並從四位下。主水正正六位上岑行王從五位下。從四位下【上】行左京大夫兼山城守紀朝臣今守正四位下。從四位下行伊豫守豐前王、中宮大夫藤原朝臣良世、大宰大貳藤原朝臣冬緒等並從四位上。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
貞觀七年(八六五)二月二日卒去。六十一歳。時に從四位上行伊豫守。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
從四位上行伊豫守豐前王卒。豐前王者贈一品舍人親王後。四世王木工頭從五位上榮井王之子也。豐前、少以渉學爲稱。天長三年、爲大學助。俄而遷式部大丞。五年、父憂去職。服中 詔以本官起之。七年、遷諸陵助。九年、爲大宰大監。十年、仁明天皇即天子位。是年十一月、新嘗廣讌、授從五位下。承和元年、拜備中守。罷秩之後爲三河守。久而除大藏少輔。十四年、敍從五位上。出爲安藝守。明年、遷伊豫守。仁壽三年春、加正五位下、爲大和守。齊衡二年、爲左京権大夫、大和守如故。天安元年九月、丁母憂解官。服闋之後、二年十一月、拜民部大輔。貞觀三年、遷伊豫守。不之任。下 詔、令參議已上各論時政之是非、詳世俗之得失。右大臣藤原朝臣良相上表言。「伏惟皇帝陛下、コ高雲霓、明並日月、猶開廣詢之路、遂降不諱之綸。右大弁南淵朝臣年名、身爲進士、職經内外、稍通治禮、既居樞要。山城守紀朝臣今守、所歴之州、風聲必暢、論之良吏、自爲先鳴。伊豫守豊前王、才學早彰、資歴淹久、無他異跡、足謂老成。大宰大貳藤原朝臣冬緒、聲名粗達、器識漸優、吏幹之稱、仍有可愛。大和守弘宗王、頗有治名、多宰州縣、談諸經國、非無其才。然則令件等人同上意見」。詔曰。「可」。先是。諸王自二世至四世、賜夏冬衣服、不限人數、隨年足【定】符出多少賜之、或至五六百人。是時載簿進官者四百余人。豐前上疏曰。「諸王給服、人数不定、徒費帑藏。何無紀極。望請以當時所在爲定數、隨闕補之」。不聽輙過、從之。六年、授從四位上。卒於官。時年六十一。豐前、爲性簡傲、言語夸浪、接物之道、爲人所避。尋常直於侍從局、品藻人物、以爲己任。談咲消日、放縱不拘。諸王五世以下帶五位者法不聽着紫。豐前爲五世五位着紫、爲有司所糺。然後着緋。
 
【逸事等】
年少時より博学で知られていたが、そのためか性格が傲慢で、大言壮語を吐き、他人を品定めし、わがままをし放題であったという。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
五位の位階にある五世以下の王は、紫衣の着用が許されていなかったにもかかわらず、豐前王は五位の五世王にして紫衣を着用していた。役人に糺問された後に、ようやく緋衣を着用した。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
良吏として知られる。C和天皇が詔勅を下し、參議以上に時政の是非を論ずるように求め、それに應じて、貞觀四年(八六二)十二月二十七日、藤原良相が上表し、豐前王を含む五人の良吏に意見を具申させることを奏上しており、その上表の中で、「伊豫守豊前王は、才學早彰、資歴淹久、他の異跡なきも、老成と謂うに足る」(才学が早くあらわれ、官職を久しく歴任し、取り立てて優れた業績はないものの、経験を積んで物事に熟達していると言うに足る)と評されている。
『日本三代實録』貞觀四年十二月廿七日辛酉
右大臣正二位兼行左近衛大將藤原朝臣良相上表曰。「伏奉今年四月十二日【十五日】 詔書曰。『參議已上、各論時政之是非、詳世俗之得失、傷化害人、不便於時者、節用謹度、當利於國者、並盡昌言、以沃朕心、勿爲華餝、勿有隱諱』。伏惟 皇帝陛下、コ高雲霞【霓】、明並日月、猶開廣詢之路、遂降不諱之綸。臣身非岳~、位忝台袞。獻替之誠徒積、塵髮之効叵申。仍以中外之國、小大之政、所以治而不乱者、唯以任得其人也。脱非其人、則雖有峻法嚴令、然是爲乱之階、終非爲治之備矣。故詩曰。『人之云亡、邦國殄瘁』。書曰。『都在知人。知人則哲、能官人』。臣之不敏、深信斯言、從政以來、猶自留意。而趙魏滕薛之任易迷、絳侯嗇夫之才難辨。即知、人心險於山川、惟帝其難、將如之何。抑其明經秀才得試及第者、尤是國家之才望、宜明古今王事之體。又一切智法ヘ無量、凡諸僧綱、及曾經八省維摩講師皆應通熟世諦之利病。又右大弁南淵朝臣年名、身爲進士、職經内外、稍通治體、既居樞要。山城守紀朝臣今守、所歴之州、風聲必暢、論之良吏、自爲先鳴。伊豫守豊前王、才學早彰、資歴淹久、無他異跡、足謂老成。大宰大貳藤原朝臣冬緒、聲名粗達、器識漸優、吏幹之稱、仍有可愛。大和守弘宗王、頗有治名、多宰州縣、雖自賢之費或罹法綱【糸冂ヌ】、而談諸經國、非無其才。然則令件等人同上意見。既云諮及蒭蕘、何况於彼有識。臣謬荷重責、無他【地】息肩、徒獻管窺、耻塵旒聽」。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
『日本三代實録』貞觀四年四月十五日癸丑
是日、下 詔曰。「朕聞。自古聖明之君、以堯舜爲稱首。然猶諫鼓謗木、設之於朝。又俾太禹皐陶盡其謩訓。盖以万機之盛、非廣詢難以興功、四海之尊、非下問無以成化也。朕以童丱、嗣守鴻基、器謝q齊、業慙迪哲、實ョ賢輔之保佐、將以拱己而仰成。然運接百代之叔末、時遇万邦之凋殘、即位以還五年于茲。徒聞。府帑空竭、經用不支、貢賦逋懸、吏人嗟毒、未得所以救之之要術。昔~農氏世衰、天下倒懸、黄帝代以脩コ、即髏h゚之化。殷暴辛政亂、百姓塗炭、周興成康之時、至刑厝而不用。是以古不常淳、今不常薄、唯在君臣善惡政ヘ得失而已。若能群臣大小、勠力傾心、務求政實、匡拂朝家、訓導黎庶、則國富刑C、時和歳阜、醨變爲樸、僞反爲眞、即東戸季子之代、遂何遠之有矣。宜參議已上各論時政之是非、詳世俗之得失、傷化害人不便於時者、節用謹度、當利於國者、並盡昌言、以沃朕心、勿爲華餝、勿有隱諱」。
貞觀四年(八六二)十二月〜同六年(八六四)の間に、豐前王等は、「國を利するの政は、節用を先と爲す。今、府帑稍(ようや)く空しく、貢賦入ること少なし。當に諸王の祿を停めて救弊の計を存すべし」と意見して、「諸王の給服は、人数が定まらず、徒らに費帑藏を費やし、何れも紀極なし。望むらくは當時所在を定數となすを以て、闕に隨いてこれを補わんことを請う」と上奏した。この上奏は、豐前王卒去後の貞觀十二年二月二十日に、認可された。
『日本三代實録』貞觀十二年二月廿日壬寅
公卿奏請減諸王季祿、兼立給祿定額、曰。「政因時興、機隨物動。王者詳沿革之理、聖人審變通之規。既知、字民之道不必守株、經國之方无復膠柱者也。伏見故從四位上豊前王等意見表曰。利國之政、節用爲先。今府帑稍空、貢賦少入。當停諸王之祿存救弊之計者。臣等商量上表之旨、頗有可取。但專停之則似踈皇親、全給之則可闕國用、取捨之方、宜勤折中。又王氏蕃昌万倍曩日、計其祿賜、所費難支。伏望。當時預祿者四百廿九人爲定員、後生年足者隨闕補之。但自願賜姓属籍者不以爲闕。重以去年炎旱、農民失望、聖上撤服御常膳、羣下減食封・位祿、而至于王祿、依舊不悛、求諸通論、政渉踳駮。事須准之。位祿同從減折。然則適時之要、理无二途、濟世之權、事從一揆、謹録事状、伏聽天裁」。奏可。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅(豐前王卒傳)
『今昔物語』卷第十「豐前王ノ事」に見える、春の縣召(あがためし)の除目における國守(くにのかみ)の任官予測がよくあたったという刑部卿、大和守の豐前王は、「柏原の御門」すなわち桓武天皇の皇子の「五の御子」とされるが、「柏原の御門」は「淨原の御門」すなわち天武天皇の、「五の御子」は「五世孫」の誤りであると考えれば、この豐前王に比定される。
豐前王が卒去した貞觀七年二月二日の夜、京都で流星が觀察された。
『日本三代實録』貞觀七年二月二日甲寅
是日夜、有星、出東井入軫。色白。長二丈余。
 
【子女】
 □
C原眞人當仁
 
【備考】
鈴木眞年『諸氏家牒』「近江國御家人井口中原系圖」によると、弘宗王の父とされるが、年代的に合致せず、明白な誤りである。宝賀寿男編著『古代氏族系譜集成』上巻(大阪、古代氏族研究会、一九八六年四月)を參照せよ。
 
【文獻等】
田島公「八・九世紀の参河国司補任者の特徴と国政 ―遣唐使・文人・医薬官人、祥瑞、豊前王―」(『新編西尾市史研究』第8号、二〇二二年三月、3144頁)
日本史史料研究会監修、赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、二〇二〇年一月) 6063



 
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公開日時:2022.06.10.

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