片野宮


前頁 「 別 [別A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[片野]

フレームなし


片野宮
 類從本・吹上本『本朝皇胤紹運録』等に「
交野宮」と見える。
 『一代要記』に見える國尊王、『本朝帝系抄』に見える「麿尊王」と同一人であろう。
 
【出自】
 惟明親王高倉院の三宮)の男子。
 聖海[醍醐寺座主]の弟。
『明月記』寛喜元年九月廿四日戊子條に、「三宮孫王」、即ち、三宮(惟明親王)の子である孫王、と見える。
 
【母】
 醍醐に住む入道法師の女子。出家して尼となる。
『明月記』嘉禄二年九月十一日
 
【經歴】
「白河染殿僧都」に養育されていたが、嘉祿元年(一二二五)四月頃、鎌倉幕府より出家を停められる。
『明月記』嘉祿元年四月廿六日
嚴僧正過談(參賀茂之次)。世間雜談之次云。巷説、白河染殿僧都之奉養孫王、不可出家給、不【衍カ】可恭敬之由、自關東示送乳母許云々。
『明月記』嘉祿元年四月廿七日
巷説、孫王貴重事、普謳歌云々。
しかし、元服することなく、また、出家の豫定もなく、有髪の姿で江口・神崎付近で「遊」び暮らしていた。
『明月記』嘉祿二年九月十一日
今後性兼(愚イ)房語云。醍醐座主【聖海】(僧都歟。三宮【惟明親王】御嫡也)母儀尼(彼宮御子息、皆悉此尼所生)、當時在有通卿姉、稱新阿彌陀佛尼之房。件新阿彌陀佛母、證憲【澄憲】法印等之妹也。依此縁、高倉殿嘗被坐彼房。主客居住之人、此尼偏奉仕爲奴僕。件孫王達、以親王後家(雅親卿姉)爲養母。件養母、依惡實母、不懸養。件尼之父入道法師(【傍注】侍云々)同相具在醍醐云々。彼座主御弟孫王、武士不可出家給由有示申旨、通具卿聞之。内々已可扶持申之由所望云々。爲劉子之名字歟。付視聽、只令痛心宜矣。范文子使祝家祈死。
『明月記』寛喜元年九月廿四日戊子
鎌倉幕府から、一時的に、皇位繼承候補者に擬せられていたと考えられている。
『明月記』嘉祿元年十一月十九日
竊案。義村【三浦】八難六奇之謀略、不可思議者歟。若依思孫王儲王用外舅歟。
※ 源朝臣通時[唐橋]の結婚についての條。三浦義村は、自らが支えた通時を通じて、交野宮とも關係があった。
寛喜元年(一二二九)八月頃、突如、關東に下向、鎌倉の鶴岡八幡宮の拜殿に坐して下向の由を表明、鎌倉に居住することを懇望した。しかし、幕府によって武士一人を付けられて歸洛、將來出家するようにと醍醐付近に送還された。
『明月記』寛喜元年九月廿四日戊子
去月之比、關東有勝事。三宮(惟明親王)孫王、長髪餘其長云々、忽下向。坐八幡若宮拜殿、被觸下向由。太驚奇。急有可有御上洛由申。『歸京無其所。不元服、又、無出家之計略。只可居住此邊』由、雖懇望、付武士一人、早令上洛。可然僧一人被仰付、可有出家之由申公家、使武士送置醍醐邊云々。近年稱「片野宮」。遊于江口・~崎邊人云々。
その後、出家して醍醐寺大智院に入った可能性があるのではないか、と思われる。
 
【研究】
龍肅『鎌倉時代』下「後嵯峨院の素意と關東申次」、215〜217頁に、『明月記』における「片野宮」(龍肅は「交野宮」と作す)に關する記載が取り上げられ、檢討されている。
【215頁】
 幕府治世の継嗣に配慮
 幕府は治天の君については、承久以来、深甚な関心をもっていた。承久には西園寺公經と協カして後高倉院を推戴し、その御子孫への伝承を確認したが、後高倉院は治天僅かで崩じ、次の後堀河天皇は蒲柳の御性質であり、早く后妃を立てられたけれど、皇子の生誕が久しく伝えられなかった。それがため幕府は万一の用意として、治世の継嗣に考慮を加えたことがあったらしく推考されるのである。
 幕府交野宮に注目
 それは高倉天皇第三皇子惟明これあき親王の王子である交野宮かたののみやについての幕府の関心であって、明月記の伝えるところであるが、明瞭を欠く点が少くない。明月記には次のように記している。
    嘉祿元年四月廿六日、天リ陰、嚴(親嚴)僧正過談す、賀茂に参るの次、 世間の雑談のついでに云ふ、巷説に白河染殿僧都の養ひ奉る孫王は、出家し給ふべからず、恭敬すべき(不 可)の由、關東より乳母の許に示し送る、と云々。
    廿七日、(中略)巻説、孫王貴重の事、普く謳歌す、云々。
    二年九月十一日、(中略)今度性(愚)房語つて云ふ、醍醐の座主 僧都か、三宮の御嫡なり、 の母儀尼 彼の宮の御子息は、皆悉くこの尼の生むところ、 は、當時有通卿の姉に在りて、新阿彌陀佛尼の房と稱す、件の新阿彌陀佛の母は、澄憲法印等の妹なり、此の縁に依つて高倉殿は嘗て彼の房に坐せらる、主客居住の人に此の尼偏へに奉仕して奴僕となる、件の孫王達は、親王の後家 雅親卿の姉 を以て養母となす、件の養母は實母を惡むに依つて懸養せず、件の尼の父入道法師は、同じく相具して醍醐に在り、と云々、彼の座主の御弟の孫王は、武士、出家し給ふべからざる由示し申す旨あり、通具卿之を聞いて、内々己扶持申すべき由を所望す、と云々。
    寛喜元年九月廿四日戊子、天リ、(中略)去月の比、關東に勝事あり、三宮 惟明親王 の孫王長髪そのタケに餘る、と云々。忽ち下向して八幡宮若宮拜殿に坐して、下向の由を觸れらる、大いに驚奇、急ぎ御上洛あるべきの由を申す。京に歸るも其の所なく、元服せず、又出家の計略もなし、只此の邊に居住すべきの由を懇望すと雖も、武士一人を付して早く上洛せしめ、然るべき僧一人に仰せ付けられ、出家あるべき由を申す、公家、武士を遣はして送り、醍醐の邊に置く、と云々、近年、交野宮と稱し、江ロ・~崎邊に遊ぶの人なり、と云々。(抄出、原漢文
 交野宮と土御門通具
 この記事から推考すると後鳥羽上皇の院政の初期に、院の権勢を握った内大臣土御門通親みちちかの次子堀川通具みちともは、嘉祿元年(一二二五)には大納言であったが、当時世に孫王と称せられた高倉天皇の皇孫で三宮惟明これあき
【216頁】
親王(承久三年五月三日薨去)の王子、御名不詳、後に交野宮と称せられた宮を、幕府の意向、すなわち宮を出家させないようにして恭敬せよということに協力して、扶持に力を注いだようである。これは通具の従兄弟にあたる土御門通資(元久二年七月八日に権大納言正二位で薨去)の女が、惟明親王の妃であった縁故によったものらしい。惟明親王には交野宮のほかに、尊雲そんうん聖海せいかいの二王子があったことが皇胤紹運録こういんしよううんろくに見えているが、上記の明月記によれば、いずれも同母の御子で、聖海が嫡子で、母儀はその頃新阿彌陀佛しんあ み だ ぶつと号していた。而してこの三王子には父親王の正室であった通資みちすけの女すなわち権大納言土御門雅親まさちかの姉は養母に当ったのであるが、養母と実母とは仲が悪く、養母は三王子の養育に従わなかったので、実母の父の入道法師が王子を具して醍醐だいごに住んでいた。嫡子の聖海が醍醐座主であったから、幕府はこの孫王もやがて出家することを予測して、出家を停めて俗体として恭敬したい意向を示したので、親王家と所縁のある通具が、みずから進んでその扶持を所望したということである。孫王出家停止の幕府の主旨については、なんらの所伝もないが、当時、皇胤が極めて少い際であったから、他日の治天の君として、幕府が内々に配慮し、通具もまたここに着眼して、土御門家の将来を併せ考え、進んで孫王の扶持にあたらんとしたもののごとくである。これについてのその後の通具の業績は伝わらないが、この後、一年ならずして安貞あんてい元年九月二日に薨じている。
 交野宮の動静
 その後二年たらずして、孫王は長髪異様な風体で鎌倉に下向し、鶴岡若宮の拝殿に登って、下向の由を公言されたので、鎌倉は大騒ぎとなり、幕府の当局は速かに帰京されたいことを申し入れたが、孫王は帰京しても居る所はなく、元服もまた出家の事も考えになく、只このまま鎌倉辺に居住したい旨を懇望されたが、幕府は武士一人を附して早く上洛させ、然るべき僧一人に命じて出家あるべき由を申し出たので、京都ではその申請にしたがって、武士に鎌倉から京都へ送らせ、かねての縁故によって、とりあえず醍醐の辺に置いたが、その後は江口えぐち~崎かんざき辺の遊里に出入し、交野宮かたののみやと呼ばれるようになったということである。思うに、この孫王は幕府の意向を察して鎌倉に下ったが、すでに常軌を逸した行動に近かったため、幕府から敬遠されて再び京都に連れもどされ、その後の行
【217頁】
動は依然世の耳目を驚かしたということである。思うに、幕府の所期の目的は適当な扶持者がなく、孫王の行跡が逸脱したことなどによって達せられなかったものらしい。しかしこの間に、幕府が皇胤に対して相当な関心をもっていたことは注目すべきことである。
 
【子女】
 □「醍醐宮
 □「栗野宮
 
【文獻等】
稿本高倉天皇實録』 一一五三〜一一五四頁 「皇孫國尊王」
龍肅『鎌倉時代』下(春秋社、昭和三十二年(一九五七)十二月)「後嵯峨院の素意と關東申次」 215〜217頁
赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流』 吉川弘文館、二〇二〇年一月
C水正健『皇族考證』第肆巻「高倉皇胤」には特に言及がない。


 
次頁 「 遍 [遍斅]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 へ 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


更新日時: 2020.09.02.
公開日時: 2008.12.04.


Copyright: Ahmadjan 2008.12 - All rights reserved.