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「白河染殿僧都」に養育されていたが、嘉祿元年(一二二五)四月頃、鎌倉幕府より出家を停められる。
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『明月記』嘉祿元年四月廿六日
嚴僧正過談(參賀茂之次)。世間雜談之次云。巷説、白河染殿僧都之奉養孫王、不可出家給、不【衍カ】可恭敬之由、自關東示送乳母許云々。
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『明月記』嘉祿元年四月廿七日
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しかし、元服することなく、また、出家の豫定もなく、有髪の姿で江口・神崎付近で「遊」び暮らしていた。
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『明月記』嘉祿二年九月十一日
今後性兼(愚イ)房語云。醍醐座主【聖海】(僧都歟。三宮【惟明親王】御嫡也)母儀尼(彼宮御子息、皆悉此尼所生)、當時在有通卿姉、稱新阿彌陀佛尼之房。件新阿彌陀佛母、證憲【澄憲】法印等之妹也。依此縁、高倉殿嘗被坐彼房。主客居住之人、此尼偏奉仕爲奴僕。件孫王達、以親王後家(雅親卿姉)爲養母。件養母、依惡實母、不懸養。件尼之父入道法師(【傍注】侍云々)同相具在醍醐云々。彼座主御弟孫王、武士不可出家給由有示申旨、通具卿聞之。内々已可扶持申之由所望云々。爲劉子之名字歟。付視聽、只令痛心宜矣。范文子使祝家祈死。
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『明月記』寛喜元年九月廿四日戊子
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鎌倉幕府から、一時的に、皇位繼承候補者に擬せられていたと考えられている。
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『明月記』嘉祿元年十一月十九日
竊案。義村【三浦】八難六奇之謀略、不可思議者歟。若依思孫王儲王用外舅歟。
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※ 源朝臣通時[唐橋]の結婚についての條。三浦義村は、自らが支えた通時を通じて、交野宮とも關係があった。
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寛喜元年(一二二九)八月頃、突如、關東に下向、鎌倉の鶴岡八幡宮の拜殿に坐して下向の由を表明、鎌倉に居住することを懇望した。しかし、幕府によって武士一人を付けられて歸洛、將來出家するようにと醍醐付近に送還された。
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『明月記』寛喜元年九月廿四日戊子
去月之比、關東有勝事。三宮(惟明親王)孫王、長髪餘其長云々、忽下向。坐八幡若宮拜殿、被觸下向由。太驚奇。急有可有御上洛由申。『歸京無其所。不元服、又、無出家之計略。只可居住此邊』由、雖懇望、付武士一人、早令上洛。可然僧一人被仰付、可有出家之由申公家、使武士送置醍醐邊云々。近年稱「片野宮」。遊于江口・~崎邊人云々。
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その後、出家して醍醐寺大智院に入った可能性があるのではないか、と思われる。
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