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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[多嘉C]

フレームなし

工事中

多嘉王 たか
 
 伊勢神宮祭主(六)
 
【出自】
 
朝彦親王[久邇宮]の五男。
 
【生母】
 泉亭靜枝(靜枝子)
 
【經歴】
明治八年(一八七五)八月十七日、生誕。
多嘉王
明治八年(一八七五)八月*日、命名。
明治四十二年(一九〇九)九月二十三日、伊勢神宮祭主(六)に臨時に任命される。
大正八年(一九一九)九月六日、伊勢神宮祭主に正式に任命される。
京都に邸宅を置き、獨立の皇族としての待遇を受ける。
昭和十二年(一九三七)十月一日、薨去。六十二歳。
『入江相政日記』昭和十二年十月一日
『官報』號外 昭和十二年十月一日 告示 「宮内省告示第二十三號」
神宮祭主大勲位多嘉王殿下本日午後二時三
十五分京都市上京區東櫻町二十七番地久邇
宮別邸ニ於テ薨去セラル
 昭和十二年十月一日
        宮内大臣 松平 恒雄
『官報』號外 昭和十二年十月一日 告示 「宮内省告示第二十四號」
神宮祭主大勲位多嘉王殿下薨去ニ付今一日
ヨリ三日迄三日間宮中喪仰出サル
 昭和十二年十月一日
        宮内大臣 松平 恒雄
『官報』號外 昭和十二年十月一日 告示 「宮内省告示第二十五號」
神宮祭主大勲位多嘉王殿下薨去ノ爲宮中喪
仰出サレタルニ依リ宮中ニ參内スル者ハ左
ノ通喪服著用スヘシ
 昭和十二年十月一日
        宮内大臣 松平 恒雄
 皇室喪服規程男子喪服制式及女子喪服制
 式第一號第二號第三號各第三期ニ依ル
『官報』號外 昭和十二年十月一日 宮廷録事 「皇后宮御服喪」
        神宮祭主大勲位多嘉王殿
下薨去ニ付 皇后陛下ニハ皇室服喪令ノ規
定ニ依リ定式ノ喪ヲ服セラル
『官報』號外 昭和十二年十月一日 宮廷録事 「皇族王族御服喪」
         神宮祭主大勲位多嘉王
殿下本日薨去ニ付家彦王、コ彦王、恭仁子女
王各殿下ニハ父ノ御續ヲ以テ靜子殿下ニハ
夫ノ御續ヲ以テ孚彦王、湛子女王、盛厚王、
彰常王、俊彦王各殿下ニハ父ノ兄ノ御續ヲ
以テ恒憲王、朝融王、方子女王各殿下ニハ父
ノ弟ノ御續ヲ以テ鳩彦王、稔彦王兩殿下ニ
ハ兄ノ御續ヲ以テ守正王殿下ニハ弟ノ御續
ヲ以テ博恭王、春仁王兩殿下ニハ父ノ兄ノ
子ノ御續ヲ以テ載仁親王殿下ニハ兄ノ子ノ
御續ヲ以テ各定式ノ喪ヲ服セラル
『官報』號外 昭和十二年十月一日 宮廷録事 「多嘉王殿下御容態」
          神宮祭主大勲位多嘉
王殿下ニハ兩三年來御輕度ノ腎臓炎ニ罹ラ
セラレ御養生ニ御留意アラセラレシカ本年
四月中旬ヨリ御症状稍々重ラセラレ約二週
間前ヨリ急ニ御全身ニ御浮腫ヲ發生御尿ノ
所見亦増惡ヲ拜シ遂ニ尿毒症ノ御徴候ヲ拜
スルニ至リ御憂慮申上ケタル處十月一日午
後二時二十五分俄ニ御危篤ニ陷ラセラレ同
二時三十五薨去遊ハサル
昭和十二年(一九三七)十月七日、葬送。
『官報』第三二二八號 昭和十二年十月五日 宮廷録事 「故多嘉王御喪儀」
         故多嘉王御喪儀ハ明後
七日午前九時三十分京都市上京區東櫻町久
邇宮別邸御發引京都市泉涌寺境内ニ於テ執
行セラル
 
工事中【墓所】
 
【配偶】
 静子 しづこ
 多嘉王妃
 水無瀬忠輔の一女。
 昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇族身分より離脱
『官報』昭和二十二年十月十四日告示、宮内府告示第十七號
 
【子女】
發子女王
賀彦王
b子女王
恭仁子女王 のち二條恭仁子
家彦王 のち宇治家彦
コ彦王 のち龍田コ彦、梨本コ彦
 
工事中【逸事等】
 
【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三八頁


 
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公開日時: 2010.07.06.

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