春枝王
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『續日本後紀』承和十年六月丙申【丙戌歟】
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七九八年(延暦十七年)生。 | |||||
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幼少期より嵯峨太上天皇に仕える。 | |||||
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蔭位により正六位上に敍される。 | |||||
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承和初、越後介となる。
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承和十年(八四三)正月十一日、諒闇にもかかわらず、治國者として特に選ばれ、正六位上から從五位下に敍される。
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承和十年(八四三)正月十二日、能登守となる。
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嘉祥四年(八五一)二月十三日、先皇(仁明天皇)御忌齋會行事司に定められ檢集校會衆僧房司となる。時に散位從五位下。
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仁壽三年(八五三)七月二十一日、中務少輔となる。
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仁壽三年(八五三)十月十六日、正親正となる。
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仁壽四年(八五四)正月七日、従五位下から從五位上に敍される。
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齊衡二年(八五五)正月十五日、下總守となるが、病が篤かったため任官せず、隱居養生した。しかし、天恩により、諸節祿および位祿等を、現任に準じて支給された。
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齊衡三年(八五六)九月十三日卒去。五十九歳。時に散位從五位上。
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人となりが謙退で、厚く佛道を尊んだ。
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良吏として知られる。越後介として、頗る政績があり、治國者として特別の敍任にあずかった。また、能登國は、累年、荒廢し、百姓が煩擾していたが、春枝王が能登守として到ると、赴任三年に及ぶころ、能登國は漸く復興し、民は綏安を得たという。
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春枝王の上請により、定額寺(国家の援助を受ける有力寺院)であった、七尾の大興寺(能登臣の氏寺で、承和十年(八四三)十二月に創立の官符を得た)が能登の國分寺となった。なお、能登國分寺は、天正五年(一五七七)に燒失し、昭和四十五年(一九七〇)に本格的な發掘調査が開始され、昭和四十九年(一九七四)、「能登国分寺跡附建物群跡」として國指定遺跡となった。
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石川県 鹿島郡 中能登町 春木の天~社(てんじんじゃ)(天~宮、藥師十二~)は、能登守となり赴任して春木に居住した春枝王が少那毘古那命を崇敬して鎭祭したという。
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倉本一宏「長屋王の子孫・春枝王に見る、平安時代における皇親の政治的役割と没落 平安貴族列伝(49)」(JBpress (ジェイビープレス)、2024.4.24) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/80573 長屋王の子孫・春枝王に見る、平安時代における皇親の政治的役割と没落 平安貴族列伝(49) | JBpress (ジェイビープレス) ※ 春枝王は五世王であるので、皇親でなく諸臣である。 |
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