三原春上


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[春上]

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春上[王]
 
 のち三原朝臣春上
 
 參議正四位下
 嵯峨・仁明朝期の文人貴族。
 
【出自】
 
弟平王乙平王のち三原朝臣弟平)の一男。
 新田部親王(天武天皇の男子)の曽孫と推定されている。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
從五位上弟平王一男。
『一代要記』(『改訂史籍集覧』第一册、八四頁)
 
【經歴】
*春上王
七七四年(寳龜五年)生。
三原朝臣春上
延暦十年(七九一)三月二十一日から延暦十八年(七九九)二月六日までの間に、父 乙平王と共に三原朝臣を賜姓されたと推定される。
正六位上に敍される。
大同四年(八〇九)六月、弾正大忠に任じられる。三十六歳。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
弘仁二年(八一一)正月、民部大丞に任じられる。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
弘仁二年(八一一)四月、式部大丞に任じられる。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
弘仁八年(八一七)正月、藏人に補される。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
弘仁九年(八一八)、式部少丞に任じられる。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
弘仁十一年(八二〇)正月七日、正六位上から從五位下に敍される。四十六歳。
『類聚國史』卷九十九「職官」四「叙位」四、弘仁十一年正月庚辰
正六位上三原朝臣春上、春岡眞人廣海、大伴宿禰勝雄、百濟王盈哲、多治比眞人C貞、安倍朝臣永野、笠朝臣仲守、紀朝臣御依、藤原朝臣三成、安倍朝臣高繼、[授]從五位下。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
弘仁十一年(八二〇)正月十一日、伊賀守に任じられる。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
弘仁十四年(八二三)四月十九日、中務少輔に任じられる。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
同【弘仁】十四年四月癸卯中務少輔。
弘仁十四年(八二三)五月一日、右少辨に任じられる。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
弘仁十四年(八二三)九月二十七日、主殿頭に任じられる(右少辨を止む)。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
弘仁十四年(八二三)十一月二十日、從五位下から從五位上に敍される。
『類聚國史』卷九十九「職官」四「叙位」四、弘仁十四年十一月庚午
[授]從五位下文室朝臣長谷、小野朝臣眞野、C原眞人長谷、百濟王安義、坂上大宿禰C野、三原朝臣春上、安部朝臣吉人、藤原朝臣家雄、藤原朝臣豐主從五位上。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
天長元年(八二四)正月十一日、下總守を兼任。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
天長元年(八二四)十二月二十七日、從五位上から正五位下に敍される。
『類聚國史』卷九十九「職官」四「叙位」四、天長元年十二月辛丑
授從五位上三原朝臣春上、從五位下藤原朝臣廣敏正五位下。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
天長二年(八二五)正月七日、正五位下から從四位下に敍される。
『類聚國史』卷九十九「職官」四「叙位」四、天長二年正月辛亥
[授]正五位下高階眞人C階、正五位下藤原朝臣文山、藤原朝臣廣敏、三原朝臣春上從四位下。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
天長二年(八二五)二月五日、兵部大輔に任じられる。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
天長二年(八二五)七月、藏人頭に補される。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
天長二年(八二五)九月十三日、彈正少弼を兼任。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
天長三年(八二六)九月、彈正大弼に轉任(兵部大輔・下總守は元の如し)。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
天長五年(八二八)三月十九日、參議に任じられる(彈正大弼は元の如し)。五十五歳。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」尻付
三月十九日任。元藏人頭。彈正大弼如元。
『公卿補任』天長五年、參議 從四位下「三原春上(五十五)」袖書
      從五位上弟平王一男。
大同四六彈正大忠(卅六)。弘仁二正ー民部大丞。四月ー式部大丞。同八正ー藏人。同九ー式部少丞。同十一正七從五下。同十一日伊賀守。同十四年四月癸卯中務少輔。五月一右少辨。九月廿七日主殿頭(止辨)。十一月廿從五上。天長元正十一兼下總守。十二月廿七日正五下。同二正七從四下。二月五兵部大輔。七月藏人頭。同九月十三日兼彈正少弼。同三九ー轉大弼(大輔・守如元)。
天長六年(八二九)正月十三日、右大辨に任じられる(彈正大弼を止む)。
『公卿補任』天長六年、參議 從四位下「三原春上(五十六)」尻付
大弼。正月十三日任右大辨。止彈正。
天長七年(八三〇)六月五日、相模守を兼任。
『公卿補任』天長七年、參議 從四位下「三原春上(五十七)」尻付
右大辨。六月五日兼相模守。八月四任式部大輔(止辨。守如元)。
天長七年(八三〇)八月四日、式部大輔に任じられる(右大辨を止む)。
『公卿補任』天長七年、參議 從四位下「三原春上(五十七)」尻付
天長八年(八三一)正月四日、從四位下から從四位上に敍される。五十八歳。
『類聚國史』卷九十九「職官」四「叙位」四、天長八年正月癸卯
[授]從四位下三原朝臣春上、文室朝臣秋津從四位上。
『公卿補任』天長八年、參議 從四位下「三原春上(五十八)」尻付
式部大輔、相模守。正月七日【ママ】從四上。九月庚子兼弾正大弼(止大輔)。
天長八年(八三一)六月二十七日、上表するが許されず。時に參議式部大輔。
『日本紀略』天長八年六月癸巳
參議式部大輔三原朝臣春上上状。不許。
天長八年(八三一)九月六日、彈正大弼を兼任(式部大輔を止む)。
『公卿補任』天長八年、參議 從四位下「三原春上(五十八)」尻付
式部大輔、相模守。正月七日從四上。九月庚子兼弾正大弼(止大輔)。
天長九年(八三二)十一月七日、治部卿となる(相模守は元の如し)。
『公卿補任』天長九年、參議 從四位上「三原春上(五十九)」尻付
大弼、相模守。十一月七日任治部卿。守如元。
天長十年(八三三)正月七日、從四位上から正四位下に敍される。六十歳。
『類聚國史』卷九十九「職官」四「叙位」四、天長十年正月乙未
[授]從四位上三原朝臣春上正四位下。
『公卿補任』天長十年、參議 從四位上「三原春上(六十)」尻付
治部卿。正月七日正四下。
承和元年(八三四)正月十六日、左大臣以下の他の公卿たちと共に上表。時に參議正四位下兼行相摸守とあるが、相模守とあるのは疑問。
『續日本後紀』承和元年正月丁卯
先是、大宰府上言。慶雲見於筑前國。至是、太政官左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣、右大臣從二位兼行左近衛大將臣清原眞人夏野、從二位行大納言兼皇太子傅臣藤原朝臣三守、正三位行中納言兼兵部卿臣源朝臣常、正三位行權中納言臣藤原朝臣吉野、中納言從三位兼行民部卿臣藤原朝臣愛發、參議從三位行治部卿兼美作守臣源朝臣定、參議右近衛大將從三位臣橘朝臣氏公、[參議從三位行左兵衛督臣源朝臣信]、參議正四位下兼行相摸守臣三原朝臣春上、參議從四位上行式部大輔勳六等臣朝野宿祢鹿取、參議左大弁從四位上兼行左近衛中將春宮大夫武藏守臣文室朝臣秋津、參議從四位上[右大弁]兼行下野守臣藤原朝臣常嗣等上表言。・・・・・
承和元年(八三四)二月十九日、勅語を伊勢守從五位上丹墀眞人C貞に傳達。時に參議正四位下行彈正大弼とあるが、彈正大弼とあるのは疑問。
『續日本後紀』承和元年二月庚子
伊勢守從五位上丹墀眞人C貞之官喚於殿上賜御襖子。令參議正四位下行彈正大弼三原朝臣春上傳勅語云。拜舞退出。
承和元年(八三四)七月一日、彈正大弼を兼任。
『續日本後紀』承和元年七月庚戌朔
[以]參議正四位下三原朝臣春上爲彈正大弼。
『公卿補任』天長十一年、參議 正四位下「三原春上(六十一)」尻付
七月一日兼彈正大弼。
承和六年(八三九)十月二十五日、伊勢守を兼任。
『續日本後紀』承和六年十月癸酉
[以]參議正四位下三原朝臣春上爲兼伊勢守。
『公卿補任』承和六年、參議 正四位下「三原春上(六十六)」尻付
彈正大弼。十月【廿】五日任伊勢守。
承和六年(八三九)十二月八日、左大臣以下、他の公卿と共に上奏。時に參議正四位下行伊勢守。
『續日本後紀』承和六年十二月丙辰
太政官左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣、右大臣從二位兼皇太子傅臣藤原朝臣三守、大納言正三位兼左近衛大將臣源朝臣常、中納言正三位臣藤原朝臣吉野、中納言從三位臣藤原朝臣愛發、中納言從三位兼右近衛大將臣橘朝臣氏公、權中納言從三位兼行左兵衛督陸奧出羽按察使臣藤原朝臣良房、參議正三位行左衛門督臣源朝臣信、參議從三位行中務卿兼播磨守臣源朝臣定、參議大宰權帥從三位兼行左大弁臣藤原朝臣常嗣、參議正四位下行伊豫守【伊勢守】臣三原朝臣春上、參議從四位上守民部卿勳六等臣朝野宿祢鹿取、參議從四位上行春宮大夫兼右衛門督臣文室朝臣秋津、參議從四位下守刑部卿臣安倍朝臣安仁等奏言。・・・・・
承和七年(八四〇)五月八日、太上天皇(淳和天皇)の崩御により装束司となる。
『續日本後紀』承和七年五月癸未
後太上天皇崩于淳和院。春秋五十五。・・・・・ 以正三位藤原朝臣吉野、從三位源朝臣定、正四位下三原朝臣春上、正四位下源朝臣弘、從四位上藤原朝臣衛、從四位下紀朝臣長江、正五位下藤原朝臣輔嗣、正五位下藤原朝臣嗣宗、外從五位下C内宿祢御園、六位已下三人爲裝束司。
承和七年(八四〇)十月十六日、彈正大弼に復任(兼任。伊勢守は元の如し)。
『續日本後紀』承和七年十月戊午
以參議正四位下三原朝臣春上爲兼彈正大弼、伊勢守如故。從四位下高枝王爲大舍人頭。從五位下文室朝臣氏雄爲兼駿河守、内匠頭如故。
『公卿補任』承和七年、參議 正四位下「三原春上(六十七)」尻付
十月十八日復任彈正大弼。治部卿、伊勢守。
『公卿補任』承和八年、參議 正四位下「三原春上(六十八)」尻付
大弼、伊世守。
承和十年(八四三)四月二十三日、致仕。七十歳。
『續日本後紀』承和十年四月
參議正四位下三原朝臣春上上表致仕。許之。
『公卿補任』承和六年、參議 正四位下「三原春上(七十)」尻付
四月致仕。十二月【ママ】十八日卒(頭四年。參議十六年)。
承和十二年(八四五)十一月十八日、卒去。七十二歳。
『續日本後紀』承和十二年十一月辛酉
參議正四位下三原朝臣春上卒。
 
【著述等】
『經國集』に漢詩一首あり。
『經國集』卷十「梵門」、「扈從梵釋寺應製一首」
 
【逸事等】
攝津國武庫郡甲山(兵庫県西宮市甲山町)の神呪寺(かんのうじ)(甲山大師)は、『帝王編年記』によると、天長四年(八二七)三月、皇后正子内親王の夢告により、淳和天皇が橘氏公、三原春上に勅命して精舍を建て、如意輪觀音を本尊とし、空海が寺の名を~咒寺とした。
『帝王編年記』天長四年三月
皇后【正子内親王】得靈夢曰。西峨攝津國武庫山邊有孤岳。其形如寶珠。是觀音利生之地也。須建立寺。夢告人似天女。皇后夢覺、心~豁然也。即以夢告奏天皇。々々隨喜悦像、勅橘氏公、三原春上建精舍以如意輪大悲觀音像爲本尊。空海僧都表本尊秘法~咒、其寺名爲~咒寺。
但し、現在の神呪寺では、『帝王編年記』が傳えるこの由緒は採られておらず、虎關師錬『元亨釋書』卷十八「願雜」四 尼女「如意」の所傳に基づく由緒が採用されている。なお、神呪寺の本尊である如意輪觀音像は、空海の時代のものではなく攝關期の作ではあるが、國指定重要文化財であり、「日本三如意輪觀音」の一つとされ、「融通觀音」と稱されている。
 
【文獻等】
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』研究篇(吉川弘文館)「新撰姓氏録の撰者」七〇頁上、注(10)。同七〇頁上下、注(11)。


 
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更新日時:2025.12.02.
公開日時:2025.11.30.

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