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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[乙平]
 
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□ 乙平王 オトヒラ
 または
乙枚王弟平王
 のち三原朝臣弟平
 『新撰姓氏録』編者の一人。
 
【出自】
三世王。
新田部親王(天武天皇の男子)の孫と推定される。
『續日本紀』延暦十年正月戊辰
『新撰姓氏録』左京皇別上「三原朝臣」
天武天皇皇子一品新田部親王之後也。
父は長野王か。
澤田浩「『薬師寺縁起』所引天武系皇親系図について」、六六頁
乙枚王の父が誰であるのか問題となるが、塩焼王とその後裔は氷上真人であるので、これには該当せず、乙枚王の父は道祖王か長野王のどちらかということになろう。
 
【經歴】
乙枚王/乙平王/弟平王
延暦十年(七九一)正月七日、無位より從五位下に敍される。
『續日本紀』延暦十年正月戊辰
宴五位已上。授正五位下笠王正五位上。无位乙枚王、正六位上守山王並從五位下。
延暦十年正月時點における初敍從五位下であるため、乙枚王は三世王であると推定されている。
澤田浩「『薬師寺縁起』所引天武系皇親系図について」、六四〜六六頁
延暦十年(七九一)三月二十一日、造酒正に任じられる。
『續日本紀』延暦十年三月辛巳
[以]從五位下乙平王爲造酒正。
三原朝臣弟平
延暦十年(七九一)三月二十一日から延暦十八年(七九九)二月六日までの間に、三原朝臣を賜姓される。
弟平の一男である三原朝臣春上(七七四年(寳龜五年)生)も、この時に、父と共に賜姓されたと推定される。
延暦十八年(七九九)二月六日、内藏助に任じられる。
『日本後紀』延暦十八年二月庚辰
從五位[下]三原朝臣弟平爲内藏助。
從五位下より從五位上に敍される。
弘仁四年(八一三)二月十三日、尾張守に任じられる。
『日本後紀』弘仁四年二月丙申
從五位上三原朝臣弟平爲尾張守。
弘仁六年(八一五)七月二十日、『新撰姓氏録』が完成。その上表に「従五位上行尾張守」と見える。
『新撰姓氏録』上表
弘仁六年七月廿日、中務卿四品臣万多親王、右大臣従二位兼行皇太弟傅勲五等臣藤原朝臣園人、参議従三位行宮内卿兼近江守臣藤原朝臣緒嗣、正五位下行造東寺長官臣阿倍朝臣真勝、従五位上行尾張守臣三原朝臣弟平、従五位上行大外記兼因幡介臣上毛野朝臣頴人等上表。
 
【子女】
三原朝臣春上
弟平王の一男。參議正四位下。
『公卿補任』天長五年、參議「從四位下三原春上(五十五)」
從五位上弟平王一男。
 
【備考】
 佐伯有清は、三原朝臣弟平の一男である春上の閲歴によって「だいたい弟平の生存年代が推定できる」として、次のように論じる。
すなわち春上が弟平の二十歳のときに生まれた子とすれば、弘仁五年、弟平は六十一際であり、天平勝寶六年(七五四)の誕生になり、阿倍朝臣眞勝と同年ということになる。また二十五歳のときに生れた子とすれば、弘仁五年、弟平は六十六歳であり、天平勝寶元年(七四九)の生れになる。もちろん弟平の年齡を確定はできないが、だいたい眞勝と同じ世代に屬する人であったといえる。そうして弟平が七十歳で死んだとすれば、天平勝寶六年生れとして、弘仁十四年(八二三)、天平勝寶元年生れとして、弘仁九年(八一八)に世を去ったことになる。しかも彼の位は從五位上にとどまったようであるから、姓氏録を完成させてから幾年も生存していたとは考えられず、おそらく右の推定年代にさして大きなひらきはないと思う。
◎ 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』研究篇、六四〜六五頁。
 
【文獻等】
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』研究篇(吉川弘文館)「新撰姓氏録の撰者」、六四〜六五頁。同七〇頁下、注(12)。
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇 第一(吉川弘文館、昭和五十六年(一九八一)十二月第一刷)、一二〇頁。同二九七〜二九八頁
澤田浩「『薬師寺縁起』所引天武系皇親系図について」(『国史学』第一四二号、一九九〇年十一月)、六三〜六六頁「三 系譜記事の検討/(6)新田部親王の子」。同八六頁上下、注(34)


 
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公開日時: 2004.02.13.

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