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權少僧都に任じられる。
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『釋家官班記』下「一身阿闍梨事」
皇孫
多分任權少僧都。曾孫王猶有拜除例。當世則守惠僧正(久明親王孫。守邦親王子)被任之。
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貞和二年(一三四六)五月十一日または十二日、師の大僧正聖惠が死去。「宮禪師」即ち守惠が、聖惠の遺跡を繼承すべきところ、若年であったため、一條澄助僧正が繼承。
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『賢俊僧正日記』貞和二年五月十日戊子裏書
大御堂僧正入滅之事。腫物云々。武家祈祷三人之内也。而依此【所カ】勞、俄與奪一條僧正、木具伴僧等渡之云々。所勞次第増氣。十二日午刻云々。但如荒説者、十一日卯刻云々。依申安堵、蹔温密之由有其沙汰云々。遺跡事、宮禪師給之。但未交付、若年之間、一條澄助僧正加扶持、成仁之間、可相計云々。受法以下、此僧正可致沙汰之由、申之。
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『常樂記』貞和二年五月十一日條に、
とあり、「弟子宮」とは守惠を指しているものと思われるが、何らかの誤りがあるのであろう。
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貞和二年(一三四六)、法務大僧正に任じられ、勝長壽院(大御堂)別當に補される。
同年、日光山座主に補される。
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『諸寺院上申』「本覺院住職記」守惠大僧正
貞和二年、任法務大僧正、兼大御堂別當。
同年、爲日光山座主。
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貞治六年(一三六七)十二月二十九日、藤原朝臣道嗣[近衞]の子息が大御堂門跡(勝長壽院)に入室、出家したが、當時、大御堂門跡(勝長壽院)門主の守惠僧正は鎌倉に滯在していた。
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『後深心院關白記』貞治六年十二月廿九日辛未
今夕小童【道惠。道嗣息】入室大御堂門跡。堅固密々儀也。門主守惠僧正(【右傍注】守邦親王子)在鎌倉之間、毎事尊勝院僧正慈能可令執沙汰之旨、有關東「之【補書】」命云々。慈能僧正先來此亭。余【近衞道嗣】相逢。今日儀無爲治定、悦存之由示之。慈能僧正即歸房。秉燭小童即向彼坊、今夜即出家云々。
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永和四年(一三七八)二月九日、死去。
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