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正安三年(一三〇一)五月十二日、鎌倉において誕生。
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『北條九代記』下 正安三年五月十二日
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『北條九代記』下 延慶元年「守邦親王」
式部卿久明親王御子、御母中御所前將軍惟康親王女、正安三年誕生、
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『相顯抄』鎌倉將軍次第
守邦親王 自延慶元年至元弘三年
式部卿久明親王御子、御母中御所、前將軍惟康親王女、
正安三々御誕生、
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『官公事抄』二 コ治三年七月十日
皇年代私記 鎌倉家折本
二品式部卿久明親王御子(御母中御所、前將軍惟康親王女、御諱守邦、正安三年御誕生)爲征夷大將軍、
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『稿本後深草親王實録』七九七頁の〔按〕に、
守邦親王ノ誕生年月、將軍家譜、系圖纂要ニハ乾元々年トアレドモ、北條九代記延慶元年ノ條竝ニ相顯抄ニハ正安三年トアリ、而シテ北條九代記同年五月十二日ノ條ニ久明親王ノ若宮誕生ヲ記セリ、親王ニハ他ニ誕生年月不明ノ王子アレドモ、同條ノ若宮ハ恐ラク守邦親王ヲ指セルナルベシ、今姑ク之ニ據リ掲記シ、按ヲ附シテ後考ニ備フ、
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とある。
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守邦王 |
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コ治三年(一三〇八)八月十日、征夷大將軍宣下。八歳。
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大炊御門本『歴代皇紀』後二條天皇、コ治三年八月七日(『皇室制度史料 皇族二』一二五頁、『皇室制度史料 皇族三』四四頁所引)
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『公秀公記』コ治三年八月八日
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大炊御門本『歴代皇紀』後二條天皇、コ治三年八月十日(『皇室制度史料 皇族三』四四頁所引)
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『大乘院日記目録』一、延慶元年八月十日(『皇室制度史料 皇族二』一二五頁所引)
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『皇年代略記』コ治三年八月
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『稿本後深草親王實録』七九九頁の〔按〕に、
本條ノ日次、諸書異載アレドモ今姑ク八月十日ニ掲記ス、或ハ八月十日勅許、同二十六日鎌倉ニ於テ元服、將軍職ニ就任ノ儀ヲ行ハレシニテモアルベキカ、
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とある。
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コ治三年(一三〇八)八月二十六日、元服。鎌倉において征夷大將軍に就任。
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『武家年代記』中
久明親王御子
征夷大將軍
延慶元 守邦 コ治三八廿六元服、同日將軍始、
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『北條九代記』下 延慶元年「守邦親王」
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『相顯抄』鎌倉將軍次第「守邦親王」
コ治三八廿六御元服、同月立親王、同目【日】征夷大將軍、同廿七□【御】行始、ヽヽヽ三品、
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コ治三年(一三〇八)八月二十七日、執權平朝臣師時[北條相模守]亭に行始。
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『武家年代記』中「延慶元 守邦」
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『北條九代記』下 延慶元年「守邦親王」
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『相顯抄』鎌倉將軍次第「守邦親王」
コ治三八廿六御元服、同月立親王、同目【日】征夷大將軍、同廿七□【御】行始、ヽヽヽ三品、
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守邦親王 |
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コ治三年(一三〇八)九月十九日、親王宣下。三品に敍される。
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大炊御門本『歴代皇紀』花園天皇、コ治三年九月十九日(『皇室制度史料 皇族二』三四頁・一二五頁、『皇室制度史料 皇族三』四四頁所引)
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伏見宮本『守邦王立親王并尊治親王立太子次第』(『伏見宮記録文書』六十八册所收。『皇室制度史料 皇族二』三四〜三五頁所引)
「【端裏書】鷹司前關白記 立親王并立太子」
立親王儀
諸卿著陣。頭右兵衛督藤朝臣就軾。仰守邦王立親王并叙品(三品)事。即下名字勘文。冬平召左大辨ョ俊朝臣宣下親王事。給名字勘文。次召内記仰叙品事。勅別當不被仰之。弘安例也。次有親族拜。申次爲藤朝臣。
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『相顯抄』鎌倉將軍次第「守邦親王」
コ治三八廿六御元服、同月立親王、同目【日】征夷大將軍、同廿七□【御】行始、ヽヽヽ三品、
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文保元年(一三一七)四月十九日、内裏新造の功により、二品に敍される。
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『花園天皇宸記』文保元年四月十九日乙卯(別記)
後聞。攤後右府着陣。有行事造營賞。
二品守邦親王。正二位兼信(師信卿賞讓)。正四位下成隆。正五位上C原ヘ宗(非賞。爲千宣上首故歟)、小槻千宣。
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鎌倉幕府が滅亡した元弘三年(一三三三)五月二十二日、出家。
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『將軍執權次第』
元弘三年
守邦親王 五月廿二日御出家。八月十六日薨。卅二【ママ】。
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『南方紀傳』上 元弘三年五月廿二日
高時法師并一族、籠葛西谷、合戰。京方足助三カ太カ重信、卿房賢良等、爲長崎被誅。鎌倉將軍宮守邦親王、出家降參。崇鑑并一族四十二人、門葉二百八十二人、自害。
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元弘三年(一三三三)八月十六日、薨逝。三十三歳。
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『將軍執權次第』
元弘三年
守邦親王 五月廿二日御出家。八月十六日薨。卅二【ママ】。
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『南方紀傳』上 元弘三年七月十一日
・・・・・ 七日【ママ】、守邦親王薨(三十三歳)、
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『相顯抄』鎌倉將軍次第「守邦親王」
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『鎌倉管領九代記』
新田小太郎義貞上野の國に旗をあげ、鎌倉にせめ入しかば、守邦親王は出家してのがれ出つゝ、程なく薨じ給ひ、・・・・・
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『稿本後深草親王實録』八〇四頁の〔按〕に、
本條ノ月日、諸書異同アレドモ、今姑ク將軍執權次第、系圖纂要等ニ據リ掲記ス、又親王薨去ノ年齒、將軍執權次第、系圖纂要ニ三十二トアレドモ、今其誕生年月竝ニ南方紀傳、將軍家譜等ニ據リテ掲記ス、
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とある。
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康永四年(一三四五)八月十六日、十三囘忌。建仁寺において千僧供養あり。
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『師守記』康永四年八月十六日丁卯
今日、後醍醐院聖忌也。仍於天龍寺有御佛事。將軍【尊氏】并武衞【直義】被參向之云々。又於建仁寺有千僧供[養]。是關東將軍守邦親王十三迴云々。
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