五辻入道宮
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『看聞日記』永享四年四月四日條、同八月廿八日條に「五辻宮」と見える。 『看聞日記』永享四年八月廿一日條に「筑紫宮僧(【傍】號五辻宮)」と見える。 |
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『稿本後深草天皇實録』 八二二頁 「皇玄孫宗璨」の〔參考〕に、『看聞御記』永享四年八月廿二日條、永享四年八月廿八日條が引用され、〔按〕に、
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永享四年(一四三二)四月四日、「九州本領」が安堵されたので下向することとなり、後崇光院(貞成)と對面。後崇光院より、大内持世宛の斡旋の書状を賜わる。
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永享四年(一四三二)四月四日以降、九州筑紫に下向。 | ||||||
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永享四年(一四三二)八月二十二日、後崇光院に禮物を送り屆け、併せて子息への命名を依頼する。
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永享四年(一四三二)八月二十八日、子の名を、後崇光院(貞成)より偏諱を與えられて「成熙」と賜わる。
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永享五年(一四三三)八月四日、伏見殿御領の筑前國住吉御領の代官職を後崇光院に所望し、補任される。
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永享五年(一四三三)九月十二日、後崇光院が伏見殿御領の筑前國住吉御領代官の補任状を「五辻宮」へ遣わす。
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永享七年(一四三五)八月二十一日、「筑紫宮僧」からの「音信、土産等」が後崇光院のもとに到る。
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