源顕方 / 顕方王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[顯方]

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顯方[王]
 
 源朝臣顯方
村手重雄舊藏後村上天皇宸翰の供養經遺札に「顯かた」と見える。『村田正志著作集』第一巻、二〇二頁
第二紙も假名御消息で、・・・・・ 本文中には正右・顯世・行しゆん・山本入道・すゑなか・顯かた等人名が多く見えるが、・・・・・ 顯かたは顯方で、~祇伯資繼王の子、水無P~宮文書正平十六年十月七日綸旨に見える右兵衞督顯方がその人で、すなはちこの頃顯方は藏人として天皇に近侍してゐたのである。
 
 南朝の~祇伯とされる。
 
【出自】
 
資繼王の男子。
『尊卑分脈』「寛和 華山」、資繼王の子
  左中將
──顯英───────────
  母【脇坂本・前田一本・内閣文庫本ナシ】
 
【經歴】
[敍爵]
康永三年(一三四四)正月六日、正五位下に敍される。
『園太暦』康永三年正月六日
貞和三年(一三四七)正月一日の正月節會に右次將として參仕。
『園太暦』貞和三年正月一日
傳聞。今日院并徽安門院拜禮也。・・・・・
  ・・・・・
  節會
   ・・・・・
  次將

   ・・・・・
   右
 實音朝臣   家秀朝臣
 顯方
左近衞權中將となる。
正平の一統に際し、正平六年(一三五一)十二月二十三日、後村上天皇のために北朝の三種の~器を内侍所から回收する渡御の儀における次將を勤仕すべきところ、母の服假にあたり、顯方に代わって一門の[源]康C(少將入道源惠の子)が勤仕した。
『園太暦』觀應二年十二月廿二日「三種器渡御相談伯卿事」
・・・・・ 彼卿【資繼王】云。其條委細猶不能之間(【傍注】私了簡歟)之上、於先規者曾不存知之上、如時服詮【全】分不相具之旨【間】、今日出仕申出之條更不可叶。所詮可及闕如這。一門少將入道源惠【源康通か】子息號康C【源】小男有之。早被宣下次將、可令參懃云々。顯方【資繼王の子】孫【?】當職也。而喪母服假中歟。仍難叶上者、件康C【源】事可有計沙汰云々。・・・・・
曾根研三『伯家記録考』序論「伯家略史」三四頁
・・・・・ 而して資宗王流は他の二流同樣に北朝に仕へたりしも、兎角南朝に好意を有し、資通王の孫顯方王の如きは、正平六年(北朝觀應二年)南朝の爲めに内侍所の~鏡を奪取したる事ありき。
從四位下に敍される。
位階が從四位下の時に、南朝に參仕。北朝では除籍されなかったが、昇敍はなく、從四位下に据え置かれ、應安四年(一三七一)正月の時點で、北朝では從四位下の臈次筆頭となっていた。
九條本『歴名 正二位已下 至従五位上』(宮内庁書陵部所藏。九326)從四位下
源 顯方
南朝において正平十六年(一三六一)十月七日までに右兵衞督に任じられる。
水無瀬~宮文書 正平十六年十月七日綸旨
右兵衞督顯方
南朝において~祇伯となったとされる。
久保田収「伯家の成立と分流」190頁
資継王の子顕方王が吉野の朝廷の神祇伯となつたことが、『改訂伯家家譜』にみえてゐるが、いつ伯に任ぜられたのか、またいつまで在任したかは、一切わからない。
 
【子女】
資方王 【資繼王の子となる】
 
【文獻】
曾根研三編著『伯家記録考』(西宮神社社務所、昭和八年(一九三三)十月)
曾根研三「改訂伯家家譜」五七〇頁(曾根研三『伯家記録考』附録)
曾根研三「増補訂正伯家系譜」五三五頁(曾根研三『伯家記録考』附録)
久保田収「伯家の成立と分流」(『皇学館大学紀要』第十三輯、昭和五十年(一九七五)一月、170〜193頁)


 
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公開日時: 2021.01.06.

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