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文化四年(一八〇七)十月十二日酉刻、誕生。十月十三日卯上剋に誕生と公表。
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『伏見宮日記』文化四年十月十三日
今晩卯上剋姫宮御方御誕生也。御産母御召仕いよ。御出生後御機嫌克御丈夫之御事被為在候也(實ハ昨十二日酉剋御誕生也)。
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「爲宮」
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文化四年(一八〇七)十月十九日、七夜。「爲宮」(ためのみや)と稱號が定められる。
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『伏見宮日記』文化四年十月十九日
今日姫宮樣御七夜御祝儀被爲在。御名被爲稱爲(タメ)宮御方与候也。
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文化五年(一八〇八)十二月七日、箸初、髪置。
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『伏見宮日記』文化五年十二月七日
爲宮樣御喰始。
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爲宮御方御髪置。
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文化七年(一八一〇)二月二十二日、色直。
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『伏見宮日記』文化七年二月廿二日
一、今廿二日依吉辰(但日時陰陽寮依勘進也)爲宮御方御色直御祝儀被爲在。
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文化九年(一八一二)六月二十六日、故藤原朝臣輔嗣[九條左大將]の猶子として瑞龍寺を相續すべきことが内定する。
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『伏見宮日記』文化九年六月廿六日
九條大納言殿御使鵜郷出羽守ヲ以、時節御口上、兼而被仰進候其姫宮爲宮樣瑞龍寺御室御相續之儀、今日御日柄能、即御室御家來江被仰渡候処、難有御請申上候ニ付、目出度御内定之義、被仰合候段、被仰進。言上之後、御相應之御答申達。・・・・・
一、瑞龍寺御室比丘尼春成御家司安藤正親參上(兼字依招也)。今日九條殿へ安達志津摩、三宅修理御招ニて、左之趣御達有之候ニ付御届且恐悦申上候旨也。其後安達志津摩、三宅修理參上。同樣御届恐悦等申上。且御用掛リ岡本典膳、茨木舍人へ被仰付候段も申上。仍於御暇附之間、先春成へ(善繼/雅雄)立會。此御方御末女爲宮御方其御室御相續之義、今日九條殿ゟ御内定被仰合候。御家來一統左樣相心得候様申達候処、難有御請申上候。夫ゟ正親、志津摩・修理へ同樣申達。難有御請申上候。畢而春成義ハ局へ向參上候事故、於奧向御所樣御目見被仰付・御祝被下之。・・・・・
今般伏見宮御連枝爲姫宮故左大將殿爲御猶子、其御室御相續被仰出候事。
申六月
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文化十年(一八一三)四月十六日、内々に瑞龍寺門跡に移徙。
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『伏見宮日記』文化十年四月十五日
一、爲宮樣明十六日瑞龍寺御室江御内々御引移被爲有候処、方々之義差支有之候ニ付、今酉剋御出門。御包輿ニ而青蓮院宮江被爲成、今晩御宿被遊、明朝從青門主彼御室江御移被爲有候。
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『伏見宮日記』文化十年四月十六日
今日吉辰ニ付(陰陽寮幸コ井近江守勘進ニよつて也)、爲宮御方瑞龍寺御室江御内々御引移被爲在候。・・・・・
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『伏見宮日記』文化十年四月十七日
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文化十年(一八一三)十一月二十四日、伏見殿において深曾木。
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『伏見宮日記』文化十年十一月廿四日
一、爲宮樣・ヘ宮樣御深曾木御祝。・・・・・
但爲宮樣御深曾木之義、昨年可被爲濟候処、御延引。今年被爲在候事故故、万端此御所御賄也。仍今早朝此御殿へ被爲成候也。
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「爲宮」[瑞龍寺門跡]
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文化十三年(一八一六)六月八日、瑞龍寺門跡相續が勅許される。
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『伏見宮日記』文化十三年四月六日
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『伏見宮日記』文化十三年六月八日
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『詰所系圖』「伏見殿」七六頁に、「文化十三年六月八日依願相續被仰出」とある。
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『系圖纂要』「伏見宮」五六六頁「日尊尼」に、「十三年六ノ八瑞龍寺相續 同日入寺得度」とある。
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瑞正文院日尊[瑞龍寺門跡]
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文化十三年(一八一六)六月二十八日、九條第より瑞龍寺へ入寺。即日、得度。法號・法諱を瑞正文院日尊と稱す。
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『伏見宮日記』文化十三年六月廿八日
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『禁裏執次所日記』文化十三年六月廿八日
一、瑞龍寺殿(伏見兵部卿宮姫宮。九條家御猶子)今日御入寺・得度ニ付、如左被為進。・・・・・
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『中宮御所女房日記』文化十三年六月廿八日
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『伏見宮日記』文化十三年八月八日
一、傳奏山科前大納言殿家來山田孝之進参上。瑞龍寺樣御法号被稱何与候哉、内々青士迄承リ合度旨、申居候ニ付、御用掛リ田中大炊頭ゟ瑞龍寺樣御家司安藤正親迄及問合候処、左之通書付差越候ニ付、其趣を以、及返答候也。
爲宮樣御法号
瑞正文院日尊大比丘尼
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文政五年(一八二二)六月十六日、月見の祝儀が行われる。
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天保十三年(一八四二)七月二十三日、濟範親王との密行により伏見宮家より除籍され剃髪の上、瑞龍寺に預けられることとなった幾佐姫(骼q女王)の身柄を引き取り、剃髪させ、以後、死歿に至るまで監督する。
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『東坊城聰長日記』天保十三年五月廿九日
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『東坊城聰長日記』天保十三年六月三日
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『東坊城聰長日記』天保十三年七月廿二日
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『伏見宮日記』天保十三年七月廿二日
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『伏見宮日記』天保十三年七月廿三日
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『瑞龍寺日記』天保十三年七月廿三日
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『東坊城聰長日記』天保十三年七月廿三日
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『伏見宮日記』天保十三年七月廿四日
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嘉永五年(一八五二)五月九日、倫宮(邦家親王の女子)を附弟とすることを内約す。
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『伏見宮日記』嘉永五年五月九日
一、倫宮御方(御三才)瑞龍寺殿御附弟ニ兼々御内々御取置ニ付、過日御双方被仰合、今日依吉辰御内約御祝義為御取替被為在候。
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倫宮を附弟とする内約が解約されたため、安政三年(一八五六)四月十四日、萬佐宮(邦家親王の女子)を附弟とすることを内約す。
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『伏見宮日記』安政三年四月十四日
瑞龍寺殿江御使織部正を以、時節御見舞御口上一通り、且倫宮御方先年御附弟御内約被仰合置候處、無御拠御儀被為在候ニ付、倫宮御方御附弟之儀御断被仰進度。就而者御末女万佐宮御方御附弟ニ被成進候ハゝ、厚忝思召候之段、従大御所様被仰進候處、御直答ニ而何茂御口上之趣委細御承知被遊。猶彼御方より御使を以御返答可被仰進旨被仰候也。
一、瑞龍寺殿御使辻民部を以、時節御口上御相應且過刻御使田中織部正を以被仰進候趣、委細御承知被成。倫宮樣御附弟御断之儀御領掌。万佐宮様御附弟御貰請可被遊、尤今日直様御内約御治定被遊度段被仰進。則大御所様万佐宮様御同座、奧御對面所にて御對面被為在。大御所様ゟ御口祝被下之。幾久敷目出度御内約御治定被仰入候段御返答被仰進。
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文久二年(一八六二)五月十六日、萬佐宮を九條關白尚忠の猶子として附弟とすることが勅許される。
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『伏見宮日記』文久二年二月廿八日
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『伏見宮日記』文久二年三月十二日
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『伏見宮日記』文久二年五月十六日
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明治元年(一八六八)十一月十二日歿。六十二歳。
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『伏見宮日記』明治元年十月九日
御息所様午半頃ゟ御忍御歩行ニて瑞竜寺殿江御成。過日来御違例ニ付為御見舞御成也。入夜戌剋斗還御也。
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『伏見宮日記』明治元年十一月十一日
御息所様、妙栄コ院様御同道、卯剋斗御出門。御忍御歩行ニ而瑞竜寺殿江御立寄、酉剋斗還御也。
御所様、戌剋斗御出門。瑞竜寺殿江御成(御息所様還御掛ヶ御立寄之處、今午剋頃ゟ御容躰殊之外御六ヶ敷被為在候趣ニ付而也)。於彼方醫師等被召御世話被成進。子半剋過還御也。
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『伏見宮日記』明治元年十一月十二日
御所様巳剋御出門ニて瑞龍寺殿被為成。追々御勝不被為在御様子。内実巳剋前遷化云々。戌剋頃還御。
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『伏見宮日記』明治元年十一月十三日
一、左之御方々江書状を以、為御知差出ス。
然ハ瑞龍寺殿先達而ゟ御違例之所、御養生無御叶、昨十二日遷化ニ付、此御方二十日九十日御假服之御事候。此段為御知如此御座候。以上。
十一月十三日
梶井宮 圓照寺宮 山階宮 微妙覚院御方
鷹司殿 九條殿 一條殿 近衛殿
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明治元年(一八六八)十一月十七日、入棺。
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『伏見宮日記』明治元年十一月十七日
今晩瑞龍寺殿御入棺ニ付為御見舞御一同樣より御使内膳を以被仰入候也。
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明治元年(一八六八)十一月二十一日、葬儀。岡崎の善正寺に葬られる。
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『伏見宮日記』明治元年十一月廿一日
一、瑞龍寺殿今晩御葬送ニ付御列外爲御見送河内介(かり衣着)罷越(岡崎善正寺)。
右御所様より。
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日尊女王
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昭和十四年(一九三九)十月五日、「日尊女王墓」が京都府京都市左京區岡崎東福ノ川町に定められる。
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『官報』第三八二七號 昭和十四年十月五日 告示 宮内省告示第二十九號
雅慶王日尊女王日照女王及尊信女王ノ墓左
ノ通定メラル
雅慶王墓
京都府京都市伏見區醍醐川久保町
日尊女王墓
京都府京都市左京區岡崎東福ノ川町
日照女王墓
京都府京都市左京區岡崎東福ノ川町
尊信女王墓
京都府京都市東山區林下町
昭和十四年十月五日
宮内大臣 松平 恒雄
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