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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[美年子]
 
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美年子女王 みねこ
 のち立花美年子 たちばな みねこ
 
【出自】
 
成久王[北白川宮]の一女。
 
【母】
 房子内親王 ふさこ
 成久王妃
 のち北白川房子
 明治天皇の七女。
 
【經歴】
明治四十四年(一九一一)五月六日生。
『法令全書』明治四十四年五月 告示 「宮内省告示第九號」
五月六日午後十一時五十分成久王妃殿下分娩王女子誕生セラル
    明治四十四年五月六日             宮内大臣 伯爵渡邊千秋
美年子女王
明治四十四年(一九一一)五月十二日命名。
『法令全書』明治四十四年五月 告示 「宮内省告示第十號」
五月六日午後十一時五十分誕生セラレタル成久王殿下ノ王女子名ヲ美年ミネ子ト命セラル
    明治四十四年五月十二日            宮内大臣 伯爵渡邊千秋
立花美年子
昭和八年(一九三三)一月十七日、立花種勝に降嫁
『法令全書』昭和八年一月 告示 「宮内省告示第四號(官報 一月十八日)」
本日美年子女王殿下從三位勲三等子爵立花
種忠嗣子從五位立花種勝ニ嫁セラル
 昭和八年一月十七日
        宮内大臣 一木喜コカ
『高松宮日記』昭和八年一月七日
「本日、みね樣【美年子女王】御ゆいのふ。あや樣【禮子女王】御申込。
『高松宮日記』昭和八年一月八日
六時より北白川宮晩餐。みね樣【美年子女王】のおわかれなり。成年以上の皇族方にて、禮樣【禮子女王】などいらせられず。變に感ず。いつもと事變りて。
『牧野伸顯日記』昭和八年一月九日
北白川宮午餐に陪席。美年宮樣御婚儀に付御分れの御宴なり。・・・・・
『木戸幸一日記』昭和八年一月十日
正午、北白川宮邸に參入。美年子女王御降嫁につき午餐を賜る。
『高松宮日記』昭和八年一月十七日上欄【※宣仁親王、聯合艦隊演習中】
 十時佐伯入港。今日は美年樣【美年子女王】の御結婚式の日なり。東京も雨かしら。
 まだ私達はこの日を祝ふ心よりさびしい氣の方が先きになる。九條公爵【道實】の重態の結果如何。この二つの相關するところ如何。
『高松宮日記』昭和八年五月二十三日
夕食。立花樣【種勝・美年子】お二人をお招きして、私は御結婚后初めてお目にかゝる。みね樣とても御けんそんにて、御あいさつなど丁重をきはむとの噂なりしも、今までと大して變つたことなく愉快にお話す。
昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族の身位を喪失する。
昭和四十五年(一九七〇)四月十日、死去。
 
【配偶】
 立花種勝 たちばな たねかつ
 立花種忠(たちばな たねただ)[三池][子爵]の一男。
 明治三十八年(一九〇五)九月十二日生。
 昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族(子爵嗣子)の身位を喪失する。
 霞會館常務理事
 昭和五十九年(一九八四)六月八日、死去。
 
【子女】
 立花美和子 のち廣瀬美和子
 昭和九年(一九三四)**月*日生。
 廣瀬俊樹の妻。
 立花種則 たちばな たねのり
 昭和十一年(一九三六)**月*日生。
 古河テクノマテリアル勤務。
 立花勝秀 たちばな かつひで
 昭和二十三年(一九四八)*月**日生。
 
【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成 下巻』 四九〜五〇頁
昭和新修 華族家系大成 下巻』 四六〜四七頁


 
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更新日時: 2008.08.29.
公開日時: 2006.01.02.


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