房世王 / 平房世


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[房世]

フレームなし


房世王
 
 のち平朝臣房世
 
【出自】
 
仲野親王の男子。
 桓武天皇の二世孫王。
『日本三代實録』貞觀九年正月十七日戊午
二品仲野親王薨。・・・・・ 有男十四人、女十五人。茂世、輔世、季世、秀世、房世、當世、基世、潔世、實世、十世、在世、康世十二人【原作「茂世、當世、基世、輔世、潔世、實世、十世、在世、康世十人」】爵爲四位。・・・・・
 
【經歴】
房世王
承和十三年(八四六)正月七日、從四位下に敍される。
『續日本後紀』承和十三年正月己酉
詔授 ・・・・・ 无位房世王從四位下。
治部大輔となる。
承和十四年(八四七)十二月十九日、右大臣橘氏公の喪事を監護する。時に從四位下行治部大輔。
『續日本後紀』承和十四年十二月庚戌
右大臣從二位橘朝臣氏公薨。遺中使於第、詔贈從一位。遣參議從四位上行式部大輔兼勘解由長官滋野朝臣貞主、從四位下行治部大輔房世王等監護喪事。・・・・・
承和十五年(八四八)二月十四日、宮内大輔となる。
『續日本後紀』嘉祥元年二月甲辰
[以]從四位下房世王爲宮内大輔。
嘉祥三年(八五〇)三月十四日、柏原山陵使となる。時に從四位下行宮内大輔。
『續日本後紀』嘉祥三年三月壬辰
卜食、申柏原山陵告祟。仍遣使奉宣命曰。 天皇大命[止]掛畏柏原御陵申賜倍止頃間物恠在、卜求礼波、掛畏御陵爲祟賜倍利止。因茲、恐畏己止無極、若久波御陵内犯穢世留毛也命【令】巡察无止天奈毛、參議從四位上行左兵衛督藤原朝臣助、從四位下行宮内大輔房世王等差使奉出。此状聞食、御體平安、寳祚無動、護賜矜賜倍止[恐]恐美毛申賜久止申。
嘉祥三年(八五〇)十月五日、賀瑞を奉告するために、嵯峨山陵へ遣わされる。時に從四位下宮内大輔。
『日本文コ天皇實録』嘉祥三年十月己酉
遣 ・・・・・ 中納言正三位安倍朝臣安仁、從四位下宮内大輔房世王向嵯峨山陵。・・・・・ 告以賀瑞之由。策文曰。・・・・・
嘉祥三年(八五〇)十一月三十日、惟仁親王の立太子を奉告するために、嵯峨山陵へ遣わされる。時に從四位下宮内大輔。
『日本文コ天皇實録』嘉祥三年十一月癸卯
遣中納言正三位安倍朝臣安仁、宮内大輔從四位下房世王等向嵯峨山陵。・・・・・
嘉祥四年(八五一)四月一日、次侍從に補される。
『日本文コ天皇實録』仁壽元年四月癸卯朔
從四位下道野王、房世王、正躬王、貞内王、雄風王、高叡王、伴宿禰成u、正五位上藤原朝臣良仁、正五位下藤原朝臣高房、從五位上平朝臣春香、藤原朝臣並藤、豊階公安人、從五位下小野朝臣千株、百濟王永仁、文室眞人有眞、善友朝臣豊宗、高橋朝臣安雄、坂上大宿祢貞守、藤原朝臣冬緒、橘朝臣常蔭、橘朝臣茂房、藤原朝臣三藤、清原朝臣【眞人】C海、南淵朝臣年名等並爲次侍從。
仁壽二年(八五二)二月十五日、中務大輔となる。
『日本文コ天皇實録』仁壽二年二月壬子
從四位下房世王爲中務大輔。
天安二年(八五八)二月五日、武藏權守となる。
『日本文コ天皇實録』天安二年二月戊辰
從四位下房世王爲武藏權守。
天安二年(八五八)三月八日、越中權守となる。
『日本文コ天皇實録』天安二年三月己巳
從四位下房世王爲越中權守。
天安二年(八五八)八月二十七日、文コ天皇が崩御し、送葬諸司の養役夫司を勤仕。時に從四位下行越中權守。
『日本三代實録』天安二年八月廿七日乙卯
文コ天皇崩於冷然院新成殿。・・・・・ 公卿於藏人所定縁葬諸司。・・・・・ 從四位下行越中權守房世王、從五位上守宮内大輔橘朝臣貞雄、大炊頭外從五位下丸子連家繼、六位已下二人爲養役夫司。・・・・・
天安二年(八五八)十一月一日、C和天皇即位由奉幣の使王を勤仕。時に從四位下行越中[權]守。
『日本三代實録』天安二年十一月戊午朔
遣從四位下行越中[權]守房世王、内藏頭從五位上兼行~祇大副中臣朝臣逸志等於伊勢太~宮。告以 天皇將即位也。
貞觀二年(八六〇)閏十月二十五日、同子内親王の装束・山作等司の装束司長官を勤仕(喪家は辭退して受けず)。時に從四位下行越中權守。
『日本三代實録』貞觀二年閏十月廿五日辛未
是日任同子内親王裝束山作等司。從四位下行越中權守房世王爲裝束司長官、治部少輔從五位下安倍朝臣房上爲次官、判官二人、主典二人。散位從五位下廣山王爲山作司長官、從五位下藤原朝臣大野爲次官、判官二人、主典二人。喪家辭而不受。
貞觀三年(八六一)正月十三日、越前權守となる。
『日本三代實録』貞觀三年正月十三日戊子
從四位下行越中[權]守房世王爲越前權守。
貞觀四年(八六二)正月七日、從四位上に昇敍。
『日本三代實録』貞觀四年正月七日丙子
[授]從四位下行越前權守房世王從四位上。
平朝臣房世
貞觀五年(八六三)八月八日、平朝臣を賜姓される。
『日本三代實録』貞觀五年八月八日戊辰
散位従四位上房世王上表言。「風和日暖、則微禽猶弄其音。世靜時平、則小人自申其志。房世、立性頑疎、無分所採。幸沾天潢之餘潤、早預紫紱之顯榮、毎至公私行列之時、高加諸臣之上、未嘗不赧然怛怍、内疚于心。既耻一身不才塵點宗室。况復子孫無u損費帑藏。是以尚謙之慮、已兆於曩時、賜姓之言、乃發於今日。但嫌自愚心賜新造姓名、望請追同近族作平朝臣姓、即取得平之義、將爲貽厥之謀」。 詔許之。
貞觀六年(八六四)三月八日、彈正大弼となる。
『日本三代實録』貞觀六年三月八日甲午
[以]散位從四位上平朝臣房世爲彈正大弼。
貞觀七年(八六五)正月二十七日、河内權守となる。
『日本三代實録』貞觀七年正月廿七日己酉
[以]從四位上行彈正大弼平朝臣房世爲河内權守。
貞觀九年(八六七)正月十二日、河内權守から河内守に轉じる。
『日本三代實録』貞觀九年正月十二日癸丑
[以]從四位上行河内權守平朝臣房世爲正守。
攝津守となる。
貞觀十九年(八七七)正月三日、陽成天皇即位敍位において正四位下に昇敍。
『日本三代實録』元慶元年正月三日乙亥
[授]從四位上行攝津守平朝臣房世正四位下。
元慶六年(八八二)七月二十八日、參上しなかった右相撲司の雅望王らに替り、その闕を補う。時に散位正四位下。
『日本三代實録』元慶六年七月廿八日戊辰
右相撲司從四位下雅望王、正四位下源朝臣直、從五位下【上】藤原朝臣敏行並謝病不上。以散位從四位上實行王、正四位下平朝臣房世、侍從從五位上藤原朝臣佐名補其闕。
元慶七年(八八三)八月二十一日、卒去。時に正四位下行因幡守。
『日本三代實録』元慶七年八月廿一日甲寅
正四位下行因幡守平朝臣房世王卒。
 
【子女】
 □ (『日本三代實録』貞觀五年八月八日戊辰
 
【文獻】
稿本桓武天皇實録』四一六〜四一九頁「皇孫房世王」


 
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公開日時: 2021.09.01.

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