源登 / 貞登


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[登]

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 のぼる
 
 貞朝臣登 さだの あそん のぼる
 
 もと源朝臣[登]
   
深寂
 
【出自】
 仁明天皇の男子。
『尊卑分脈』仁明天皇の子
〔賜貞朝臣姓【脇本・前本・閣本】
源 登【源:脇本・前本・閣本無】
【脇本・前本・閣本無】
少外記平田家本『本朝皇胤紹運録』仁明天皇の子
 
  サタナリ
├──貞 登□□

 
【母】
 三國氏
 仁明天皇の更衣
『日本三代實録』貞觀八年三月二日戊寅
深寂是仁明天皇更衣三國氏所生也。
『古今和歌集目録』庶女「三國町」に、『古今集』歌人「三國町」は貞登の母とあるが、誤りであろう。
『古今和歌集目録』庶女「三國町」
正四位下紀名虎女。仁明天皇更衣。貞登母。登者仁明天皇第十五子也。
 
【經歴】
*源朝臣登
承和二年(八三五)四月二日、源朝臣を賜姓される。
『日本三代實録』貞觀八年三月二日戊寅
承和之初、賜姓源朝臣。
『續日本後紀』承和二年四月丙子
勅曰。「象著損上、礼存寧儉、王者則之、古今合契。朕雖菲昧、跂予思齊、去泰就約、夙關情慮。如今所有朕之兒息、除親王之號、賜朝臣之姓。先太上天皇【嵯峨天皇】丕恩罔極、玄澤更加、不令別姓、被以源氏、使与曾枝而同蔭、共濬派而混流。其前号親王、仍舊不改。同母後産、猶復一例等制。准弘仁五年、天長九年兩度勅書、″崇外咸俾聞知」。
稿本仁明天皇實録』「皇子登」三四八頁〔按〕
三代實録ノ記事ニ依レバ、貞朝臣登ノ姓名ハ貞觀八年改メテ賜ハル所、母ノ過ニ依リテ屬籍ヲ削ラレシ以前、即チ源朝臣タリシ時代ニ、名ヲ登ト稱セシヤ否ヤハ知ルベカラザルモ今姑ク其名ニ從フ、
深寂
生母の過失により源朝臣を削られ、出家入道。
『日本三代實録』貞觀八年三月二日戊寅
嘉祥(八四八〜八五一)末年、時服月料にあずかる。
『日本三代實録』貞觀八年三月二日戊寅
嘉祥三年(八五一)、父 仁明天皇が不豫の間、兄弟 時康親王(後の光孝天皇)らと共に近侍して看病した。仁明天皇の崩御(嘉祥三年三月二十一日)時、出家の身であったため、遺産處分にあずからなかった。
『日本三代實録』貞觀八年三月二日戊寅
その後、還俗し、複数の子を儲けたが、身位は僧のままであり、出仕の道も絶たれ、沈淪。
『日本三代實録』貞觀八年三月二日戊寅
貞觀五年(八六三)九月二十日、兄弟 時康親王(後の光孝天皇)、本康親王、源朝臣多、源朝臣冷、源朝臣光が上奏して、深寂への貞朝臣登の賜氏姓名、敍位、京職への戸籍貫附を請願。
『日本三代實録』貞觀八年三月二日戊寅
貞朝臣登
貞觀八年(八六六)三月二日、貞朝臣を賜姓され、正六位上に敍され、右京一條に貫附される。諸子も同時に賜姓されたと考えられる。
『日本三代實録』貞觀八年三月二日戊寅
是日、 勅、沙弥深寂賜姓貞朝臣名登、叙正六位上、貫右京一條【『古今和歌集目録』所引『國史』作「四條」】一坊。先是、貞觀五年九月廿日、三品行中務卿諱(光孝天皇)、四品兵部卿兼行上總太守本康親王、參議正四位下行左兵衛督源朝臣多、從四位上行伊勢守源朝臣冷、散位從四位上源朝臣光等奏言。「深寂是仁明天皇更衣三國氏所生也。承和之初、賜姓源朝臣、預時服月俸【『古今和歌集目録』所引『國史』作「䉼」】。厥後依母過失、被削屬籍、仍出家入道。嘉祥之末、更垂優矜、同於法榮、尋道之列【「列」或當作「例」】、預時服月䉼。聖躬【仁明天皇】不豫之間、与諱【時康親王】等共侍嘗藥。登遐之時、縁身出家、不預處分。今善縁不遂、再落俗塵、所生之子、隨亦有數。而名猶編僧、身未有貫、出仕之理既絶、沈淪之悲良深。夫爲子之道、緇素无別。出家之時、既列皇子。還俗之日、何爲非兒。然則准之人間、&恂{姓。但伏聞、嵯峨遺旨、母氏有過者、其子不得爲源氏。望請。賜姓名貞朝臣登、叙位階、貫京職」。至是 詔許之。
『日本三代實録』仁和二年【八八六】十月十三日戊午
 勅。無姓者其名C實、賜姓滋水朝臣、貫右京一條。先是、二品行式部卿本康親王、右大臣從二位兼行左近衛大將源朝臣多、參議正四位下[行]右兵衛督兼伊豫權守源朝臣冷、參議正四位下[行]左兵衛督源朝臣光等、詣闕上表曰。「C實、依身有過、被削屬籍、經歴十年。天地不容、日月不照、率土之濱、獨無所庇。由是、前日奏聞准貞朝臣登之例可賜別姓之状。堯心有宥、忠仁及辜、恩 詔優容、抃躍難測。伏望被賜此姓」。許之。登是仁明天皇之子、母三國氏也。C實、 今上皇子、母布勢氏。以過被削籍也。
『一代要記』乙集「仁明天皇」皇子「登」
母三國氏。承和之初、賜源朝臣。後依母過、被削屬籍、仍出家、爲沙彌、名深寂。貞觀八年二月依母家奏、賜貞氏、以還俗也。正五位下。或曰。貞觀五年九月二十八日、兄弟親王源氏上奏、同八年三月二日勅賜姓朝臣、名登、敍正六位上、貫右京一條一坊云云。
貞觀九年(八六七)正月七日、正六位上から從五位下に昇敍。
『日本三代實録』貞觀九年正月七日戊申
[授]正六位上源朝臣建、貞朝臣登 ・・・・・ 等並從五位下。
貞觀十四年(八七二)二月、土佐守となる。
『古今和歌集目録』諸王「貞朝臣登一首
貞觀十五年(八七三)二月、大和權守となる。
『古今和歌集目録』諸王「貞朝臣登一首
貞觀十九年(八七七)正月三日、陽成天皇即位敍位において、從五位下から從五位上に昇敍。
『日本三代實録』元慶元年正月三日乙亥
[授]從五位下 ・・・・・ 貞朝臣登 ・・・・・ 等並從五位上。
元慶九年(八八五)正月十六日、備中守となる。
『日本三代實録』仁和元年正月十六日壬申
[以]散位從五位上貞朝臣登爲備中守。
寛平四年(八九二)二月十一日。越中介となる。
『古今和歌集目録』諸王「貞朝臣登一首
寛平五年(八九三)正月十一日、紀伊權守となる。
『古今和歌集目録』諸王「貞朝臣登一首
寛平六年(八九四)正月七日、正五位下に昇敍。
『古今和歌集目録』諸王「貞朝臣登一首
仁明天皇十五子。母更衣三國氏。貞觀九年正月七日從五位下。十四年二月土佐守。十五年二月大和權守。十九年正月七日從五位上。元慶九年正月備中守。寛平四年二月越中介。五年正月紀伊權守。六年正月七日正五位下。
 
【詠歌】
『古今和歌集』卷第十五「戀名」五(第七六九歌)[題しらず]
                    さだののぼる(【傍注】貞朝臣登 備中守 仁明御子)
一人のみ ながめふるやの つまなれば 人を忍ぶの 草ぞおひける
 
【子女】
貞朝臣を賜姓される前、複数の子があった。
『日本三代實録』貞觀八年三月二日戊寅
 
工事中 【貞朝臣の氏人】
 平朝臣惟仲の母
 備中國河郡【阿賀郡】の郡司の女子。
 平朝臣珍材の妻。
『公卿補任』正暦三年【九九二】 參議 正四位下「平惟仲(四十九)」袖書
贈從三位從四位上美作介珍材一男。母備中國河郡司女(貞氏)。或云讃岐國云々。
貞朝臣登が備中守となって備中國へ下向した際に同行した男子で河郡司の婿となった者の子孫か、または、貞朝臣登が河郡司の女子との間に儲けた男子の子孫か。
なお、平朝臣惟仲の母は、『古事談』によると、備後國品治郡司の女子(但し、美作から上京する路次に備後國品治郡に寄宿したというのは地理的に合致しない)。また、『公卿補任』の一説と『江談抄』によると、讃岐國の人(但し、平珍材が讃岐介になったことを傍証する史料はない)。
『古事談』六「亭宅諸道」
珍材朝臣從美作上道之路、寄宿備後國品治ノ郡、召郡司女令打腰之間、懷孕畢。後其兒至七歳之時、郡司相具前立之、參珍材之許、述子細。珍材思出件事、涕泣。珍材者極相人也。仍見此兒、「可至二位中納言之相アリ」ト云テ養育。果如父之相云々。鰯ノ數ヲカソヘサセテ令知始物數云々。件郡司死去之後、恆依憐愍、敦舒家中ニ給曹子養立云々。仍其家ニ資任等ハ尤親也。
『江談抄』二 雜事「平家自往昔爲相人事」
又平家自往昔累代傳相人之事。又惟仲中納言、其母讃岐國人也。珍材爲讃岐介之時所生子也。而去任之後尋來。珍材召入、相之云。「汝必至大納言歟。但依貪心頗有其妨。可愼之也」云々。後果至中納言太宰帥。件時宇佐宮第三寶殿付封之。依件事被停任之。是往年先親所傳語也云々。
 貞朝臣時リ
 正六位上に敍される。
 平安後期の某年正月除目において、近江權大掾として當年内給を賜わる。
『江次第』三「正月」丁「除目初夜」
除目(雜々事見他家記。 仍不記之)
・・・・・
次任内給當年給(掾二人、目三人也)
近江
 權大掾正六位上貞朝臣時リ(當年内給)
 貞松種
 作名の架空人物。氏姓は貞朝臣であろう。
 明應六年(一四九七)三月二十六日、出雲權大掾に任じられる。
『親長卿記』明應六年四月十三日
今度除目聞書、自外記許送中納言云々。仍借請寫了。
・・・・・
出雲權大掾貞松種(權中納言藤原朝臣當年給)
・・・・・
 明應六年三月廿六日
 貞久俊
 作名の架空人物。氏姓は貞朝臣であろう。
 明應六年(一四九七)三月二十六日、安藝權目に任じられる。
『親長卿記』明應六年四月十三日
今度除目聞書、自外記許送中納言云々。仍借請寫了。
・・・・・
安藝權目貞久俊 (大舍人散位)
・・・・・
 明應六年三月廿六日
 
【文獻等】
『大日本史料』第一篇之一、一三四〜一三五頁、寛平六年正月七日
稿本仁明天皇實録』三四七〜三四八頁「皇子登」


 
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公開日時: 2021.09.19.

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