源登 / 貞登
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『尊卑分脈』仁明天皇の子
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少外記平田家本『本朝皇胤紹運録』仁明天皇の子
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仁明天皇の更衣
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*源朝臣登 | ||||||||||
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承和二年(八三五)四月二日、源朝臣を賜姓される。
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深寂 | ||||||||||
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生母の過失により源朝臣を削られ、出家入道。
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嘉祥(八四八〜八五一)末年、時服月料にあずかる。
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嘉祥三年(八五一)、父 仁明天皇が不豫の間、兄弟 時康親王(後の光孝天皇)らと共に近侍して看病した。仁明天皇の崩御(嘉祥三年三月二十一日)時、出家の身であったため、遺産處分にあずからなかった。
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その後、還俗し、複数の子を儲けたが、身位は僧のままであり、出仕の道も絶たれ、沈淪。
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貞觀五年(
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貞朝臣登 | ||||||||||
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貞觀八年(
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貞觀九年(八六七)正月七日、正六位上から從五位下に昇敍。
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貞觀十四年(八七二)二月、土佐守となる。
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貞觀十五年(八七三)二月、大和權守となる。
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貞觀十九年(八七七)正月三日、陽成天皇即位敍位において、從五位下から從五位上に昇敍。
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元慶九年(八八五)正月十六日、備中守となる。
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寛平四年(八九二)二月十一日。越中介となる。
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寛平五年(八九三)正月十一日、紀伊權守となる。
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寛平六年(八九四)正月七日、正五位下に昇敍。
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『古今和歌集』卷第十五「戀名」五(第七六九歌)[題しらず]
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貞朝臣を賜姓される前、複数の子があった。
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備中國河郡【阿賀郡か】の郡司の女子。 平朝臣珍材の妻。
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正六位上に敍される。 平安後期の某年正月除目において、近江權大掾として當年内給を賜わる。
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作名の架空人物。氏姓は貞朝臣であろう。 明應六年(一四九七)三月二十六日、出雲權大掾に任じられる。
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作名の架空人物。氏姓は貞朝臣であろう。 明應六年(一四九七)三月二十六日、安藝權目に任じられる。
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『大日本史料』第一篇之一、一三四〜一三五頁、寛平六年正月七日 |
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『稿本仁明天皇實録』三四七〜三四八頁「皇子登」 |
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