徳信院 直子女王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[東明]

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東明宮」 とめのみや
 
直子女王 つねこ
 のちコ川直子
 源朝臣慶壽[徳川(一橋)]の室
 
【稱號】
 「コ信院
 
【出自】
 貞敬親王[伏見殿]の[十六]女。
 
【生母】
 「梅操院」
 家女房
 合田愛子
 
【經歴】
文政十三年(一八三〇)九月十七日生。
天保十年(一八三九)八月七日、源朝臣慶壽[徳川(一橋)]と婚約。
『系圖纂要』伏見宮、五七四頁に、「天保十年八ノ七縁約」とある。
天保十二年(一八四一)十月十三日、關東に發輿。
『伏見宮日記(東明宮關東御下向別記)』天保十二年十月十三日
少外記平田家記録 K61-85 『平田家日次記』天保十二年十月二十日
一、當月十三日伏見故兵部卿宮御息女【東明宮】關東一橋殿御入輿云々。當年八歳爲成給姫君云々
天保十二年(一八四一)十一月三日、江戸城に到着する。
『伏見宮日記(東明宮關東御下向別記)』天保十二年十一月三日
天保十二年(一八四一)十一月九日、源朝臣慶壽[徳川(一橋)]と結納。
『伏見宮日記(東明宮關東御下向別記)』天保十二年十一月九日
天保十二年(一八四一)十二月二日、源朝臣慶壽[徳川(一橋)]と結婚。
『伏見宮日記』天保十二年十二月十一日
『系圖纂要』伏見宮、五七四頁に、「十二ノ一入輿」とある。
弘化四年(一八四七)五月七日、薙髪。號「徳信院」。
明治二十六年(一八九三)一月三日沒。六十三歳。
 
【逸事等】
直子と一橋家との縁談は、喬子女王(源朝臣家慶[徳川]御臺所)の「御世話」によるものであった。
『伏見宮日記(東明宮御縁組日記)』天保十年八月十日
『伏見宮日記(東明宮御縁組日記)』天保十年八月廿二日

 
【文獻等】
『皇室制度史料 皇族一』三六二〜三六三頁
『系圖纂要』伏見宮、五七四頁
平成新修 旧華族家系大成 下巻』一六四頁

『詰所系圖』伏見殿には不見。


 
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公開日時: 2012.08.16.

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