稙田宮


前頁 「 直 [直明]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[稙田]

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稙田宮」 ワサタノミヤ
「稙田宮」の稱號は、豐後國大分郡稙田庄に由來すると考えられる。
源朝臣宗治と同一人である可能性があるか。御薗生翁甫『大内氏史研究』二八五頁は「宮三位中將宗治の弟」とする。
御薗生翁甫『大内氏史研究』二八五頁は「植田宮(わさだのみや)」と作し、「伊倉宮」 とも稱したとする。
 「
鎭西宮
 
【出自】
 眞覺[早田宮僧正]の男子。
 宗尊親王の孫。
 後嵯峨院の曾孫。
 
【經歴】
南朝側に立ち、天授三年/永和三年(一三七七)八月十二日、菊池一族と共に肥後國臼間白木原(臼間野大水關)で今川貞世・大内義弘らと戰い、敗北して自殺。
『後愚昧記』永和三年九月一日
傳聞。『去月十二日鎭西合戰、南方宮自殺、菊地【菊池】被打取了。仍鎭西當方悉一統了』之由、一昨日飛脚到來云々。是大内介【弘世】子息【義弘】所成功也云々。後聞(大内代官平井説)。鎭西宮ハ非大樹宮【後征西將軍宮】。稙田ワサタ宮(故宮僧正【眞覺】子)并菊地一族以下魁帥百人許討取云々。
 
【備考】
御薗生翁甫『大内氏史研究』(山口県地方史学会・大内氏史刊行会、昭和三十四年(一九五九)十月)二八五〜二八六頁に、
 ・・・・・ 天授三年正月十三日国府付近の千布(【振假名】ちふ)・蜷打(【振假名】になうち)において大激戦が始まり、貞世【今川貞世】大いに官軍を敗って、菊池武義入道自関・肥前守武安及び阿蘇惟武等が打死した。大内・大友・今川連合軍の大勝によって、形勢また逆転し、武朝【菊池武朝】は良成親王を奉じて、再び肥後に退却するの已むなきに立至ったのである。(菊池武朝申状・後愚昧記・葉室親善申状
 ここに、今川貞世・仲秋等は戦勝の余勢を以て南進し、五月遂に、肥後に侵入し、山鹿郡志々木原に陣し、菊池に迫ろうとした。武興(賀々丸当時元服して武興といい、後武朝と改めた)また、軍を進めて貞世と戦って大いにこれを敗り、北ぐるを追うて、国境大津山関付近に至り、ここに滞陣した。八月貞世は再び、弟仲秋・大内義弘兄弟・毛利元春・田原氏能・松浦堅・同政等の大軍を率いて来り、十二日両軍玉名の臼間白木原に戦い、大内義弘・満弘・毛利元春等の軍大いに奮闘して官軍遂に、利を失い、故宮僧正の男植田宮(【振假名】わさだのみや)は自刃し給い、菊池の一族以下百余人戦死し、今川軍もまた、多くの死傷者を生じた。蜷打戦に次ぎての激戦であった。
 大内氏実録には、南山巡狩録に従って、正月十三日蜷打戦を否定して、八月十二日とし、正月役の戦死者たる菊池武吉・武安を以て、八月役の戦死者としたのは誤りである。また、植田宮が白木原の戦に戦死せられたことは、後愚昧記の所見左の通りである。
九月一日伝聞。去月十二日鎮西合戦。南方宮自殺。菊池被打取了。鎮西当方悉一統了之由。一昨日飛脚到来云々。是大内介子息所功也云々。後聞。大内代官平井説。鎮西宮非大将宮。植田宮。故宮僧正子。並菊池一族以下魁帥百人許討取訖云々。
 植田宮は宮三位中將宗治の弟で伊倉宮とも申す方である。植田宮というは父宮兵部卿が豊後国植田荘の地頭職であらせられた故である。また、伊倉宮と申すは菊池の伊倉に居城せられたるに因るのである。
とある。
松岡久人『大内義弘』(中世武士選書 第14巻)(東京、戎光祥出版社、二〇一三年一月。初刊、人物往来社(日本の武将シリーズ20)、昭和四十一年(一九六六)十月)73頁に、
千布・蜷打の戦いに勝利をおさめた貞世は、三月に南軍を追って筑後に入り、五月に肥後に進んで山鹿・志々木原に陣し、ついで八月十二日に菊池軍と玉名郡の臼間野と白木原の間で戦い、大いにこれを破った。大内義弘はこの戦いに中国・九州の将士とともに参戦したが、義弘軍の奮闘は特にめざましく、そのため菊池軍は打ち破られ、稙田宮は命を落とされるという有様であった。この勝報は八月の末のころ京都に届いたが、それには大内義弘が勝利の立役者であったことが書き添えられてあった。
とある。


 
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更新日時: 2013.09.13.
公開日時: 2008.01.25.

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