伊倉宮


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[伊倉]

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伊倉宮
 
 『豐後入江文書』應安八年二月日付「田原下野權守氏能軍忠状」に見える。
 
【出自】
 未詳。
 下記「
伊倉宮の出自をめぐる諸説」を見よ。
 
【經歴】
肥後國玉名郡伊倉荘に據ったため「伊倉宮」と稱されたと考えられている。
下記「伊倉宮の出自をめぐる諸説」を見よ。
建コ二年(應安四年/一三七一)八月六日、菊池武光と共に、田原氏能の豐後國大分郡高崎城を攻撃。翌年正月二日まで百餘度にわたり合戰するが、勝利を收めることができず、正月三日、高崎の陣を退散し、太宰府に引き揚げる。
『豐後入江文書』應安八年二月日付「田原下野權守氏能軍忠状」
『南北朝遺文』九州編 第五卷(昭和六十三年(一九八八)九月、東京堂出版)、一二八(一七一〇)頁上〜一三〇(一七一二)頁下、第五一七一號文書
『玉名市史』資料篇5 古文書(玉名市史編集委員会 編集、玉名市 発行・著作、平成五年(一九九三)三月)65頁上〜66頁上、第一二九號文書「田原氏能軍忠状 ○入江文書
 田原下野權守氏能申所々軍忠事。
一、去應安四年六月廿六日、致治部少輔殿【今川義範】御共、自備後國尾路津【尾道。御調郡】令乘船。同七月二日夜、最前取上豐後國高崎城【大分郡】之處、菊池武光之若黨平賀新左衞門尉構要害於氏能分領國東郷【國崎郡】之間、同廿三日夜、差遣手物等、追落彼城、平賀彦次カ以下凶徒三人討捕之條、禮部【今川義範】御見知之上者、不可有御不審者哉。同八月六日、伊倉宮菊池武光以下凶徒等寄來當城之間、踏一方役所(中尾)、迄于翌年正月二日、百餘度合戰。毎度親類若黨以下數輩被疵、勵日夜軍忠、至于今。殘置親類手物等當城、抽隨分至功之次第、大將御見知之上者、不能巨細言上者也。
一、同三日、武光以下凶徒退散高崎陣、打上太宰府【筑前國御笠郡】之間、同三月廿六日、馳參筑前國高宮御陣【那珂郡】。同四月八日、宰府御進發之時、令御共於佐野御陣【御笠郡】、致忠節畢。
一、・・・・・
・・・・・
以前軍忠之次第、且預京都御注進、且賜御證判。爲備後代龜鏡、粗言上如件。
    應安八年二月  日
         「承了(花押)【今川貞世(了俊)】」
『玉名市史』通史篇 上巻、第四編「中世」第二章「南北朝の内乱と玉名」第一節「南北朝の内乱」(執筆、柳田快泉)二「玉名地方の内乱と国人の動向」265頁下〜266頁上
 彼【今川了俊】は、征西府の本拠地大宰府および博多を攻略するにあたり、三方から攻撃する戦略をとった。すなわち、子息義範を豊後に派遣して大友氏とともに菊池氏の背後をつかせ、弟仲秋を肥前に遣わして松浦党と結んで西方から攻めさせ、自らは豊前から進入して中央から攻撃しようと企てたのであった。
 これに対して、菊池武光の嫡子二郎武政は「伊倉宮」を奉じて豊後高崎城を攻撃し、機先を制しようとした。だが、了俊の攻略の前に、文中元年(応安五年・一三七二)八月一二日、大宰府を占領され、懐良親王・菊池武光らは高良こうら山(現久留米市)への退却を余儀なくされた。こうして一二年間にわたる征西府の全盛時代は終わりを告げた。
 
【伊倉宮の出自をめぐる諸説】
藤田明編著『征西将軍宮』(熊本縣教育會藏版。東京市日本橋區本石町、東京寳文館、大正四年(一九一五)六月。復刻版、東京都千代田区神田神保町、文献出版、昭和五十一年(一九七六)三月)には、「詳かならず懷良親王の王子にもやあらむ」とある。
御薗生翁甫『大内氏史研究』(山口県地方史学会・大内氏史刊行会、昭和三十四年(一九五九)十月二八五〜二八六頁に、
 植田宮は宮三位中将宗治の弟で伊倉宮とも申す方である。植田宮というは父宮兵部卿が豊後国植田荘の地頭職であらせられた故である。また、伊倉宮と申すは菊池の伊倉に居城せられたるに因るのである。
とあり、「植田宮」即ち「稙田宮」に比定される。
『玉名市史』通史篇 上巻、第四編「中世」第三章「室町期の玉名と町・寺社の形成」第四節「伊倉の町と寺社の展開」(執筆、森山恒雄)一「伊倉の津と寺院の招来」348頁下〜349頁下「伊倉宮の問題」に、
 この「伊倉宮」が誰れであるかについて、植田均『純忠菊池史乗』は、「後愚昧記」の記事を引用しながら「稙田宮は宮三位中將中村宗治の弟で伊倉宮とも申す。稙田宮と云うのは父宮兵部卿(早稲田宮僧正)が豊後国稙田荘の地頭職であらせられたからで伊倉宮と云うのは菊池の伊倉に居城せられたからである」と述べて、菊池伊倉説をとっている。これに対し中川斎の『伊倉町誌』では、鎌倉将軍宗尊親王から直覚─宗治、弟宮に至る系図を挙げて説明されている。系図は、次のとおりである。
  直覚 号早稲田宮僧正
     豊後国早稲田庄内満吉名地頭職───┐
     円満院権僧正           │
  ┌───────────────────┘
  │   稙田宮(早稲田宮)
  ├宗治 従三位中将
  │   後醍醐天皇猶子・興国六年薨(二七才)
  │
  └弟宮 (早稲田宮)

右の系図に従って中川説は、応安四年(一三七一)の高崎山合戦で菊池武光が擁立した「伊倉宮」は、兄宗治親王の死亡時からして、弟宮である。しかし宗治親王は親王の行動から在肥年間はわずか八ヵ年で、しかも晩年は菊池の本城には不在であるので「伊倉宮」は当伊倉に所在されたが、死亡されたのちは弟宮がつがれ早稲田宮になられたという趣旨で記されている。
 この中川説に対して最近田邉哲夫は「伊倉の歴史(上)」(『歴史玉名』一四号)で、永和三年八月一二日の戦である白木原の戦いは玉名郡南関であること、このとき死亡(自殺)されたのは弟宮であることは間違いないが、兄宗治(従三位中将)(二七歳死亡)と弟宮との年令差が距りすぎるという点から、応安四年(一三七一)にみえる「伊倉宮」は弟宮ではないか、兄宗治の宮様も伊倉にいられた可能性はあるという趣旨を述べられるとともに、伊倉津の所在と錦御旗の旗竿が伊倉南八幡宮にあることもその傍証であるという趣旨を挙げられて中川説を補足されている。
 右の伊倉宮問題は今後研究さるべき問題を含んでいるが何分にも史料が少ないために確定しがたいが、植田説の菊池伊倉説よりも、中川説の玉名郡伊倉説が納得する点があるようである。南朝は高瀬に菊池一族高瀬氏をもって防備したと同様に、また当伊倉も内乱当初は南北両朝に二分されていた形跡も推定できるので、南朝伊倉宮をもって当伊倉津と伊倉を南朝の軍事的基地として防備した可能性は十二分に考えられる。
とあり、「稙田宮」の「弟宮」に比定する説が紹介されている。なお、「直覚」は「真覚」の誤りであり、「中村宗治」「早稲田宮」「宗治親王」とあるのは、史料的根據に缺ける。
 
【文獻等】
『玉名市史』通史篇 上巻(玉名市立歴史博物館 こころピア 編集、玉名市 発行・著作、平成十七年(二〇〇五)三月


 
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更新日時: 2020.09.09.
公開日時: 2008.01.22.


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