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藤田明編著『征西将軍宮』(熊本縣教育會藏版。東京市日本橋區本石町、東京寳文館、大正四年(一九一五)六月。復刻版、東京都千代田区神田神保町、文献出版、昭和五十一年(一九七六)三月)には、「詳かならず懷良親王の王子にもやあらむ」とある。
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御薗生翁甫『大内氏史研究』(山口県地方史学会・大内氏史刊行会、昭和三十四年(一九五九)十月)二八五〜二八六頁に、
植田宮は宮三位中将宗治の弟で伊倉宮とも申す方である。植田宮というは父宮兵部卿が豊後国植田荘の地頭職であらせられた故である。また、伊倉宮と申すは菊池の伊倉に居城せられたるに因るのである。
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とあり、「植田宮」即ち「稙田宮」に比定される。
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『玉名市史』通史篇 上巻、第四編「中世」第三章「室町期の玉名と町・寺社の形成」第四節「伊倉の町と寺社の展開」(執筆、森山恒雄)一「伊倉の津と寺院の招来」348頁下〜349頁下「伊倉宮の問題」に、
この「伊倉宮」が誰れであるかについて、植田均『純忠菊池史乗』は、「後愚昧記」の記事を引用しながら「稙田宮は宮三位中將中村宗治の弟で伊倉宮とも申す。稙田宮と云うのは父宮兵部卿(早稲田宮僧正)が豊後国稙田荘の地頭職であらせられたからで伊倉宮と云うのは菊池の伊倉に居城せられたからである」と述べて、菊池伊倉説をとっている。これに対し中川斎の『伊倉町誌』では、鎌倉将軍宗尊親王から直覚─宗治、弟宮に至る系図を挙げて説明されている。系図は、次のとおりである。
直覚 号早稲田宮僧正
豊後国早稲田庄内満吉名地頭職───┐
円満院権僧正 │
┌───────────────────┘
│ 稙田宮(早稲田宮)
├宗治 従三位中将
│ 後醍醐天皇猶子・興国六年薨(二七才)
│
└弟宮 (早稲田宮)
右の系図に従って中川説は、応安四年(一三七一)の高崎山合戦で菊池武光が擁立した「伊倉宮」は、兄宗治親王の死亡時からして、弟宮である。しかし宗治親王は親王の行動から在肥年間はわずか八ヵ年で、しかも晩年は菊池の本城には不在であるので「伊倉宮」は当伊倉に所在されたが、死亡されたのちは弟宮がつがれ早稲田宮になられたという趣旨で記されている。
この中川説に対して最近田邉哲夫は「伊倉の歴史(上)」(『歴史玉名』一四号)で、永和三年八月一二日の戦である白木原の戦いは玉名郡南関であること、このとき死亡(自殺)されたのは弟宮であることは間違いないが、兄宗治(従三位中将)(二七歳死亡)と弟宮との年令差が距りすぎるという点から、応安四年(一三七一)にみえる「伊倉宮」は弟宮ではないか、兄宗治の宮様も伊倉にいられた可能性はあるという趣旨を述べられるとともに、伊倉津の所在と錦御旗の旗竿が伊倉南八幡宮にあることもその傍証であるという趣旨を挙げられて中川説を補足されている。
右の伊倉宮問題は今後研究さるべき問題を含んでいるが何分にも史料が少ないために確定しがたいが、植田説の菊池伊倉説よりも、中川説の玉名郡伊倉説が納得する点があるようである。南朝は高瀬に菊池一族高瀬氏をもって防備したと同様に、また当伊倉も内乱当初は南北両朝に二分されていた形跡も推定できるので、南朝伊倉宮をもって当伊倉津と伊倉を南朝の軍事的基地として防備した可能性は十二分に考えられる。
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とあり、「稙田宮」の「弟宮」に比定する説が紹介されている。なお、「直覚」は「真覚」の誤りであり、「中村宗治」「早稲田宮」「宗治親王」とあるのは、史料的根據に缺ける。
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