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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[眞覺]

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【僧】眞覺
 
 圓滿院(一八)
『諸門跡譜』圓滿院「眞覺權僧正」に「寺長吏」とあるのは誤りであろう。なお、『稿本後嵯峨天皇實録』一二六九頁に、「弘安十年四月十三日、菩提坊幸金法印ニ從ヒ、唐院ニ於テ灌頂ヲ受ク、後、園城寺長吏ニ補セラレ、權僧正ニ任ゼラル、」と立條されている。
 
【稱號】
 「
早田宮僧正
 「早田宮
 「宮僧正
『尊卑分脈』宗尊親王の子
 號早田宮僧正
 圓滿院
 權僧正
眞覺────────
 母中將源具ヘ女【脇坂本・前田家所藏一本・内閣文庫本ナシ】
『本朝皇胤紹運録』宗尊親王の子「僧眞覺」尻付
權僧正。圓滿院。號早田宮。
母中將源具ヘ朝臣女。
 
【出自】
 宗尊親王の男子。
 後嵯峨院の孫。
『諸門跡譜』圓滿院「眞覺權僧正」
(寺長吏。號早田宮)宗尊親王第三男。後嵯峨院孫。母中將源具ヘ女。號宮僧正。後還俗、生女。適鹽冶判官高貞。
『諸寺院上申』圓滿院室歴代之内皇子皇族御相續分拔書「眞覺僧正」(稿本後嵯峨天皇實録』一二六九頁所引
征夷大將軍宗尊親王第二子。母中將源具ヘ朝臣女。號宮僧正。又早田。
文永七年誕生。
稿本後嵯峨天皇實録』一二六九頁は、「宗尊親王ノ第二王子、母ハ源氏ナリ、文永七年、誕生ス、落飾シテ僧ト爲リ、圓滿院ニ住ス、」と立條し、『本朝皇胤紹運録』と『諸寺院上申』を引用する。
 
【母】
 源朝臣具ヘ(左近衞中將。源朝臣通具の男子)の女子。
 
【經歴】
一二七〇(文永七年)生。
『三井寺灌頂脈譜』、『寺門傳記補録』第十六「非職高僧略傳」卷下「前權僧正眞覺 圓滿院」より逆算。
園城寺圓滿院に入室。
弘安五年(一二八二)受戒。
『三井寺灌頂脈譜』より逆算。
弘安五年(一二八二)八月十二日、圓滿院二品圓助法親王が薨去した際、その遺跡を、「新院御息」(性覺法親王。龜山院の男子)と「故中務卿親王御息」即ち眞覺が管領するであろうとの「巷説」があった。
『勘仲記』弘安五年八月十二日己亥
円滿院二品親王(円助。故院御息。御歳四十七歳)卯時令薨去給。爲御訪爲御使可參坊城殿由、自殿下被仰下。・・・・・ 御跡事兩宮(新院御息、故中務卿親王御息【眞覺】)可有御管領之由、有巷説。
弘安十年(一二八七)四月十三日、園城寺唐院において菩提坊幸金法印より灌頂を受ける。十八歳。
『三井寺灌頂脈譜』
幸金法印授二人
  圓滿院 同【弘安】十ー四ー十三ー 唐院十六人 ・・・・・
 眞覺(年十八/戒六)(前權僧正 遁世)
  中務卿宗尊親王息
『寺門傳記補録』第十六「非職高僧略傳」卷下「前權僧正眞覺 圓滿院
眞覺 中務卿宗尊ムネタカ親王(宗尊、後嵯峨院御子、征夷大將軍)子。至前權僧正。弘安十年四月十三日、受大法灌頂於幸金法印。時年十八、臘五。至後遁世退院。
權僧正に任じられる。
『三井寺灌頂脈譜』
『寺門傳記補録』第十六「非職高僧略傳」卷下「前權僧正眞覺 圓滿院
『諸門跡譜』圓滿院「眞覺權僧正」
遁世し、園城寺圓滿院を退院。
『寺門傳記補録』第十六「非職高僧略傳」卷下「前權僧正眞覺 圓滿院
『三井寺灌頂脈譜』
還俗。
『諸門跡譜』圓滿院「眞覺權僧正」
稿本後嵯峨天皇實録』一二七〇頁には、眞覺の子、源朝臣宗治の生年である元應元年(一三一九)を掲記して、「元應元年、是ヨリ先、還俗ス、」と立條する。
 
【子女】
 □
源朝臣宗治
 ○「弘徽殿ノ西臺」(源朝臣高貞[鹽冶]の室)
 □「稙田宮」 ワサタノミヤ
 
【文獻等】
稿本後嵯峨天皇實録』一二六九〜一二七〇頁「皇孫眞覺」
C水正健『皇族考證』第肆卷、二百九十二頁


 
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公開日時: 2010.11.05.
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