当兼王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[當兼]

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當兼王
 
 伊勢奉幣の使王代
 
【出自】
 作名。
 正保四年(一六四七)九月十一日から元祿二年(一六八九)九月六日に至るまで、伊勢奉幣の使王代は、原則として、定型として宣命に「王從五位下兼字王」と作名が記されたが、卜串が行われ、卜定により「當兼王」の作名が用いられた場合もあった、と推測される。
 
【經歴】
萬治二年(一六五九)九月十一日、伊勢例幣の使王の卜串において「卜丙合」。卜定されず。
鈴鹿家資料「萬治二年九月十一日 ~嘗祭使王卜串」
加茂正典「鈴鹿家所蔵「万治二年九月十一日 神嘗祭使王卜串」考証」および加茂正典「鈴鹿家宮廷祭祀資料」においては、卜串において兼字王(源兼字ことC原賢充)が「卜乙下合」で吉、當兼王が「卜丙合」であったが兼字王はその後「卜不合」となり當兼王が使王を勤仕した、として、當兼王を佐伯職行に比定している。しかし、『忠利宿禰記』萬治二年九月十一日條によると、「使王代主殿民部職行」とあり、「宣命ニハ王從五位下兼字王」と明記されているので、萬治二年九月十一日例幣における伊勢使王代は小野主殿少允佐伯職行が「兼字王」の作名で勤仕したと考えられる。當時は、使王代の作名と、勤仕した個人との間には、特定の關係はなかったが、使王代を中原賢充[河越兵庫]が勤仕するのが恒例であり、使王代の作名として専ら「兼字王」が用いられたため、後に、河越家においては、「兼字王」(源兼字ことC原賢充)は中原賢充が改姓名した個人名であると認識されるようになったと考えられる。日本史史料研究会監修、赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、二〇二〇年一月) 174
寛文九年(一六六九)九月十一日、例幣の使王代。内竪 従五位下 高屋丹後守中原朝臣康久が勤仕。
『恒例臨時公事抄』四(内閣文庫 古5-249)
寛文九年九月十一日例幣(晴儀辰一點)
 ・・・・・
  使々
 中臣 従四位下行神祇權少副大中臣朝臣景忠(祭主)
 忌部代従五位下齋部宿禰親守(作名也 御藏玄弘勤之)
 卜部従五位下卜部宿禰兼景(新院非藏人吉田隱岐)
 使王代従五位下當兼王(作名 内竪【内豎】康在【康久】勤之)
・・・・・
河越家記録『例幣使參向記』寛文九年九月十一日
使王(兼字重服仍内堅【内豎】康久語/用代)
宮内庁書陵部所藏 513 55『伊勢一社奉幣下行方』勘例
 使王代相勤仕例
      内豎康久
一寛文九年九月例幣
 同月廿一日遷宮
『重房宿禰記』寛文九年九月十一日辛丑
今日例幣被行仗儀。其儀。上卿中院大納言通茂卿着仗座給(奧)。奉行職事今城頭中將定淳朝臣来仰例幣可有發遣。・・・・・
・・・・・ 此次使王御馬事 ・・・・・ 仰使王御馬聞食之由 ・・・・・ 仰使王御馬事 ・・・・・
寛文十一年(一六七一)九月十一日、例幣の使王代。兵庫頭賢充が勤仕。従五位下。
『恒例臨時公事抄』四(内閣文庫 古5-249)
寛文十一年九月十一日例幣(・・・・・)
 ・・・・・
   使々
 中臣従四位上行神祇權少副大中臣朝臣景忠(祭主)
 忌部従五位下齋部宿禰親守(作名也 御藏小舍人(【右傍】宮内丞)玄弘勤之)
 卜部従五位下卜部宿禰兼景(新院非藏人前隱岐守)
 使王従五位下當兼王(作名也)兵庫頭賢充勤之
・・・・・
河越家記録『例幣使參向記』寛文十一年九月十一日
使王 兼字王
ここに「兼字王」とあるのは、中原賢充が勤仕したことを意味しているに過ぎず、作名は「當兼王」であったと考えられる。
 
【文獻等】
加茂正典「鈴鹿家所蔵「万治二年九月十一日 神嘗祭使王卜串うらぐし」考証」(笠井昌昭編『文化史学の挑戦』京都、思文閣出版、二〇〇五年三月、六五九〜六七四頁)
加茂正典「鈴鹿家宮廷祭祀資料」(『皇學館大學神道研究所所報』第七十号、平成十八年(二〇〇六)三月、1〜12頁)


 
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公開日時: 2021.03.26.

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