御園眞人藤子
三園蔭實
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延喜十七年(九一七)正月五日、攝津權大掾から大和權大掾への遷任を求める。
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「攝津權大掾三園蔭實申文」(伏見宮本『紀家集』紙背文書)
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玉井力「『紀家集』紙背文書について ──申文の考察を中心として──」(玉井力『平安時代の貴族と天皇』(岩波書店、二〇〇〇年十一月)297〜316頁。初出、『日本歴史』第四三四号、一九八四年)300頁
(九) 摂津権大掾三園蔭実申文(延喜十七年正月五日)
これは摂津権大掾三園蔭実が進物所への奉仕を理由として、大和権大掾への遷任を要求した自解申文である。
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三園千桂
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姓が眞人であるとは明記されていないが、三園眞人姓であると考えられる。
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少外記に任じられる。
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『九條殿記』駒牽、天慶七年九月十四日癸未
此日、牽進信濃諸牧御馬。・・・・・ 外記千柱【三園千桂】持來御馬解文云 ・・・・・
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『九條殿記』荷前、天慶八年十二月廿日壬午
此日、有荷前事。・・・・・ 仍竊仰外記千桂【三園】令勘天智天皇陵參議參之例。千桂申云。・・・・・
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『貞信公記抄』天慶九年五月廿七日
外記千桂【三園】云。今日令卜齋宮、英子内親王合也。以少將爲善朝臣【源】令告彼家。
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三薗正則
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三園眞人姓であると考えられる。
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天喜四年(一〇五六)三月十日、伊賀國玉瀧杣の「御杣工等」の一人として解文に署名。
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『東南院文書』三ノ五「伊賀國玉瀧杣湯船等四村工解」(『平安遺文』古三、八七四頁下)
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天喜四年三月十日 御杣工等近江「吉忠」
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三薗「正則」
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