三笠宮崇仁親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[崇仁]

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崇仁親王 たかひと
 三笠宮 みかさのみや
 
【幼稱】
 「
澄宮」 すみのみや
 
【出自】
 大正天皇の四男。
 
【母】
 節子 さだこ
   貞明皇后。九條道孝の四女。
 
【經歴】
大正四年(一九一五)十二月二日、今上天皇(嘉仁。大正天皇)の四男として出生。
『官報』大正四年十二月二日宮内省告示
崇仁親王(澄宮)
大正四年(一九一五)十二月八日、命名。
『官報』大正四年十二月八日宮内省告示
大正十一年(一九二二)四月、學習院初等科に入學。
昭和三年(一九二八)三月、學習院初等科を卒業。
昭和三年(一九二八)四月、學習院中等科に入學。
昭和七年(一九三二)三月、學習院中等科第四學年終了。
昭和七年(一九三二)四月、陸軍士官學校豫科に入校。
昭和九年(一九三四)三月、陸軍士官學校豫科を卒業。仕官候補生を命じられる(騎兵第十五聯隊附)
昭和九年(一九三四)九月、陸軍士官學校本科に入校。
崇仁親王[三笠宮]
昭和十年(一九三五)十二月二日、成年式。「三笠宮」の稱號を賜わり、三笠宮家を創設。
『官報』號外 昭和十年十二月二日 告示
◎宮内省告示第二十八號
崇仁親王殿下ニ三笠ミカサ宮ノ稱號ヲ賜ハル
 昭和十年十二月二日
        宮内大臣 湯淺 倉平
『官報』第二六七六號 昭和十年十二月三日 宮廷録事
◎朝見 崇仁親王殿下昨二日午前九時三十
分 賢所大前ニ於テ成年式ヲ行ハセラレ訖
テ 皇靈殿 ~殿拜禮同十一時參内朝見ノ
儀同十一時五十分皇太后ニ朝見ノ儀ヲ濟マ
セラレタリ
◎山東御殿 澄宮御殿ハ自今之ヲ山東
御殿ト改稱セラル
『官報』第二六七六號 昭和十年十二月三日 告示
◎宮内省告示第二十九號
本日崇仁親王殿下成年式ヲ濟マセラル
 昭和十年十二月二日
        宮内大臣 湯淺 倉平
宮號は、皇室にゆかりの深い奈良の地にある御蓋山に因むという。
『宣仁親王日記』昭和十一年二月十六日
夜、三笠宮【崇仁親王】御成年につき、御誕生以來大宮樣【貞明皇后】に奉仕、澄宮に仕へたる高等官御召にて御慰勞あり。私【宣仁親王】のみ陪席。御食卓には三笠山の景出來たり。竹田宮のおば樣【昌子内親王】御おび親【御帶親】とていらつしやる。・・・・・
昭和十一年(一九三六)六月二十九日、陸軍士官學校本科を卒業、見習仕官を命じられる(騎兵第十五聯隊附)。
『入江相政日記』昭和十一年六月二十九日(月)
九時二十分御出門、士官學校卒業式行幸。・・・・・ 終始雨に終る。三笠宮樣【崇仁親王】は實に拔群の御成績で御卒業。授與式場の御態度といひ、御馬といひ、全く感激の外ない御立派さである。今日は雨天の中を全く晴天と同樣の御予定で御通し遊ばされた。時局柄感激したことであらう。
昭和十一年(一九三六)、陸軍騎兵少尉に任じられる。
昭和十一年(一九三六)十月一日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられ、騎兵第十五聯隊附に補される。
『官報』第二九二七號 昭和十一年十月二日 敍任及辭令
◎昭和十一年十月一日
              崇仁親王
敍大勲位授菊花大綬章
        ・・・・・
       陸軍騎兵少尉 崇仁親王
補騎兵第十五聯隊附
昭和十二年(一九三七)十月、陸軍騎兵學校に入校(通信學生)。
昭和十二年(一九三七)十二月一日、陸軍騎兵中尉に任じられる。
『官報』第三二七六號 昭和十二年十二月二日 敍任及辭令
◎昭和十二年十二月一日 ・・・・・
     陸軍騎兵少尉大勲位 崇仁親王
任陸軍騎兵中尉
昭和十三年(一九三八)二月、陸軍騎兵學校を修業。
昭和十三年(一九三八)八月、騎兵第十五聯隊中隊長職務心得を仰せ付けられる。
昭和十四年(一九三九)十二月、陸軍大學校に入校。
昭和十五年(一九四〇)八月一日、陸軍騎兵大尉に任じられる。
『官報』第四〇七二號 昭和十五年八月二日 敍任及辭令
◎昭和十五年八月一日
     陸軍騎兵中尉大勲位 崇仁親王
任陸軍騎兵大尉
昭和十六年(一九四一)十月二十二日、子爵高木正得の二女 百合子と結婚。
『官報』第四四三八號 昭和十六年十月二十三日 告示
◎宮内省告示第二十六號
崇仁親王殿下本日正四位勲四等子爵木正
得二女百合子ト結婚セラル
 昭和十六年十月二十二日
        宮内大臣  松平 恒雄
『入江相政日記』昭和十六年十月二十二日(水)「崇仁親王御婚儀」
昭和十六年(一九四一)十二月、陸軍大學校を卒業。
昭和十七年(一九四二)四月、陸軍大學校研究部部員に補される。
昭和十八年(一九四三)一月、支那派遣軍總司令部參謀に補される。
昭和十八年(一九四三)八月、陸軍少佐に任じられる。
『官報』第五六五八號 昭和十八年八月三日 敍任及辭令
◎昭和十八年八月二日
         陸軍大尉 崇仁親王
任陸軍少佐
昭和十九年(一九四四)一月、大本營陸軍參謀に補される。
昭和十九年(一九四四)九月、陸軍機甲本部附に補される。
昭和二十年(一九四五)六月、航空總軍參謀に補される。
昭和二十年(一九四五)十二月、豫備役を仰せ付けられる。
昭和二十二年(一九四七)四月、東京帝國大學文學部研究生となる。
ヘブライ史を研究。
昭和二十五年(一九五〇)三月、東京大學文学部研究生を修了。
昭和二十六年(一九五一)、日本レクリエーション協會總裁となる(平成二年(一九九〇)まで)。
昭和二十八年(一九五三)、友愛十字會總裁となる(昭和四十九年(一九七四)まで)。
昭和二十九年(一九五四)、日本オリエント學會會長となる(昭和五十一年(一九七六)まで)。
昭和二十九年(一九五四)、日蘭協會名譽總裁となる(平成十二年(二〇〇〇)まで)。
昭和三十年(一九五五)、東京女子大學文理學部講師となる(昭和五十三年(一九七八)まで)。
昭和三十年(一九五五)、出版文化國際交流會名譽會長となる。
昭和三十一年(一九五六)八月、セイロン大學より名譽學位を授與される。日本スリ・ランカ協會名譽總裁となる。
昭和三十三年(一九五八)、日本ワックスマン財團名譽總裁となる。
昭和三十五年(一九六〇)、天理大學文學部講師(集中講義)となる(平成二年(一九九〇)まで)。
昭和三十九年(一九六四)、靜岡大學文理學部講師(集中講義)となる。
昭和三十九年(一九六四)、山學院大學講師となる(昭和五十三年(一九七八)まで)。
昭和四十一年(一九六六)、御寺泉涌寺を護る會總裁となる(平成七年(一九九五)まで)。
昭和四十二年(一九六七)、財團法人東京コミュニティ・カレッジ名譽會長となる(平成二年(一九九〇)まで)。
昭和四十三年(一九六八)、北海道大學文學部講師(集中講義)となる。
昭和四十三年(一九六八)、拓殖大學講師(特別講義)となる(平成四年(一九九二)まで)。
昭和四十五年(一九七〇)、日本フォークダンス連盟名譽總裁となる(平成十二年(二〇〇〇)まで)。
昭和四十六年(一九七一)、日本レクリエーション學會名譽會長となる(平成二年(一九九〇)まで)。
昭和五十年(一九七五)、財団法人中近東文化センター總裁となる(平成十七年(二〇〇五)まで)。
昭和五十年(一九七五)、ロンドン大學オリエント・アフリカ研究學院客員ヘ授となる。
昭和五十年(一九七五)八月、英国のランカスター大學より名譽學位を授與される。
昭和五十一年(一九七六)、社團法人日本オリエント學會名譽會長となる(平成八年(一九九六)まで)。
昭和五十七年(一九八二)、日本スクエアダンス協會總裁となる(平成十二年(二〇〇〇)まで)。
昭和五十七年(一九八二)、日本スケート・フォークダンス協會總裁となる(平成十二年(二〇〇〇)まで)。
昭和六十年(一九八五)、東京藝術大學美術學部客員ヘ授(集中講義)となる(平成十五年(二〇〇三)まで)。
昭和六十一年(一九八六)、トルコ共和國のアンカラ大學より名譽學位を授與される。
昭和六十二年(一九八七)、ブルガリア人民共和國のソフィア大學より名譽學位を授與される。
平成二年(一九九〇)、日本レクリエーション協會名譽總裁となる。
平成三年(一九九一)、日本トルコ協會名譽總裁となる。
平成三年(一九九一)、フランス共和國の碑文・文藝アカデミー外國人會員となる。
平成五年(一九九三)、トルコ共和國のチャナッカレ三月十五日大學より名譽學位を授與される。
平成六年(一九九四)、英国のロンドン大學オリエント・アフリカ研究学院名譽會員となる。
平成七年(一九九五)、東京藝術大學より名譽學位を授與される。
平成十七年(二〇〇五)、中近東文化センター名譽總裁となる。
平成二十八年(二〇一六)十月二十七日、薨逝。百歳。
 
【逸事等】
皇道派に對して好意的であったという。
『細川護貞日記』昭和十九年八月二十三日(『細川日記』二九四頁)
昭和二十年(一九四五)四月、鈴木貫太郎内閣成立の際、小磯國昭内閣の陸軍大臣杉山元を排斥する動きを示した。
『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」、「(三)陸軍大臣の任命」(一一一〜一一三頁)
昭和二十一年(一九四六)二月二十七日、樞密院本會議に於いて、「現在天皇の問題について、又皇族の問題について、種々の議論が行はれてゐる。今にして政府が斷然たる處置を執らなければ悔ゐを後に殘す虞ありと思ふ」と意見を述べている。
『芦田均日記』
昭和二十一年(一九四六)六月八日、樞密院本會議に於いて、新憲法について大體贊成であるが印象が薄く日本人自身のものとして受けとりにくいこと、また、皇室典範の改正に皇族が加わることができないことが不滿であることを述べて、棄權、退席した。
『樞密院議事録』
『入江相政日記』昭和二十一年六月八日(土)
十時より樞密院本會議。憲法草案が議せられ、正午過までおかゝりになる。この時三笠さん【崇仁親王】が意見を述べられ、採用せられざるや表決には加はらず退場せられた由。非常にお上【昭和天皇】も遺憾に思召された由。この憲法草案を心あるものでこれで滿足してゐるものが一人としてあらうか。然るにかゝる態度をとられることは誠に思召の程も知られざることで申譯ないことである。どうして皇族はかくもお上をお苦しめするやうなことばかりされるのであらうか。
「進歩的」な立場からしばしばマス=コミにて發言。「赤い宮さま」などと稱された。崇仁親王の言動は、宮中關係者には、その後も長く、苦々しく思われていたようである。
入江相政日記』昭和二十二年一月二十九日(水)
[※午後]五時に出て大臣【宮内大臣松平慶民】の官邸に行く。三笠宮兩殿下をお招きしての會食。・・・・・ 今日は抑々三笠宮樣【崇仁親王】に一同で苦言を呈するのかと思つてゐた處、妃殿下【百合子】も居られるし、大臣夫人もゐるし、とてもそんな空氣ではなく、又本來さういふ目的では無く、宮内官とお親しく願へば御ひがみも無くなるであらうからといふ大臣の考へに出發してゐる由。
『入江相政日記』昭和二十三年七月十四日(水)
加藤次長に呼ばれて行き、話を聞いた所によると高木さん【正得。百合子妃の父】の遺書が出たといふのに高木家で發表しないのは何か宮樣【崇仁親王】の關係があるに違ひないといふことを共同あたりでは専ら云つてゐるといふことを田中君が云ひに來たとの事、それらも考慮に入れたらよからうといふことであつた。・・・・・ 四時に已に遺書を發表したとの事で問題は無かつたが、その遺書といふのが少しも差支はないのだが、正順さんと信ちやんの事だけ云はれて居り、清和源氏の血統云々と必ず何かいはれさうなことが書かれてある。
『入江相政日記』昭和二十四年三月十四日(月)
[※午後]二時頃高松宮、續いて三笠宮が見える。林次長からモーロアの「英國の君主制」についての話、非常によく分りうまく纏つてゐた。續いて色々論議を重ねる。今日はどういふのか高松宮の發言も非常に多い。高松宮は流石に老熟した所もおありで、これは大體我々と同じ思想のやうであるが、三笠宮とは終に平行線的なものであることが分る。
『入江相政日記』昭和五十三年十二月八日(金)
正午より午餐、皇族は三笠宮【崇仁親王】。「娘が中國で大變大事にされた」と仰有つたら、古井法相が「殿下はもうしばらく中國へおいでにならない方がいゝ」とぴしやりとやつたのはよかつた。
昭和二十四年(一九四九)一月一日、『東京タイムス』に「人間としての東宮樣」と題する寄稿が掲載され、その中で、皇太子明仁親王について、「お附の人の檻の中にいる篭の鳥という感じがして、實際『お氣の毒』という一語に盡きると思う。・・・・・ 兩陛下がお子樣方と今までと同じ形で別居せられているのが殘念に思われる」などと述べた。
『入江相政日記』昭和二十四年二月二十一日(月)
「林次長【宮内府次長林敬三】から高松、三笠兩宮にウインザー公の教育についてお話しゝてゐる。それが濟んでから皆出る。長官、式部頭、林次長、鈴木次長、榮木、三井、松村、予。要するに根本は三笠宮樣【崇仁親王】がつまらない事を新聞におしやべりにならないやうにといふことから起つて來たもの。實にくだらないことである。今日の主題は皇子御教育論といふのである。
『入江相政日記』昭和二十四年二月二十二日(火)
[※午後]四時前から五時過迄高松宮、三笠宮の問題につき色々御話をうかゞふ。一時間半御前にゐたのは今迄のレコードであらう。
『入江相政日記』昭和二十四年二月二十三日(水)
十一時過から正午過迄長官【宮内府長官田島道治】の所で色々話をする。三笠宮【崇仁親王】の事、小出さんの就職先のこと、朝融王【久邇朝融】のことなどである。・・・・・ あと名取さんと話しゝて終つたら御文庫で御召といふことで出ると三笠宮のこと、榮木さんの高松宮、三笠宮と東宮樣とを御親しみ願はうといふことについて色々思召をうかゞふ。
昭和三十一年(一九五六)四月に出版した『帝王と墓と民衆』において舊日本軍に對する批判等を行ない、これが右翼系保守層による猛反發を招いた。
紀元節(建國記念日)復活には、科學的歴史學者としての立場から、「紀元節は歴史の眞實を求めた上で論ぜられるべきで性急な復活論は學問の自由をおびやかす」と主張し、積極的に反對活動を行ない、昭和三十四年(一九五九)には『日本のあけぼの』(光文社)を出している。
 崇仁親王の「紀元節」反對活動に、右翼活動家が反撥し、三笠宮の私宅に面會を強要したり、旅行先のホテルにまで押しかけ激越なビラをまく、などという行動を起こしている。
 しかし、崇仁親王は、壓力に屈することなく、信念を變えなかった。
『朝日新聞』昭和三十三年(一九五八)二月十六日
『入江相政日記』昭和四十年三月二十日(土)
長官【宇佐美毅宮内廳長官】によばれて行く。・・・・・ 何かと思つたら長官の話は紀元節問題で三笠宮さま【崇仁親王】が政府の人といろ々々お會ひになるので、これ以上進展してはまづいから妃殿下【百合子】から適當に家族會議でもといふことを申上げてくれとの事、・・・・・
工藤美代子が寬仁親王に「学者としての父宮【崇仁親王】のあげられた業績について話を伺うと、「とにかく頭がよく、勉強熱心。ヘブライ語を含む五、六カ国語を自在に操り、古代オリエント史では世界の五本の指に入る歴史学者」と、寬仁殿下は胸を張った。」という。
工藤美代子『悪童殿下 愛して怒って闘って 寬仁親王の波瀾万丈』(幻冬舎、二〇一五年五月)56頁。
  寬仁親王/工藤美代子『皇族の「おおやけ」と「わたくし」 思い出の人、思い出の時』(東京/京都、PHP研究所、二〇〇九年四月)48〜50頁
 殿下【寬仁親王】 宮内庁に書陵部がありますが、そのなかに三笠宮研究室といいうのがありました。そこに秘書を置いて、いわば一研究者として、古代オリエント史などを研究していたわけです。
 ──【工藤美代子】お通いになるかたちだったのですね。【49頁】
 殿下 そうです。それで東京女子大学や青山学院大学などの講師を始めたのが、昭和三十年以降だと思います。
 ── 御父上はあまりご自宅にはいらっしゃらなかったのですか。
 殿下 あまりいませんでしたね。家に帰ってこないのが父親だと思っていました(笑)。・・・・・
 ただ父は、断トツで文句の付けようのない優等生だったそうです。
 ── 二番の方との差がありすぎてちょっと困るくらい、勉強がお出来になったそうですね。
 殿下 そうらしいですね。私は「頭が良いか?」と「頭がキレるか?」ということで人を判断します。父は頭が良い。しかし、キレない(笑)。私は頭は良くないけれども、キレる。
 ── ニュアンスはよくわかります。
 殿下 学校の成績が良い人は頭が良い。しかし、実社会で活躍できるのは頭がキレる人です。父はわれわれのいう友達をつくりませんからね。学者以外は。それも知人という感じですよ! しかし、古代オリエント史では世界の五本指に入る歴史学者だろうといつも宣伝しています。【50頁】
 ── 語学もたいへんお出来になるそうですね。
 殿下 五ヵ国語か六ヵ国語を操れるようです。かつてNHKのアナウンサーに頼まれて、ヘブライ語をペラペラ話し出したときには驚きました。
ソ連邦レニングラードのソ連邦科学アカデミー・レニングラード支部圖書館に、圖書を寄贈。有栖川宮寄贈圖書と併せて、「有栖川宮、三笠宮記念圖書」フォンドが設けられた。
『入江相政日記』昭和五十八年八月二十六日(金)
三笠宮【崇仁親王】、レニングラード【ソ連邦科学アカデミー・レニングラード支部圖書館】の有栖川宮、三笠宮記念圖書にお上【昭和天皇】の御研究を御寄贈いたゞけたらの件。
圓照寺門跡(一〇)の山本靜山(靜山文絲)は崇仁親王の雙生の妹であるといわれる。
河原敏明『昭和天皇の妹君』(東京、ダイナミックセラーズ出版、一九九一年三月初版。初出、『悲劇の皇女』)
 
【配偶】
 百合子 ゆりこ
 崇仁親王妃。
 高木正得の二女。
 大正十二年(一九二三)六月四日生。
 昭和十六年(一九四一)十月二十二日成婚。
『官報』第四四三八號 昭和十六年十月二十三日 敍任及辭令
◎昭和十六年十月二十二日
      大勲位崇仁親王妃百合子
敍勲一等授寶冠章
 
【子女】
ィ子内親王のち近衞ィ子 やすこ
寬仁親王 ともひと
宜仁親王[桂宮]よしひと
容子内親王のち千容子 まさこ
憲仁親王[高円宮]のりひと
 
【著書】
三笠宮崇仁『帝王と墓と民衆 ── オリエントのあけぼの ── 付 わが思い出の記』(東京、光文社、昭和三十一年(一九五六)四月)
三笠宮崇仁『乾燥の国 ──イラン・イラクの旅 ──』(平凡社、昭和三十二年(一九五七)十一月)
三笠宮崇仁『ここに歴史はじまる』(大世界史 第一巻)(文藝春秋、昭和四十二年(一九六七)六月)
三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』(学生社、昭和五十九年(一九八四)六月)
三笠宮崇仁『古代エジプトの神々 ── その誕生と発展 ──』(日本放送出版協会、昭和六十三年(一九八八)七月)
三笠宮崇仁『文明のあけぼの ── 古代オリエントの世界 ──』(集英社、平成十四年(二〇〇二)六月)
三笠宮崇仁『わが歴史研究の七十年』(学生社、二〇〇八年八月版)
 
【学術關係論文等】
「ムラバアト洞窟出土のヘブライ語文献について」『古代学』第三巻第二号、古代学協会、昭和二十九年六月
「キッティーム論考(T)」『史論』第五集、東京女子大学読史会、昭和三十二年十二月
「キッティーム論考(U)」『史論』第六集、東京女子大学読史会、昭和三十三年十二月
「キッティーム論考(V)」『史論』第八集、東京女子大学読史会、昭和三十五年十一月
「ヒブル史研究の二つの方向 ── M・ノートとW・F・オールブライトの比較 ──」『神道宗教』第二十四号、神道宗教学会、昭和三十六年六月
「イスラエル英雄時代の一考察 ──『デボラの歌』を中心として ──」岩間徹編『変革期の社会』御茶の水書房、昭和三十七年九月
「ダヴィド王権の形成過程とその性格」『オリエント』第五巻第二号、日本オリエント学会、昭和三十七年九月
「バベルの塔」『カラム』第十一号、八幡製鐵株式会社、昭和三十九年七月
「ダヴィドとイブリー」『西南アジア研究』第十三号、西南アジア研究会、昭和三十九年十二月
「現代の宗教と古代の宗教」石母田正他編『古代史講座』第十二巻 学生社、昭和四十年十一月
「日本における古代オリエント研究の発達について」『オリエント』第九巻第二・三号、日本オリエント学会、昭和四十二年九月
"Near Eastern Studies in Japan". Orient, Vol.5. Nippon Oriento Gakkai, May 1969.
「旧約研究ノート ── トーラーにおける“Šāmayim”の用法と、その歴史的背景 ──」日本聖書学研究所編『聖書の思想・歴史・言語 ── 関根正雄教授還暦記念論文集 ──』(聖書学論集 九)山本書店、昭和四十七年十一月
「古代オリエント思想研究ノート ── 古代バビロニアにおける天観念 ──」『青山史学』第三号、青山学院大学文学部史学科研究室、昭和四十八年八月
「創世記におけるアブラ(ハ)ムの人物像」脇本平也編『宗教と歴史』山本書店、昭和五十二年九月
「旧約関係諸書について」『古代オリエント集』(筑摩世界文学大系 第一巻)筑摩書房、昭和五十三年四月
 
【学術關係以外の著述等】
「三笠宮崇仁(【振假名】みかさのみやたかひと)殿下との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編。講談社、一九六八年四月、三四七〜三七八頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、三四一〜三七一頁)
〔対談〕三笠宮崇仁、伊崎恭子、根上治子、内藤妙子、石川メイ、三沢道子「雲の上ばかりが人生ではない」(『昭和天皇の時代 「文藝春秋」にみる昭和史 別巻』(東京、文藝春秋社、一九八九年三月)三七〜四六頁。初出、『文藝春秋』昭和三一年月号)
「三笠宮、兄天皇を語る」(聞き手、牛島秀彦。『目撃者が語る昭和史 第1巻 昭和天皇 激動の時代のなかの昭和天皇の知られざる素顔』(猪瀬直樹監修。新人物往来社、一九八九年三月)所収二八〜五一頁。初出、『サンデー毎日』昭和五十二年五月十五日)

 
【翻訳】
J・フィネガン著『古代文化の光 ── ユダヤ教とクリスト教の考古学的背景 ──』(赤司道雄・中澤洽樹と共譯)(岩波書店、昭和三十年(一九五五)三月。増補版:昭和三十六年八月)
J・フィネガン著『聖書年代学 ── 古代における時の計測法ならびに聖書に現われた年代の諸問題 ──』(岩波書店、昭和四十二年(一九六七)五月)
M・R・ムガール著「インダス文明研究の現状」『オリエント』第一六巻第一号、日本オリエント学会、昭和四十八年(一九七三)十月)
J・フィネガン著『考古学から見た古代オリエント史』(岩波書店、昭和五十八年(一九八三)十二月)
 
【文獻等】
三笠宮殿下米寿記念論集刊行会編集著作『三笠宮殿下米壽記念論集』(刀水書房、平成十六年(二〇〇四)十一月)
武部敏夫「みかさのみやけ 三笠宮家」(『國史大辭典』第十三巻(一九九二年四月第一版、吉川弘文館)二七二頁)
津野田忠重『わが東条英機暗殺計画 元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実」』(徳間書店。一九八五年七月)
河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社、一九七五年四月)一六六〜一七一頁
河原敏明『美智子さまと皇族たち』二七二〜二七八頁



 
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公開日時: 2016.10.27.

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