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大正四年(一九一五)十二月二日、今上天皇(嘉仁。大正天皇)の四男として出生。
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崇仁親王(澄宮)
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大正四年(一九一五)十二月八日、命名。
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大正十一年(一九二二)四月、學習院初等科に入學。
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昭和三年(一九二八)三月、學習院初等科を卒業。
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昭和三年(一九二八)四月、學習院中等科に入學。
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昭和七年(一九三二)三月、學習院中等科第四學年終了。
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昭和七年(一九三二)四月、陸軍士官學校豫科に入校。
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昭和九年(一九三四)三月、陸軍士官學校豫科を卒業。仕官候補生を命じられる(騎兵第十五聯隊附)
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昭和九年(一九三四)九月、陸軍士官學校本科に入校。
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崇仁親王[三笠宮]
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昭和十年(一九三五)十二月二日、成年式。「三笠宮」の稱號を賜わり、三笠宮家を創設。
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『官報』號外 昭和十年十二月二日 告示
◎宮内省告示第二十八號
崇仁親王殿下ニ三笠宮ノ稱號ヲ賜ハル
昭和十年十二月二日
宮内大臣 湯淺 倉平
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『官報』第二六七六號 昭和十年十二月三日 宮廷録事
◎朝見 崇仁親王殿下昨二日午前九時三十
分 賢所大前ニ於テ成年式ヲ行ハセラレ訖
テ 皇靈殿 ~殿拜禮同十一時參内朝見ノ
儀同十一時五十分皇太后ニ朝見ノ儀ヲ濟マ
セラレタリ
◎山東御殿 澄宮御殿ハ自今之ヲ山東
御殿ト改稱セラル
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『官報』第二六七六號 昭和十年十二月三日 告示
◎宮内省告示第二十九號
本日崇仁親王殿下成年式ヲ濟マセラル
昭和十年十二月二日
宮内大臣 湯淺 倉平
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宮號は、皇室にゆかりの深い奈良の地にある御蓋山に因むという。
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『宣仁親王日記』昭和十一年二月十六日
夜、三笠宮【崇仁親王】御成年につき、御誕生以來大宮樣【貞明皇后】に奉仕、澄宮に仕へたる高等官御召にて御慰勞あり。私【宣仁親王】のみ陪席。御食卓には三笠山の景出來たり。竹田宮のおば樣【昌子内親王】御おび親【御帶親】とていらつしやる。・・・・・
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昭和十一年(一九三六)六月二十九日、陸軍士官學校本科を卒業、見習仕官を命じられる(騎兵第十五聯隊附)。
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『入江相政日記』昭和十一年六月二十九日(月)
九時二十分御出門、士官學校卒業式行幸。・・・・・ 終始雨に終る。三笠宮樣【崇仁親王】は實に拔群の御成績で御卒業。授與式場の御態度といひ、御馬といひ、全く感激の外ない御立派さである。今日は雨天の中を全く晴天と同樣の御予定で御通し遊ばされた。時局柄感激したことであらう。
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昭和十一年(一九三六)、陸軍騎兵少尉に任じられる。
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昭和十一年(一九三六)十月一日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられ、騎兵第十五聯隊附に補される。
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『官報』第二九二七號 昭和十一年十月二日 敍任及辭令
◎昭和十一年十月一日
崇仁親王
敍大勲位授菊花大綬章
・・・・・
陸軍騎兵少尉 崇仁親王
補騎兵第十五聯隊附
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昭和十二年(一九三七)十月、陸軍騎兵學校に入校(通信學生)。
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昭和十二年(一九三七)十二月一日、陸軍騎兵中尉に任じられる。
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『官報』第三二七六號 昭和十二年十二月二日 敍任及辭令
◎昭和十二年十二月一日 ・・・・・
陸軍騎兵少尉大勲位 崇仁親王
任陸軍騎兵中尉
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昭和十三年(一九三八)二月、陸軍騎兵學校を修業。
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昭和十三年(一九三八)八月、騎兵第十五聯隊中隊長職務心得を仰せ付けられる。
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昭和十四年(一九三九)十二月、陸軍大學校に入校。
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昭和十五年(一九四〇)八月一日、陸軍騎兵大尉に任じられる。
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『官報』第四〇七二號 昭和十五年八月二日 敍任及辭令
◎昭和十五年八月一日
陸軍騎兵中尉大勲位 崇仁親王
任陸軍騎兵大尉
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昭和十六年(一九四一)十月二十二日、子爵高木正得の二女 百合子と結婚。
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『官報』第四四三八號 昭和十六年十月二十三日 告示
◎宮内省告示第二十六號
崇仁親王殿下本日正四位勲四等子爵木正
得二女百合子ト結婚セラル
昭和十六年十月二十二日
宮内大臣 松平 恒雄
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『入江相政日記』昭和十六年十月二十二日(水)「崇仁親王御婚儀」
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昭和十六年(一九四一)十二月、陸軍大學校を卒業。
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昭和十七年(一九四二)四月、陸軍大學校研究部部員に補される。
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昭和十八年(一九四三)一月、支那派遣軍總司令部參謀に補される。
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昭和十八年(一九四三)八月、陸軍少佐に任じられる。
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『官報』第五六五八號 昭和十八年八月三日 敍任及辭令
◎昭和十八年八月二日
陸軍大尉 崇仁親王
任陸軍少佐
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昭和十九年(一九四四)一月、大本營陸軍參謀に補される。
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昭和十九年(一九四四)九月、陸軍機甲本部附に補される。
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昭和二十年(一九四五)六月、航空總軍參謀に補される。
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昭和二十年(一九四五)十二月、豫備役を仰せ付けられる。
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昭和二十二年(一九四七)四月、東京帝國大學文學部研究生となる。
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昭和二十五年(一九五〇)三月、東京大學文学部研究生を修了。
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昭和二十六年(一九五一)、日本レクリエーション協會總裁となる(平成二年(一九九〇)まで)。
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昭和二十八年(一九五三)、友愛十字會總裁となる(昭和四十九年(一九七四)まで)。
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昭和二十九年(一九五四)、日本オリエント學會會長となる(昭和五十一年(一九七六)まで)。
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昭和二十九年(一九五四)、日蘭協會名譽總裁となる(平成十二年(二〇〇〇)まで)。
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昭和三十年(一九五五)、東京女子大學文理學部講師となる(昭和五十三年(一九七八)まで)。
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昭和三十年(一九五五)、出版文化國際交流會名譽會長となる。
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昭和三十一年(一九五六)八月、セイロン大學より名譽學位を授與される。日本スリ・ランカ協會名譽總裁となる。
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昭和三十三年(一九五八)、日本ワックスマン財團名譽總裁となる。
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昭和三十五年(一九六〇)、天理大學文學部講師(集中講義)となる(平成二年(一九九〇)まで)。
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昭和三十九年(一九六四)、靜岡大學文理學部講師(集中講義)となる。
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昭和三十九年(一九六四)、山學院大學講師となる(昭和五十三年(一九七八)まで)。
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昭和四十一年(一九六六)、御寺泉涌寺を護る會總裁となる(平成七年(一九九五)まで)。
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昭和四十二年(一九六七)、財團法人東京コミュニティ・カレッジ名譽會長となる(平成二年(一九九〇)まで)。
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昭和四十三年(一九六八)、北海道大學文學部講師(集中講義)となる。
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昭和四十三年(一九六八)、拓殖大學講師(特別講義)となる(平成四年(一九九二)まで)。
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昭和四十五年(一九七〇)、日本フォークダンス連盟名譽總裁となる(平成十二年(二〇〇〇)まで)。
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昭和四十六年(一九七一)、日本レクリエーション學會名譽會長となる(平成二年(一九九〇)まで)。
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昭和五十年(一九七五)、財団法人中近東文化センター總裁となる(平成十七年(二〇〇五)まで)。
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昭和五十年(一九七五)、ロンドン大學オリエント・アフリカ研究學院客員ヘ授となる。
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昭和五十年(一九七五)八月、英国のランカスター大學より名譽學位を授與される。
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昭和五十一年(一九七六)、社團法人日本オリエント學會名譽會長となる(平成八年(一九九六)まで)。
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昭和五十七年(一九八二)、日本スクエアダンス協會總裁となる(平成十二年(二〇〇〇)まで)。
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昭和五十七年(一九八二)、日本スケート・フォークダンス協會總裁となる(平成十二年(二〇〇〇)まで)。
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昭和六十年(一九八五)、東京藝術大學美術學部客員ヘ授(集中講義)となる(平成十五年(二〇〇三)まで)。
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昭和六十一年(一九八六)、トルコ共和國のアンカラ大學より名譽學位を授與される。
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昭和六十二年(一九八七)、ブルガリア人民共和國のソフィア大學より名譽學位を授與される。
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平成二年(一九九〇)、日本レクリエーション協會名譽總裁となる。
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平成三年(一九九一)、日本トルコ協會名譽總裁となる。
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平成三年(一九九一)、フランス共和國の碑文・文藝アカデミー外國人會員となる。
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平成五年(一九九三)、トルコ共和國のチャナッカレ三月十五日大學より名譽學位を授與される。
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平成六年(一九九四)、英国のロンドン大學オリエント・アフリカ研究学院名譽會員となる。
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平成七年(一九九五)、東京藝術大學より名譽學位を授與される。
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平成十七年(二〇〇五)、中近東文化センター名譽總裁となる。
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平成二十八年(二〇一六)十月二十七日、薨逝。百歳。
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