高円宮 憲仁親王
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崇仁親王妃 高木正得の二女。 |
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昭和二十九年(一九五四)十二月二十九日、誕生。 | ||||||
憲仁親王 | |||||||
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昭和三十年(一九五五)一月四日、「憲仁(ノリヒト)」と命名される。 | ||||||
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昭和三十三年(一九五八)十二月二日、着袴。 | ||||||
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昭和三十四年(一九五九)四月十三日、松濤幼稚園に入園。 | ||||||
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昭和三十六年(一九六一)四月八日、学習院初等科に入學。 | ||||||
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昭和四十二年(一九六七)四月八日、学習院中等科に入學。 | ||||||
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昭和四十五年(一九七〇)四月八日、学習院高等科に入學。 | ||||||
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昭和四十八年(一九七三)四月九日、學習院大學法學部法學科に入學。 | ||||||
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昭和四十九年(一九七四)十二月二十九日、成年式。 | ||||||
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昭和五十三年(一九七八)三月二十日、學習院大學法學部法學科を卒業。 | ||||||
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昭和五十三年(一九七八)五月、カナダ國オンタリオ州キングストン Kingston のクィーンズ大學(Queen's University)大學院に留學。 | ||||||
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昭和五十六年(一九八一)八月三十日、カナダより歸國。 | ||||||
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昭和五十六年(一九八一)十月十九日、國際交流基金(外務省所管の特殊法人)囑託。 | ||||||
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昭和五十九年(一九八四)八月一日、鳥取久子との婚約が正式に決定。 | ||||||
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昭和五十九年(一九八四)九月十七日、納采。 | ||||||
憲仁親王[高円宮] | |||||||
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昭和五十九年(一九八四)十二月六日、成婚。「高円宮」の稱號を賜わる。
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昭和六十一年(一九八六)十月三十日、赤坂御用地内に高円宮邸が完成。 | ||||||
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昭和六十二年(一九八七)四月一日、日本サッカー協會名譽總裁となる。 | ||||||
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平成四年(一九九二)、カナダ國のクィーンズ大學から名譽博士號を贈られる。 | ||||||
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平成十四年(二〇〇二)十一月二十一日、心室細動により薨去。四十七歳
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平成十四年(二〇〇二)十一月二十九日、葬儀。
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高円宮妃 鳥取滋治郎の一女。 鷹司熈通 ── 曾我晃子(てるこ)(子爵曾我祐邦夫人)── 友田盛子(外務大臣秘書官友田二郎夫人)── 鳥取二三子(ふみこ)── 久子 昭和二十八年(一九五三)七月十日生。 聖心女子学院初等科、中等科を經て、昭和四十二年(一九六七)、三井物産役員の父の轉勤に從い渡英。 ケンブリッジ大學ガートン・カレッジで修学、昭和五十年(一九七五)卒業。 昭和五十九年(一九八四)十二月六日成婚。 |
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『カーテンコールのこちら側 高円宮憲仁親王対談集』流行通信社、一九九一年五月 |
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『創造のプロファイル 高円宮憲仁親王対談集』流行通信社、一九九二年七月 |
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『オーロラが消えぬ間に』讀賣新聞社、二〇〇一年四月 ※ 寫眞集 |
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『素顔の ※ 寫眞エッセー集 |
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『現代根付 高円宮コレクション』白鳥舎、二〇〇三年五月 ※ 寫眞集 |
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高円宮殿下伝記刊行委員会編『高円宮憲仁親王』東京、読売新聞社/中央公論新社、平成十七年(二〇〇五)六月 |
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久能靖『高円宮殿下』東京、河出書房新社、二〇〇三年十一月 |
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『平成新修 旧華族家系大成 上巻』 二二頁 |
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高円宮妃久子『宮さまとの思い出 Will you marry me? ウィル・ユー・マリー・ミー?』取材・文/植野伸治(産経新聞社)。株式会社産経新聞ニュースサービス 発行。東京、扶桑社 発売。二〇〇三年十一月 |
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