桂宮 宜仁親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[宜仁]

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宜仁親王 よしひと
 桂宮
 かつらのみや
 
【出自】
 崇仁親王[三笠宮]の二男。
 大正天皇の孫。
 
【母】
 百合子 ゆりこ
 崇仁親王妃
 高木正得の二女。
 
【御印】
 桂
 
【經歴】
昭和二十三年(一九四八)二月十一日、誕生。
宜仁親王
昭和二十三年(一九四八)二月十七日、「宜仁(よしひと)」と命名。
『入江相政日記』昭和二十三年二月十七日(火)
・・・・・ 三笠宮樣へ御命名の御喜に出る。途中で高木兄上【正得】の歸られるのに會ふ。殿下【崇仁親王】も御出ましになり宜仁親王にも御辭儀する。・・・・・
昭和四十三年(一九六八)二月二十七日、生年式。
『入江相政日記』昭和四十三年二月二十七日(火)「宜仁親王成年式」
・・・・・ 十時加冠の儀。・・・・・
昭和四十六年(一九七一)三月、學習院大學法學部政治學科を卒業。
昭和四十六年(一九七一)、キャンベラのオーストラリア國立大學大学院に留學。
昭和四十八年(一九七三)十二月、オーストラリアより歸國。
昭和四十九年(一九七四)、日本放送協會(NHK)に囑託として勤務(昭和六十年(一九八五)まで)。
日・豪・ニュージーランド協會總裁(日豪協會總裁、日本新西蘭協會總裁)。
心筋症の持病があった。
昭和五十七年(一九八二)十月、キャンベラ豪日協會創立十周年記念式典に臨席のためオーストラリアを訪問、次いでニュージーランドを訪問。
『入江相政日記』昭和五十七年八月七日(火)「那須第一日」
[※午後]二時四十分に拜謁。寛仁さん何も音沙汰なし、宜仁さんは大分落ちついてきたことなど。お上の方から教科書問題について仰せになる。御心配になつてゐる。困つたことである。
『入江相政日記』昭和五十七年十一月十一日(木)「宜仁親王」
宜仁親王豪州からお歸りにつき拜謁。齋藤さんも。・・・・・ 歸室。背廣に換へて三笠宮。百合君さんと寛仁、宜仁兩親王について前者早く御挨拶に出られるやうに、宜仁さんよくおなりになつたにつきよろこび合ふ。[※午後]二時十五分と三時十五分の勲章の間に拜謁。續いて長官室。いづれも寛さんのこと。
昭和六十二年(一九八七)二月に薨去した宣仁親王[高松宮]から、大日本農會總裁、大日本山林會總裁、日本工藝會總裁、日本漆工協會總裁を受け繼ぐ。
宜仁親王[桂宮]
昭和六十三年(一九八八)一月一日、「桂(かつら)宮」の稱號を賜わり、桂宮家を創設。
『官報』号外特第1号 昭和63年1月1日 告示
宮内庁告示第一号
 天皇陛下は、昭和六十三年一月一日、宜仁親王殿下に、桂宮カツラノミヤの称号を賜つた。
 昭和六十三年一月一日
                               宮内庁長官 富田 朝彦
宮號は、宜仁親王の「お印」が桂であることによるという。從って、廢絶した四宮家の桂宮とは無關係であるとされる。
昭和六十三年(一九八八)五月二十六日、桂宮邸で倒れ、昏睡状態になり、東京都立廣尾病院に入院し、急性硬膜下血腫と診斷され、手術を受ける。
平成三年(一九九一)十一月二十一日、公務に復歸。車椅子に乘って行動。
平成九年(一九九七)六月、「大相撲オーストラリア公演(メルボルン場所,シドニー場所)」の名譽總裁としてオーストラリアに出張。
平成二十年(二〇〇八)九月、敗血症のため東京大學醫學部附屬病院に入院。以後、入退院を繰り返し、鬪病生活を送った。
平成二十六年(二〇一四)六月八日午前十時五十五分、急性心不全のため搬送先の東京大學醫學部附屬病院に於いて薨去。六十六歳。
 
【逸事等】
学業は「きわめて優秀」、運動は「何でもこなされた」が、學習院中等科の時に精神的衝撃を受け、「その一件以来、変わってしまった」という。
高円宮殿下伝記刊行委員会『高円宮憲仁親王』(東京、読売新聞社/中央公論新社、平成十七年(二〇〇五)六月)八六〜八七頁
 三笠宮家に痛ましい「出来事」が起きたのは、憲仁さまが初等科三年生でいらっしゃったころのことだという。事の発端は、中等科に在籍されていた次兄の宜仁さまが、ある友人から投げられた言葉だった。「われわれの税金で生活しているくせに」──。多感な思春期におられ、ごきょうだいの中でもとりわけ純粋でデリケートな心を持たれていた宜仁さまは、親しい友人の一言に激しく傷つかれた。
 宜仁さまは学業もきわめて優秀で、スポーツは何でもこなされた。友人も多くいらっしゃった。ィ子さまも容子さまも「わが家のホープでした」と評された。「ですが、弟はその一件以来、変わってしまった」とィ子さまは悔やむ。
「私たち上の三人は、宮家が存続するかどうかわからない戦後にあって、普通の子供として育てられました」と、ィ子さまは指摘される。世間は皇族だというが、御殿に住んでいるわけでもない。「自分たちがどういう存在なのか、皇族としてどう生きていけばいいのか、あの時代にはわからなかった。父も母も。弟は友人の言葉に反論できなかったのです」。
 容子さまも「友人の言葉をどうして撥ね返さなかったのかと残念でならない」と話された。「いくつかの道が考えられたが、女である私は結婚することで宮家から離れられるが・・・・・・。私は兄に何も言えなかった」。
 宜仁さまはその後も、友人たちとは普通におつきあいを続けられた。六十三年一月、宜仁さまが桂宮家を創設され、同年五月に急性硬膜下血腫で倒れられると、友人たちは「桂友会」をつくって励ました。後になって、そうした親友の一人が白血病で亡くなったことがあった。この友人は広告代理店に勤めており、大相撲のオーストラリア公演を手がけていたという。桂宮は、志半ばに倒れた友のため車いすでオーストラリアに渡り、その公演を成功させようと尽くされた。
宜仁親王の一家創設は、宣仁親王[高松宮]の盡力によるものであった。
『入江相政日記』昭和五十六年一月五日(月)
・・・・・ お召とのこと。宮殿で拜謁。高松宮【宣仁親王】が(三日)宜仁親王の獨立のことを云つてゐたとの仰せ、それに階段を上るのが年をとつてつらくなつたとも。
桂宮(三笠宮)宜仁「伯父、高松宮殿下の思い出」(『高松宮宣仁親王』(朝日新聞社、昭和六十三年(一九八八)一月) 六〜七頁)
 
工事中 【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成』上巻 二一頁

 
工事中 【關聯ホームページ】
宮内庁 (http://www.kunaicho.go.jp/)
ご略歴 (http://www.kunaicho.go.jp/about/history/history.html
桂宮家 (http://www.kunaicho.go.jp/about/history/history07.html
皇室のご活動 (http://www.kunaicho.go.jp/activity/
桂宮家のご活動 (http://www.kunaicho.go.jp/activity/activity/07/activity07.html
MSN産経ニュース(http://sankei.jp.msn.com/)
桂宮殿下 薨去 66歳 (1/2ページ)(http://sankei.jp.msn.com/life/news/140608/imp14060812040001-n1.htm
桂宮殿下 薨去 66歳 (2/2ページ)(http://sankei.jp.msn.com/life/news/140608/imp14060812040001-n2.htm



 
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公開日時: 2014.06.08.

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