曼殊院門跡 譲仁親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[讓仁]

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【僧】讓仁親王
 
 曼殊院宮
 
 もと
持勝親王 もちかつ

 
【幼稱】
 「彦宮」 ひこのみや
 「慥宮」 さだのみや
 
【法號】
 「遠壽成院
 
【出自】
 孝仁親王[閑院宮]の實子にして内實は貞敬親王[伏見宮]の男子、とされる。
 實は邦家親王[伏見宮]の三男。
 薨逝の後、實系の邦家親王[伏見宮]三男に復系する。
 光格天皇(太上天皇)の養子。
 
【生母】
 「壽見」
 家女房
 上野壽野
 
【實母】
 「壽美君」
 藤原朝臣輝子
 貞敬親王の御息所
 藤原朝臣輝良[一條]の十二女。
 
【母儀】
 「菖蒲小路局」
 藤原朝臣聰子
 光格天皇(仙洞)の後宮
 藤原朝臣公聰[姉小路]の女子。
 
【經歴】
文政七年(一八二四)正月九日、誕生。
『伏見宮系譜小傳』貞敬親王の子「讓仁入道親王」
母同嘉言親王(上野氏)。
養母輝子(壽美君)
實邦家親王子
文政七甲申年正月九日誕生。号彦宮。
『伏見宮系譜』邦家親王の子「讓仁入道親王」
母家女房(上野氏。名壽野)。養母 子【輝子】(寿美君)
實邦家親王子【ママ】
文政七年正月九日誕生。号彦(ヒコ)宮。
『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
文政七申年正月十一日 誕生
文政七年(一八二四)正月十日、貞敬親王の男子にして御息所「壽美君」(藤原朝臣輝子)の所生と定められる。
『伏見宮日記』文政七年正月十日
一、御息所樣先達御誕生之若君、兼外方被預置候処、今日還御被為有。・・・・・
 但御誕生之義還御等之御披露不被為有。先御内々之御取扱也。
「彦宮」
文政七年(一八二四)正月十五日、稱號を「彦宮」(ひこのみや)と稱されるべき旨が伏見宮家中に披露される。
『伏見宮日記』文政七年正月十五日
一、於御錠口小左近を以、左之通御書付ニ而被仰出候義也。
 ┌────────────────────┐
 │ 壽ミ君誕生有之候上、先達而外方ヘ   │
 │ 預ヶ置候若君彦(ヒコ)宮ト稱シ可申事、 │
 │        諸大夫披見可申事、   │
 └────────────────────┘
文政十年(一八二七)二月七日、色直。
『伏見宮日記』文政十年二月七日
今日依吉辰 ・・・・・ 彦宮樣御色直御祝儀催之。
・・・・・
天保元年(一八三〇)十二月、愛仁親王[閑院宮]より、故孝仁親王の子が少ないため、貞敬親王の子の一人を故孝仁親王の實子として、孝仁親王の御息所「微妙覺院」(藤原朝臣吉子)が養育し、將來は曼殊院に入室させたいとの情願があり、貞敬親王がこれを承諾し、天保二年(一八三一)二月十一日、「彦宮」を遣わすことを約した。
『閑院宮日記拔抄』天保二年二月十一日
一、旧臘廿一日、伏【伏見宮】爲御使(宮内權少輔)罷出、箕田大和介及面會。御口上申述ル。故式部卿宮【孝仁親王】若宮方御誕生も方々不被為在候上、聖宮【聖護院宮】御方【 】も薨去被為在、別而御連枝も御少ク、微【微妙覺院】も御心淋敷思召ニ付、兵部卿宮様【貞敬親王】若宮方之内、故式部卿宮爲御實子御所望被為在度、尤徃々者竹門御室【曼殊院門跡】御相續御願被為在度思召之旨、内々者殿下様も御相續被為在思召も無之旨、御答も被進候旁御所望被遊度旨被仰入。尚從彼御方御返答可被為在旨也。
一、伏【伏見宮】御使箕田大和介(忠辰)及面會候處、旧臘被仰進候兵部卿宮若宮方之内御所望被為在度旨、委細御承知被為在候。則御末男(當卯御八才)彦宮ト被称候御方、為御実子可被進候旨御領掌被仰進。徃々者竹門御室【曼殊院門跡】御相續可被為在候條、是又御承知被成候。尚又已後者内外共別而御親敷被成進候様被仰進。御相應御返答被及候也。
一、右御同所内匠頭為御使罷出、過刻被仰進候兵部卿宮様御末男彦宮様御事、故式部卿宮為御実子可被進候旨御領掌之段被仰進。委細御承知被為在。幾久敷目出度忝御大慶被成候。
『閑院宮日記』天保二年三月廿一日
一、伏見宮御使(忠辰【箕田大和介】)先達而ゟ被仰進候彦宮御方御引取之儀、来ル廿四日御指支不被為在候ハヽ、御引取被為在度、尤明廿二日為御取替被為在度旨被仰進候処、何之御指支も不被為在候間、明廿二日為御取替、廿四日御引越等目出度可被為在候条、御返答被仰進候也。
『閑院宮日記』天保二年三月廿二日
『伏見宮日記』天保二年三月廿二日
 今度彦宮様御事、為閑院故式部卿宮御實子、曼珠院御室【曼殊院門跡】御相續之儀御内定被為在候ニ付、此頃ゟ閑院宮御内々御引越被為在候趣、則今日被仰合之御祝儀為御取替可被為在旨被仰出候。依之夫々被仰渡候也。
一、閑院宮御使田中内匠頭を以、右為御祝儀左之通被進。吸物(蛤)一里塚ニ而御祝酒被下。於御書院御所様御目見、御口祝被下、御直答被為在、其後於奧御對面所御所様。彦宮様御列座ニ而御對面被為在。彦宮様より御口祝被下。彦宮様之【ヘ】御所様被仰述。早老母御附之女中面會及挨拶。其後若御所様ゟ之御返答、大和介ゟ申述、為御引金百疋被下。・・・・・
「慥宮」
天保二年(一八三一)三月二十四日、故孝仁親王[閑院宮]の實子となり、内々に閑院殿へ移居し、稱號を「慥宮」(さだのみや)と改め、暫時、密子として待遇される。
『閑院宮日記』天保二年三月廿四日
一、伏見兵部卿貞敬親王御末男彦宮御方、故一品式部卿孝仁親王為御實子今日御引御治定候事(于時御年八歳)。
一、午刻為御迎御用人修理、近習二人、青士三人、継上下着用、御包輿、御手廻り二人、押兩人(自分羽織)笠篭等也。
一、未半刻無御滯被為入候事。
一、御改名奉称慥(サダ)宮。右御名從宮御方被進之。
『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
天保二卯年三月廿四日 式部卿孝仁親王請為實子。
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「伏見宮」
天保二年三月二十四日爲閑院宮孝仁親王實子。
『皇室制度史料 皇族一』一一九頁
天保二年(一八三一)四月十六日、披露の儀を行う。
『閑院宮日記』天保二年四月十六日
一、慥宮御方御弘、今日諸向為御知左之趣書面遣之。
   故式部卿宮御密子若宮御出生後御虚弱被為在候処、追々御丈夫御成長被成候ニ付、此度被成御弘。被称慥宮御方候。此段御少【承】知可得御意如此御座候。
  鷹司殿 近衞殿 伏見宮 有栖川宮 妙法院宮 聖護院宮 霊鑑寺宮 大乘院殿 三寶院殿 蓮華光院殿 竹門御室 實枝宮(有栖川宮ヘ書面書込)
   此外鷹司殿御積合姫君方ヘ者奧向け并
   八條殿 櫛笥殿 園池殿 芝山殿 平松殿 石井殿 久世殿 西洞院殿
『伏見宮日記』天保二年四月十六日
天保三年(一八三二)二月十七日、紐直。
『閑院宮日記拔抄』天保三年二月十七日
一、慥【慥宮】當座御九歳、今日被催御紐直(吉刻巳)。
「慥宮」[曼殊院宮]
天保三年(一八三二)五月十七日、曼殊院門跡を相續し、光格天皇(仙洞)の養子となる。母儀は「菖蒲小路局」(藤原朝臣聰子)。九歳。
『閑院宮日記拔抄』天保三年二月八日
『閑院宮日記拔抄』天保三年三月廿六日
『仙洞御所詰所日記』天保三年五月十七日
一、閑院故式部卿宮御末子慥(サダ)宮(九歳)曼殊院門跡御相續、於禁中被仰出。右慥宮仙洞御養子被仰出候事。
 御母儀菖蒲小路局被仰出候事。
 右之通被仰出候段、傳奏衆被仰渡。御養子御母儀之儀御附衆申達。御所々々准后御殿執次中以回章申達。
『閑院宮日記拔抄』天保三年五月十七日
一、兩傳奏御口達。
  御弟慥宮曼殊院御室御相續、仙洞御養子、御願之通被仰出候。此段申上候事。
   院傳奏御口達
  御弟慥宮曼殊院御室御相續被仰出、仙洞御養子、御願之通被仰出候。此段申上候事。
 右御請月番甘露寺家里亭院中、外様口被仰上。御使(内匠頭)。
一、御室御家中務卿筑前守帰殿言上。右同様於院中者右飛仰出候ニ付、御母儀此度菖蒲小路殿被仰出候条、是又御達也。右言上御請使同様勉之。
『伏見宮日記』天保三年五月十七日
『仙洞御所詰所日記』天保三年六月十三日
『閑院宮日記拔抄』天保三年六月十三日
『伏見宮日記』天保三年六月十三日
『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
同【天保】三辰年五月十七日 曼珠【殊】院相續。
同日           光格天皇御養子。
天保五年(一八三四)正月二十八日、内々に曼殊院本坊別殿に移る。
『閑院宮日記拔抄』天保五年正月廿六日
『閑院宮日記拔抄』天保五年正月廿七日
『閑院宮日記拔抄』天保五年正月廿八日
『禁裏執次詰所日記』天保五年正月二十七日
『曼殊院日記』天保五年正月廿七日
『曼殊院日記』天保五年正月廿八日
『伏見宮日記』天保五年正月廿八日
持勝親王[曼殊院門跡]
天保五年(一八三四)八月二十六日、親王宣下。諱を「持勝(もちかつ)」と賜わる。十一歳。
『禁裏執次詰所日記』天保五年八月廿六日戊午
リ。
一、今日(巳刻)曼珠【殊】院慥宮親王宣下。
  上卿 廣幡大納言   辨 坊城辨   奉行職事 甘露寺辨
一、巳刻過、御門閉警固引取候樣、表より申出、則申達。
一、慥宮御名持勝(毛知加津)
 右四ツ折ニ書付、議奏衆御渡、御附衆可達旨ニ付書付相達。
・・・・・
一、持勝親王 勅別當姉小路中納言   家司梅小路讚岐權守
 右議奏衆御達書面御附衆被爲見。
・・・・・
『平田職寅日次記』天保五年八月廿六日戊午
一、曼殊院宮親王宣下也。・・・・・
 ・・・・・
 御名字 持勝(毛知加津)
『閑院宮日記拔抄』天保五年八月廿六日
『伏見宮日記』天保五年八月二十六日
『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
天保五甲午年八月廿六日 親王  宣下/諱 持勝(モチカツ)
稿本仁孝天皇實録』七〇六〜七〇七頁 天保五年八月二十六日、「閑院宮孝仁親王ノ王子ニ親王宣下アリ、名ヲ持勝ト賜フ、」
讓仁親王[曼殊院門跡]
天保五年(一八三四)十一月二十八日、曼殊院に入寺、得度。法諱「讓仁」。十一歳。
『閑院宮日記拔抄』天保五年十月十七日
『閑院宮日記拔抄』天保五年十一月一日
一、竹門御室御使山本筑前守参殿。今日御諱院中御爪点被為済候旨御吹聴也。
 讓仁 〓【月屯】仁 體仁 得仁
『閑院宮日記拔抄』天保五年十一月廿八日
『定功卿記』天保五年十一月廿八日
是日慥宮(故孝仁親王男。實兵部卿貞敬親王末子。院御養子)令入曼殊院室給(一乘寺村)。・・・・・
『伏見宮日記』天保五年十一月二十八日
『仙洞御所詰所日記』天保五年十一月廿八日
『禁裏番衆所日記』天保五年十一月廿八日
少外記平田家記録 H206-11
『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
同年【天保五年】十一月廿八日 入寺改名譲仁法親王。
天保五年(一八三四)十二月十日、大原三千院に赴き、梶井宮承眞親王より受戒。即夜、曼殊院に歸る。
『曼殊院日記』天保五年十二月十日
天保十三年(一八四二)六月二十七日、死亡。喪を發せず。
『伏見宮日記』天保十三年六月廿七日
『閑院宮日記』天保十三年六月廿七日
『伏見宮日記』天保十三年六月廿八日
天保十三年(一八四二)六月二十八日、二品に敍される。
曼殊院所藏『讓仁親王叙品宣下始終之記』天保十三年六月廿七日
曼殊院所藏『讓仁親王叙品宣下始終之記』天保十三年六月廿八日
曼殊院所藏『讓仁親王叙品宣下始終之記』天保十三年六月廿九日
曼殊院所藏『曼殊院文書』
『閑院宮日記』天保十三年六月廿八日
『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
同【天保】十三壬寅年六月廿九日 二品宣下。
同日         薨 十九歳茅谷葬。
天保十三年(一八四二)六月二十九日「薨逝」(發喪)。
『閑院宮日記』天保十三年六月廿九日
『伏見宮日記』天保十三年六月廿九日
『仙洞御所詰所日記』天保十三年六月廿九日
『實麗卿記』天保十三年六月廿九日丙午
雨。今日、入道讓仁親王(曼殊院門主。閑院故孝仁親王子。光格天皇御養子)薨。依之三ヶ日廢朝。
『平田職寅日次記』天保十三年六月廿九日丙午
陰リ不定、午後雷鳴雨下。
一、深更(實者、朔日之曉寅半剋)コ大寺殿より曼殊院宮【讓仁親王】薨去ニ付、自今廿九日到來月二日三ヶ日之間廢朝、女院御所三ヶ日被止物音候。觸状到來了(七月三日返上之)。
稿本仁孝天皇實録』九五八頁 天保十三年六月二十九日、「曼殊院宮讓仁親王ノ薨奏アリ、仍ツテ是日ヨリ三箇日間、廢朝仰セ出サル、」
天保十三年(一八四二)七月五日、追號が「遠壽成院宮」と定められる。
『閑院宮日記』天保十三年七月五日
天保十三年(一八四二)七月六日、入棺。
『閑院宮日記』天保十三年七月三日
天保十三年(一八四二)七月九日、密葬。
『閑院宮日記』天保十三年七月九日
『伏見宮日記』天保十三年七月九日
天保十三年(一八四二)七月二十日、葬送。茅ヶ溪の曼殊院宮墓地に埋葬。
『閑院宮日記』天保十三年七月廿日
 
【文獻等】
『伏見宮實録』一一五『邦家親王實録』八(宮内公文書館所藏 識別番号 75315)「王子 讓仁親王」
改訂伏見宮系譜』全(宮内公文書館所藏 識別番号 32748)
『閑院宮系譜』全(宮内公文書館所藏 識別番号 32749)
『皇室制度史料 皇族三』 二六〇頁
『詰所系圖』光格天皇、六四頁
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「伏見宮」 九五頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三三頁


 
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更新日時: 2021.03.28.
公開日時: 2021.01.21.

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