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文政七年(一八二四)正月九日、誕生。
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『伏見宮系譜小傳』貞敬親王の子「讓仁入道親王」
母同嘉言親王(上野氏)。
養母輝子(壽美君)
實邦家親王子
文政七甲申年正月九日誕生。号彦宮。
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『伏見宮系譜』邦家親王の子「讓仁入道親王」
母家女房(上野氏。名壽野)。養母 子【輝子】(寿美君)
實邦家親王子【ママ】
文政七甲申年正月九日誕生。号彦(ヒコ)宮。
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『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
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文政七年(一八二四)正月十日、貞敬親王の男子にして御息所「壽美君」(藤原朝臣輝子)の所生と定められる。
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『伏見宮日記』文政七年正月十日
一、御息所樣先達而御誕生之若君、兼而外方江被預置候処、今日還御被為有。・・・・・
但御誕生之義并還御等之御披露者不被為有。先御内々之御取扱也。
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「彦宮」
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文政七年(一八二四)正月十五日、稱號を「彦宮」(ひこのみや)と稱されるべき旨が伏見宮家中に披露される。
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『伏見宮日記』文政七年正月十五日
一、於御錠口ニ小左近を以、左之通御書付ニ而被仰出候義也。
┌────────────────────┐
│ 壽ミ君誕生有之候上、先達而外方ヘ │
│ 預ヶ置候若君彦(ヒコ)宮ト稱シ可申事、 │
│ 諸大夫披見可申事、 │
└────────────────────┘
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文政十年(一八二七)二月七日、色直。
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『伏見宮日記』文政十年二月七日
今日依吉辰 ・・・・・ 彦宮樣御色直御祝儀催之。
・・・・・
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天保元年(一八三〇)十二月、愛仁親王[閑院宮]より、故孝仁親王の子が少ないため、貞敬親王の子の一人を故孝仁親王の實子として、孝仁親王の御息所「微妙覺院」(藤原朝臣吉子)が養育し、將來は曼殊院に入室させたいとの情願があり、貞敬親王がこれを承諾し、天保二年(一八三一)二月十一日、「彦宮」を遣わすことを約した。
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『閑院宮日記拔抄』天保二年二月十一日
一、旧臘廿一日、伏【伏見宮】江爲御使(宮内權少輔)罷出、箕田大和介江及面會。御口上申述ル。故式部卿宮【孝仁親王】若宮方御誕生も方々不被為在候上、聖宮【聖護院宮】御方【 】も薨去被為在、別而御連枝も御少ク、微【微妙覺院】ニも御心淋敷思召ニ付、兵部卿宮様【貞敬親王】若宮方之内、故式部卿宮爲御實子御所望被為在度、尤徃々者竹門御室【曼殊院門跡】江御相續御願被為在度思召之旨、内々者殿下様江も御相續被為在思召も無之旨、御答も被進候旁御所望被遊度旨被仰入。尚從彼御方御返答可被為在旨也。
一、伏【伏見宮】御使箕田大和介(忠辰)及面會候處、旧臘被仰進候兵部卿宮若宮方之内御所望被為在度旨、委細御承知被為在候。則御末男(當卯御八才)彦宮ト被称候御方、為御実子可被進候旨御領掌被仰進。徃々者竹門御室【曼殊院門跡】江御相續可被為在候條、是又御承知被成候。尚又已後者内外共別而御親敷被成進候様被仰進。御相應御返答被及候也。
一、右御同所江内匠頭為御使罷出、過刻被仰進候兵部卿宮様御末男彦宮様御事、故式部卿宮為御実子可被進候旨御領掌之段被仰進。委細御承知被為在。幾久敷目出度忝御大慶被成候。
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『閑院宮日記』天保二年三月廿一日
一、伏見宮江御使(忠辰【箕田大和介】)先達而ゟ被仰進候彦宮御方御引取之儀、来ル廿四日御指支不被為在候ハヽ、御引取被為在度、尤明廿二日為御取替被為在度旨被仰進候処、何之御指支も不被為在候間、明廿二日為御取替、廿四日御引越等目出度可被為在候条、御返答被仰進候也。
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『閑院宮日記』天保二年三月廿二日
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『伏見宮日記』天保二年三月廿二日
今度彦宮様御事、為閑院故式部卿宮御實子、曼珠院御室【曼殊院門跡】御相續之儀御内定被為在候ニ付、此頃ゟ閑院宮江御内々御引越被為在候趣、則今日被仰合之御祝儀為御取替可被為在旨被仰出候。依之夫々江被仰渡候也。
一、閑院宮御使田中内匠頭を以、右為御祝儀左之通被進。吸物(蛤)一里塚ニ而御祝酒被下。於御書院御所様御目見、御口祝被下、御直答被為在、其後於奧御對面所ニ御所様。彦宮様御列座ニ而御對面被為在。彦宮様より御口祝被下。彦宮様之【ヘ】御所様被仰述。早而老母并御附之女中面會及挨拶。其後若御所様ゟ之御返答、大和介ゟ申述、為御引金百疋被下。・・・・・
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「慥宮」
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天保二年(一八三一)三月二十四日、故孝仁親王[閑院宮]の實子となり、内々に閑院殿へ移居し、稱號を「慥宮」(さだのみや)と改め、暫時、密子として待遇される。
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『閑院宮日記』天保二年三月廿四日
一、伏見兵部卿貞敬親王御末男彦宮御方、故一品式部卿孝仁親王為御實子今日御引御治定候事(于時御年八歳)。
一、午刻為御迎御用人修理、近習二人、青士三人、継上下着用、御包輿、御手廻り二人、押兩人(自分羽織)笠篭等也。
一、未半刻無御滯被為入候事。
一、御改名奉称慥(サダ)宮。右御名從宮御方被進之。
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『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
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『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「伏見宮」
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『皇室制度史料 皇族一』一一九頁
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天保二年(一八三一)四月十六日、披露の儀を行う。
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『閑院宮日記』天保二年四月十六日
一、慥宮御方御弘、今日諸向江為御知左之趣書面遣之。
故式部卿宮御密子若宮御出生後御虚弱被為在候処、追々御丈夫ニ御成長被成候ニ付、此度被成御弘。被称慥宮御方と候。此段御少【承】知可得御意如此御座候。
鷹司殿 近衞殿 伏見宮 有栖川宮 妙法院宮 聖護院宮 霊鑑寺宮 大乘院殿 三寶院殿 蓮華光院殿 竹門御室 實枝宮(有栖川宮ヘ書面書込)
此外鷹司殿御積合姫君方ヘ者奧向け并
八條殿 櫛笥殿 園池殿 芝山殿 平松殿 石井殿 久世殿 西洞院殿
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『伏見宮日記』天保二年四月十六日
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天保三年(一八三二)二月十七日、紐直。
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『閑院宮日記拔抄』天保三年二月十七日
一、慥【慥宮】當座御九歳、今日被催御紐直(吉刻巳)。
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「慥宮」[曼殊院宮]
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天保三年(一八三二)五月十七日、曼殊院門跡を相續し、光格天皇(仙洞)の養子となる。母儀は「菖蒲小路局」(藤原朝臣聰子)。九歳。
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『閑院宮日記拔抄』天保三年二月八日
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『閑院宮日記拔抄』天保三年三月廿六日
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『仙洞御所詰所日記』天保三年五月十七日
一、閑院故式部卿宮御末子慥(サダ)宮(九歳)曼殊院門跡御相續、於禁中被仰出。右慥宮仙洞御養子被仰出候事。
御母儀菖蒲小路局被仰出候事。
右之通被仰出候段、傳奏衆被仰渡。御養子御母儀之儀御附衆江申達。御所々々准后御殿執次中江以回章申達。
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『閑院宮日記拔抄』天保三年五月十七日
一、兩傳奏御口達。
御弟慥宮曼殊院御室御相續、仙洞御養子、御願之通被仰出候。此段申上候事。
院傳奏御口達
御弟慥宮曼殊院御室御相續被仰出、仙洞御養子、御願之通被仰出候。此段申上候事。
右御請月番甘露寺家里亭院中、外様口江被仰上。御使(内匠頭)。
一、御室御家中務卿筑前守帰殿言上。右同様於院中者右飛仰出候ニ付、御母儀此度菖蒲小路殿被仰出候条、是又御達也。右言上御請使同様勉之。
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『伏見宮日記』天保三年五月十七日
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『仙洞御所詰所日記』天保三年六月十三日
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『閑院宮日記拔抄』天保三年六月十三日
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『伏見宮日記』天保三年六月十三日
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『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
同【天保】三壬辰年五月十七日 曼珠【殊】院相續。
同日 光格天皇御養子。
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天保五年(一八三四)正月二十八日、内々に曼殊院本坊別殿に移る。
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『閑院宮日記拔抄』天保五年正月廿六日
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『閑院宮日記拔抄』天保五年正月廿七日
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『閑院宮日記拔抄』天保五年正月廿八日
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『禁裏執次詰所日記』天保五年正月二十七日
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『曼殊院日記』天保五年正月廿七日
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『曼殊院日記』天保五年正月廿八日
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『伏見宮日記』天保五年正月廿八日
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持勝親王[曼殊院門跡]
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天保五年(一八三四)八月二十六日、親王宣下。諱を「持勝(もちかつ)」と賜わる。十一歳。
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『禁裏執次詰所日記』天保五年八月廿六日戊午
リ。
一、今日(巳刻)曼珠【殊】院慥宮親王宣下。
上卿 廣幡大納言 辨 坊城辨 奉行職事 甘露寺辨
一、巳刻過、御門閉警固引取候樣、表より申出、則申達。
一、慥宮御名持勝(毛知加津)
右四ツ折ニ書付、議奏衆御渡、御附衆江可達旨ニ付書付相達。
・・・・・
一、持勝親王 勅別當姉小路中納言 家司梅小路讚岐權守
右議奏衆御達書面御附衆被爲見。
・・・・・
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『平田職寅日次記』天保五年八月廿六日戊午
一、曼殊院宮親王宣下也。・・・・・
・・・・・
御名字 持勝(毛知加津)
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『閑院宮日記拔抄』天保五年八月廿六日
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『伏見宮日記』天保五年八月二十六日
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『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
天保五甲午年八月廿六日 親王 宣下/諱 持勝(モチカツ)
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『稿本仁孝天皇實録』七〇六〜七〇七頁 天保五年八月二十六日、「閑院宮孝仁親王ノ王子ニ親王宣下アリ、名ヲ持勝ト賜フ、」
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讓仁親王[曼殊院門跡]
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天保五年(一八三四)十一月二十八日、曼殊院に入寺、得度。法諱「讓仁」。十一歳。
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『閑院宮日記拔抄』天保五年十月十七日
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『閑院宮日記拔抄』天保五年十一月一日
一、竹門御室御使山本筑前守参殿。今日御諱院中御爪点被為済候旨御吹聴也。
讓仁 〓【月屯】仁 體仁 得仁
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『閑院宮日記拔抄』天保五年十一月廿八日
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『定功卿記』天保五年十一月廿八日
是日慥宮(故孝仁親王男。實兵部卿貞敬親王末子。院御養子)令入曼殊院室給(一乘寺村)。・・・・・
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『伏見宮日記』天保五年十一月二十八日
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『仙洞御所詰所日記』天保五年十一月廿八日
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『禁裏番衆所日記』天保五年十一月廿八日
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少外記平田家記録 H206-11
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『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
同年【天保五年】十一月廿八日 入寺改名譲仁法親王。
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天保五年(一八三四)十二月十日、大原三千院に赴き、梶井宮承眞親王より受戒。即夜、曼殊院に歸る。
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天保十三年(一八四二)六月二十七日、死亡。喪を發せず。
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『伏見宮日記』天保十三年六月廿七日
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『閑院宮日記』天保十三年六月廿七日
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『伏見宮日記』天保十三年六月廿八日
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天保十三年(一八四二)六月二十八日、二品に敍される。
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曼殊院所藏『讓仁親王叙品宣下始終之記』天保十三年六月廿七日
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曼殊院所藏『讓仁親王叙品宣下始終之記』天保十三年六月廿八日
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曼殊院所藏『讓仁親王叙品宣下始終之記』天保十三年六月廿九日
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曼殊院所藏『曼殊院文書』
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『閑院宮日記』天保十三年六月廿八日
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『閑院宮系譜』孝仁親王の子「王子(名慥(サタ)/母妾壽見)」
同【天保】十三壬寅年六月廿九日 二品宣下。
同日 薨 十九歳茅谷江葬。
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天保十三年(一八四二)六月二十九日「薨逝」(發喪)。
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『閑院宮日記』天保十三年六月廿九日
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『伏見宮日記』天保十三年六月廿九日
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『仙洞御所詰所日記』天保十三年六月廿九日
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『實麗卿記』天保十三年六月廿九日丙午
雨。今日、入道讓仁親王(曼殊院門主。閑院故孝仁親王子。光格天皇御養子)薨。依之三ヶ日廢朝。
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『平田職寅日次記』天保十三年六月廿九日丙午
陰リ不定、午後雷鳴雨下。
一、深更(實者、朔日之曉寅半剋)コ大寺殿より曼殊院宮【讓仁親王】薨去ニ付、自今廿九日到來月二日三ヶ日之間廢朝、女院御所三ヶ日被止物音候。觸状到來了(七月三日返上之)。
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『稿本仁孝天皇實録』九五八頁 天保十三年六月二十九日、「曼殊院宮讓仁親王ノ薨奏アリ、仍ツテ是日ヨリ三箇日間、廢朝仰セ出サル、」
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天保十三年(一八四二)七月五日、追號が「遠壽成院宮」と定められる。
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天保十三年(一八四二)七月六日、入棺。
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天保十三年(一八四二)七月九日、密葬。
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『閑院宮日記』天保十三年七月九日
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『伏見宮日記』天保十三年七月九日
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天保十三年(一八四二)七月二十日、葬送。茅ヶ溪の曼殊院宮墓地に埋葬。
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