前頁 「 常 [常名A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[常明]
 
フレームなし


常明親王 つねあきらのみこ
 もと
將明親王
 
【位階】
 四品
二品または三品とあるのは誤り。
稿本 醍醐天皇實録』 一〇四八頁〔按〕に、
又紹運録楓山本、吹上小本、古板本ニ二品トアリ、同書塙本、後陽成院本、彰考館本等ニハ三品トアレドモ、本條日本紀略【天慶七年十一月九日戊寅條】及ビ一代要記、皇代記、前田本帝王系圖等ハ四品ト爲ス、今附記シテ後考ニ備フ、
とある。
 
【官職】
 上野太守か
『本朝皇胤紹運録』等に刑部卿とあるが、これは、男子茂親の袖書が常明親王の尻付として誤記されたことによるか。
なお、『稿本 醍醐天皇實録』 一〇四八頁〔按〕に、
本朝皇胤紹運録、吹上本帝王系圖等ニ刑部卿トアレバ或ハ任官ノ事アリシニヤ、
とある。
 
【出自】
 醍醐天皇の第五親王。
 
【母】
 源朝臣和子
 女御。光孝天皇の女子。
類從本『本朝皇胤紹運録』「常明親王」尻付
本名將明。三品刑部卿。母女御和子。光孝女。
 
【經歴】
九〇六年(延喜六年)生。
將明親王
延喜八年(九〇八)四月五日、立親王。三歳
『一代要記』三「第六十醍醐天皇」皇子「常明親王」
『日本紀略』延喜八年四月五日
定男女親王。
常明親王
延喜十一年(九一一)十一月二十八日、「常明」と改名。
『日本紀略』延喜十一年十一月二十八日
皇太子崇象親王、改名保明。又第一將順親王、改名克明。第三將觀親王、改名代明。第四將保、爲重明。第五將明、爲常明。以第六式明・第七有明等、爲親王。又以皇女敏子・雅子・普子等、爲内親王。
延喜十八年(九一八)八月二十三日、初めて參内し、白褂一重を賜わる。
故實叢書本『西宮記』十一 裏書
同【延木】十八ー八−廿三ー、第五皇子、始參入。於中庭拜舞。召御前、賜白褂一重。下殿、拜舞、出。右大將・右衞門督・左兵衞督・左近中將恒佐朝臣、并殿上侍臣等、扈從皇子直廬。
延喜二十一年(九二一)十一月二十四日、清凉殿で元服。
『日本紀略』延喜二十一年十一月廿四日乙巳
今上童親王四人、第四重明、第五常明、第六式明、第七有明、於内裏加元服。
『三代御記逸文集成』所收『御記纂』七七〜七八頁所引『河海抄』所引『醍醐天皇御記』延喜廿一年十一月廿四日
於C凉殿元服 加冠右大臣。理髪右兵衞督藤兼茂朝臣。常明・有明等親王、同日元服。加冠右近大將藤定方卿。理髪右近中將藤【橘】公ョ朝臣。・・・・・
『御遊抄』「親王御元服」
『小右記』長和二年三月廿三日甲寅
四品に敍される。
承平六年三月十三日までに上野太守に任じられた、と推定されている。
『醍醐寺雜事記』所引『李部王記』承平六年三月十三日
稿本 醍醐天皇實録』 一〇四五頁〔按〕に、
本條醍醐寺雜事記所引李部王記ニ上野太守トアルハ、前後ノ諸皇子ノ官歴ヨリ察スルニ恐ラク常明親王ヲ指セルナルベシ、尚ホ皇子式明親王ノ項、承平元年九月二十九日ノ條ノ按文ヲ參照スベシ、
とある。
天慶二年(九三九)二月八日、太政大臣藤原朝臣忠平の發議により、兄弟たちと共に、朱雀院の庄田を醍醐寺三昧堂に施入。
『醍醐寺雜事記』所引『李部王記』承平八年十一月十三日
『醍醐寺雜事記』所引『李部王記』天慶二年二月七日
『醍醐寺雜事記』所引『李部王記』天慶二年二月八日
天慶七年(九四四)十一月九日薨。『一代要記』によると享年三十九歳。
『日本紀略』天慶七年十一月九日戊寅
四品常明親王薨。
前田家本『西宮記』六、十一月「中寅御鎭魂」裏書
天慶七年十一月九日、常明親王薨。
『一代要記』三「第六十醍醐天皇」皇子「常明親王」
四品。元将明。母女御和子、光孝源氏、號承香殿女御。延喜八年四月五日、爲親王、年三歳。天慶七年十一月九日薨。年三十九歳。
 
【配偶】
 藤原朝臣恒佐の女子。
類從本『本朝皇胤紹運録』常明親王の子「源茂親」尻付
從四上刑部卿。母恒佐右大臣女。
 
【子女】
茂親王のち源朝臣茂親
一條の君」を常明親王の女子とするのは、『大和物語』第三十八話に「先帝の五のみこ御むすめ、一條の君といひて」云々とあるのに基づくが、この「五のみこ」は貞平親王に比定されている。
源茂仁」なる子息があるとする説もあるが、根據に乏しい。
 
【逸事等】
元長親王が歌人「中務」のもとに住んでいたとき、「中務」は、手でもてあそぶために何やらの入った箱を下帶で結び、歸った時に空けようと思い、物の上にひょいと置いて外出したところ、常明親王に誘惑され、そのまま常明親王にもとに隱し住まわされてしまった。月日が久しく經った後、「中務」は家に歸り、その箱を元長親王に送ったが、その時に詠んだ歌が、『後撰和歌集』に載せられている。
『後撰和歌集』卷第十五、雜一、第一一〇四番歌
元長のみこのすみ侍ける時、てまさぐりに何入れて侍ける箱にかありけん、したおびしてゆひて、又こむ時にあけむとて、ものゝかみにさしをきて、いで侍にけるのち、つねあきらのみこにとりかくされて、月日ひさしく侍て、ありし家にかへりて、このはこをもとながのみこにをくるとて   中務
あけてだに何にかは見むみづのえのうらしまのこを思やりつゝ
『新 日本古典文学大系 6 後撰和歌集』(片桐洋一校注。岩波書店、一九九〇年四月)、三二八頁
 
【文獻等】
稿本 醍醐天皇實録』 一〇四二〜一〇四八頁 「皇子常明親王」
『大日本史料』第一編之八、四一一〜四一二頁、天慶七年十一月九日戊寅「醍醐天皇皇子四品常明親王薨ズ、」
C水正健『皇族考證』第參卷、百六十九〜百七十頁、百八十六頁
玉井力「つねあきらしんのう 常明親王」(『國史大辭典』第九巻(一九八八年九月第一版、吉川弘文館)、七九三頁)


 
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更新日時: 2010.01.16.
公開日時: 2009.02.13.

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