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『新撰姓氏録』左京皇別「豐國眞人」
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秋篠王は天平勝寶元年(七四九)十一月二十六日に、無位から從五位下に敍された。當時、三世王・四世王・五世王は「選敍令」によって無位より從五位下に敍されたので、秋篠王は三世王・四世王・五世王の何れかであったと考えられる。天平勝寶六年(七五四)閏十月十九日に秋篠王と共に丘基眞人を賜姓されたのは、秋篠王の子の世代の四人であるが、翌天平勝寶七歳(七五五)四月十八日に秋篠王と共に丘基眞人をあらためて豐國眞人を賜姓されたのは二十人である。半年足らずの間に丘基眞人の族人が十六人も増えたとは考え難い。この十六人のうちには、五世王の子(即ち六世)として王號を有していなかったため、賜姓丘基眞人の際に人數に擧げられなかったものが含まれると考えられる。彼らは、秋篠王の孫の世代であると推定されるので、世數を逆算すれば、秋篠王は四世王となる。秋篠王の祖と考えられる百濟王は、舒明天皇の兄弟として一世親王に列されたので、秋篠王は、百濟王の曾孫である可能性が高いと考えられる。 |
秋篠王 | ||||
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天平勝寶元年(七四九)十一月二十六日、無位より從五位下に敍される。
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天平勝寶六年(七五四)四月五日、少納言になる。
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丘基眞人秋篠 | ||||
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天平勝寶六年(七五四)閏十月十九日、丘基眞人を賜姓される。
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豐國眞人秋篠 | ||||
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天平勝寶七歳(七五五)四月十八日に丘基眞人から あらためて豐國眞人を賜姓される。
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天平寶字七年(七六三)正月九日、雅樂頭に任じられる。
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~護景雲二年(七六八)七月一日、石見守になる。
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~護景雲四年(七七〇)九月十六日、甲斐守になる。
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寶龜元年(七七〇)十月二十三日、治部大輔となる(甲斐守は元の如し)。
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佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇 第一、二〇六頁に、
豐國女王を見よ。 |
豐國眞人春竹
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『康富記』文安五年正月廿六日癸丑條所引の除目申文に「從七位上豐國宿禰頼富」と、『康富記』寶徳三年三月廿三日壬戌條所引の除目申文(庭田殿)に「豐國宿禰庶有」とある。共に作名の架空人物であると考えられる。 |
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竹内理三/山田英雄/平野邦雄編 『日本古代人名辭典』第一巻、63頁上「秋篠王」 |
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佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇 第一(吉川弘文館、昭和五十六年(一九八一)十二月第一刷) 二〇五〜二〇六頁 |
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