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一四五二年(寶コ四年)五月十七日生。
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『資u王記』文明十五年(歟)五月十七日條に「中將依生日祝有之」とあり、この「中將」とは源資氏のことであると考えられる。
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資氏王
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康正三年(一四五七)正月五日、正月敍位において、「四世無位」から從五位下に敍される(王氏爵)。
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宮内庁書陵部所藏『敍位除目女敍位文書一會』(513-98)[2] 叙位 叙【除】目 女叙位 一括 百十六葉 [41]
五位
・・・・・
四世無位
資氏王
・・・・・
康正三年正月五日
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曾根研三「改訂伯家家譜」に寛正六年十二月十四日に敍爵とあるが、誤りであろう。
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源朝臣資氏
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寛正六年(一四六五)十二月十四日、從五位上に敍される。十四歳。
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『歴名土代』從五位上
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
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應仁元年(一四六七)四月二十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕。
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『綱光公記』應仁元年四月廿五日庚申
リ。賀茂祭也、近衞使資冬(【傍訂】氏)、典侍四條前中納言沙汰立之。
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侍從となる。
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
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曾根研三「改訂伯家家譜」に寛正六年十二月十四日に任侍從とあるが、誤りであろう。
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文明二年(一四七〇)十月二十九日、正五位下に敍される。十九歳。
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『歴名土代』正五位下
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
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左近衞權少將となる。
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
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『親長卿記』文明七年正月二十五日
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文明七年(一四七五)正月二十三日、從四位下に敍される。二十四歳。
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『歴名土代』從四位下
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
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左近衞權中將となる。
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
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文明八年(一四七六)正月六日、從四位上に敍される。二十五歳。
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『歴名土代』從四位上
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
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文明十三年(一四八一)十一月十八日、正四位下に敍される。三十歳。
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『歴名土代』正四位下
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
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資氏王
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文明十六年(一四八四)六月二十日、~祇伯に任じられる。三十三歳。
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『歴名土代』從四位上
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
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『親長卿記』文明十六年六月二十一日條に「資氏朝臣」とあるが、誤りか。
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『親長卿記』文明十七年四月二十六日
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文明十七年(一四八五)九月十八日、山城國寶積寺が、文明十四年以來の「伯家」(伯中將家)による同寺領攝津國芥河の地の押領を、足利義政に訴えた。
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『蔭凉軒日録』文明十七年九月十五日
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『蔭凉軒日録』文明十七年九月十八日
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『蔭凉軒日録』文明十七年九月十九日
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『蔭凉軒日録』文明十七年九月廿三日
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『蔭凉軒日録』文明十七年十月四日
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『蔭凉軒日録』文明十七年十月十七日
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『蔭凉軒日録』文明十七年十月廿四日
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『大日本史料』第八編之十七 文明十七年九月十八日(丙寅)「山城寶積寺、~祇伯資氏王ノ同寺領攝津芥河ノ地ヲ違亂スルヲ義政ニ訴フ、」
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文明十七年(一四八五)、從三位に敍される(~祇伯はもとの如し)。三十四歳。
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『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
−−−叙位。寛正六十二十四從五上(十四才)。−−−侍從。文明二十廿九正五下(十九才)。同−−−左少將。同七正廿三從四位下(廿四才)。同−−左中將。同八正六從四上(廿五才)。同十三十一十八正四下(卅才)。同十六六廿~祇伯(卅三才)。同十七−−從三位(卅四才)。
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『公卿補任』文明十八年【一四八六】非參議從三位「資氏王(三十五)」
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『公卿補任』長享三年【一四八九】非參議從三位「資氏王(三十八)」
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文明十九年(一四八七)三月二十一日、直衣を聽許される。三十六歳。
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『御湯殿上日記』文明十九年三月廿一日
はく【資氏王】ちよくいはしめ【直衣始】。御さか月【盃】たふ。
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『宣秀五位藏人御ヘ書案』(『大日本史料』第八編之二十、一二一頁)
著直衣可令參内給者、依天氣上啓如件。
三月廿一日 左少將宣秀
謹上 伯三位殿 (勅許之由、民部卿【白川忠富】以折紙申送。參内云々)
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『大日本史料』第八編之二十 長享元年三月二十一日(辛酉)「~祇伯資氏王直衣始、」
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延コ二年(一四九〇)三月五日、攝津守護細川政元の下國に從い、攝津國に下る。
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延コ二年(一四九〇)四月初旬頃、西宮に於いて狂氣を發す。
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『實骭記』延コ二年四月八日庚寅
抑伯三位資氏卿狂氣以外事也云々。不可説事也。其間儀難盡筆舌。
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『後法興院記(政家公記)』延コ二年四月九日(辛卯)
傳聞。伯三位近日有狂氣躰云々。如今者不可人前之交云々。其間事難盡筆端。
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『蔭凉軒日録』延コ二年四月廿二日
謁三條御所。・・・・・ 又大館左衞門佐殿【尚氏】話云。伯三位殿就京兆【細川政元】下國之儀被下西宮。時催舟々遊興行之。伯云。「可乘~之舟」。~官地下衆云。「此舟者~之所被乘之御舟也。可被乘之事不可然」云々。伯云。「我已爲~之伯上者、~之事者可任我」云。乘彼舟浮海中。々々俄震動、彼浪如山。於爰伯公射浪頭者三四箭。乃波浪靜矣。及歸伯公狂亂。近日歸洛。宅中一衆皆離散。兩三輩殘護之。伯者官也。名字者白河也。
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『尋尊大僧正記』延コ二年四月廿四日
一、C賢法印・C圓・寛明・宗順參申。京都事物語共在之。伯三位犯【狂カ】亂以外子細云々。是併一向宗大谷與成縁不精故也。
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『實骭記』延コ二年六月五日丙戌
・・・・・ 入夜終百句功各分散。被召留勸修寺大納言【ヘ秀】、予【三條西實驕z兩人。伯卿事有被仰合之子細、不能記筆端矣。
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『後法興院記(政家公記)』延コ二年七月四日(乙卯)
傳聞。伯三位自去四月比有狂氣之躰、於于今者人前交不可叶云々。息【のちの雅業王】三歳云々。彼母堂一向宗息女云々。~職身混合汚穢不淨。今果如此云々。兩三日前以民部卿【白川忠富】被補~祇伯云々。
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延コ二年(一四九〇)六月三十日までに~祇伯を辭任。三十九歳。
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『公卿補任』延コ二年 非參議從三位「資氏王(三十九)」
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『實骭記』延コ二年七月三日甲寅
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『大日本史料』第八編之三十七 延コ二年六月三十日(辛亥)「是ヨリ先、~祇伯資氏王ヲ罷ム、是日、民部卿白川忠富ヲ以テ之ニ任ズ、」
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『公卿補任』では、~祇伯辭退後、王號を去って源姓に戻っているが、疑問あり。
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『公卿補任』延コ三年【一四九一】非參議從三位「(白川)源資氏(四十)」
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『公卿補任』明應六年【一四九七】非參議從三位「(白川)源資氏(四十六)」
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『公卿補任』明應七年【一四九八】非參議從三位「(白川)源資氏(四十七)」
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『公卿補任』明應九年【一五〇〇】非參議從三位「(白川)源資氏(四十九)」
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明應十年/文龜元年(一五〇一)か、出家。五十歳。
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永正元年(一五〇四)四月十五日、西宮に於て薨逝。五十三歳。
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『忠富王記』永正元年四月十六日
飛脚散所者、三位入道【資氏王】昨日初【卯カ】刻他界之由注進。言語道斷次第也。・・・・・
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『實骭記』永正元年四月十五日(戊寅)
抑前~祇伯資氏王、去十四日歟十五日歟逝去云々。生前【年】四十九才歟。不便々々。伯卿【忠富王】爲輕服。雅u一向無服假沙汰云々。是依爲忠富王子也。
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『公卿補任』明應十年 非參議從三位「(白川)△源資氏(四十九【ママ】)」
前~祇伯。永正元甲子四月十四【ママ】日卒。四十九【ママ】才云々。於西宮。
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