白川資氏


前頁 「 資 [資子A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[資氏]

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資氏王 すけうぢ
 
 もと源朝臣資氏
~祇伯辭任後、源朝臣資氏に戻ったとするのは誤りか。
 
【出自】
 
資u王の男子。
天文八年「後奈良天皇女房奉書」(曾根研三『伯家記録考』三〇一頁所收)
すけますの卿、そのこすけうち兩代
『親長卿記』延コ二年八月十八日
伯三位資氏(故資u卿子)
 
【官位】
 ~祇伯
 從三位
脇坂本・前田本・内閣文庫本『尊卑分脈』花山源氏「資u王」の子「資氏王」
伯。從三
永正元四十四【ママ】於西宮卒(四十九【ママ】)
 
【經歴】
一四五二年(寶コ四年)五月十七日生。
『資u王記』文明十五年(歟)五月十七日條に「中將依生日祝有之」とあり、この「中將」とは源資氏のことであると考えられる。
資氏王
康正三年(一四五七)正月五日、正月敍位において、「四世無位」から從五位下に敍される(王氏爵)。
宮内庁書陵部所藏『敍位除目女敍位文書一會』(513-98)[2] 叙位 叙【除】目 女叙位 一括 百十六葉 [41]
五位
 ・・・・・
四世無位
  資氏王
・・・・・
  康正三年正月五日
曾根研三「改訂伯家家譜」に寛正六年十二月十四日に敍爵とあるが、誤りであろう。
源朝臣資氏
寛正六年(一四六五)十二月十四日、從五位上に敍される。十四歳。
『歴名土代』從五位上
源資氏 (同【寛正】六十二十四)。
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
應仁元年(一四六七)四月二十五日、賀茂祭の近衞使を勤仕。
『綱光公記』應仁元年四月廿五日庚申
リ。賀茂祭也、近衞使資(【傍訂】氏)、典侍四條前中納言沙汰立之。
侍從となる。
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
曾根研三「改訂伯家家譜」に寛正六年十二月十四日に任侍從とあるが、誤りであろう。
文明二年(一四七〇)十月二十九日、正五位下に敍される。十九歳。
『歴名土代』正五位下
源資氏(イ成) (同【文明】二十廿九)。
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
左近衞權少將となる。
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
『親長卿記』文明七年正月二十五日
伯少將資氏
文明七年(一四七五)正月二十三日、從四位下に敍される。二十四歳。
『歴名土代』從四位下
源資氏 (同【文明】七正廿三)。
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
左近衞權中將となる。
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
文明八年(一四七六)正月六日、從四位上に敍される。二十五歳。
『歴名土代』從四位上
源資氏 (同【文明】八正六。同十六六廿~祇伯)。
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
文明十三年(一四八一)十一月十八日、正四位下に敍される。三十歳。
『歴名土代』正四位下
源資氏 (同【文明】十三「十一」十八)。
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
資氏王
文明十六年(一四八四)六月二十日、~祇伯に任じられる。三十三歳。
『歴名土代』從四位上
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
『親長卿記』文明十六年六月二十一日條に「資氏朝臣」とあるが、誤りか。
『親長卿記』文明十七年四月二十六日
資氏王
文明十七年(一四八五)九月十八日、山城國寶積寺が、文明十四年以來の「伯家」(伯中將家)による同寺領攝津國芥河の地の押領を、足利義政に訴えた。
『蔭凉軒日録』文明十七年九月十五日
『蔭凉軒日録』文明十七年九月十八日
『蔭凉軒日録』文明十七年九月十九日
『蔭凉軒日録』文明十七年九月廿三日
『蔭凉軒日録』文明十七年十月四日
『蔭凉軒日録』文明十七年十月十七日
『蔭凉軒日録』文明十七年十月廿四日
『大日本史料』第八編之十七 文明十七年九月十八日(丙寅)「山城寶積寺、~祇伯資氏王ノ同寺領攝津芥河ノ地ヲ違亂スルヲ義政ニ訴フ、」
文明十七年(一四八五)、從三位に敍される(~祇伯はもとの如し)。三十四歳。
『公卿補任』文明十七年 非參議從三位「資氏王(三十四)」
月日叙。~祇伯如元。
故正二位資u王男。[母]。
−−−叙位。寛正六十二十四從五上(十四才)。−−−侍從。文明二十廿九正五下(十九才)。同−−−左少將。同七正廿三從四位下(廿四才)。同−−左中將。同八正六從四上(廿五才)。同十三十一十八正四下(卅才)。同十六六廿~祇伯(卅三才)。同十七−−從三位(卅四才)。
『公卿補任』文明十八年【一四八六】非參議從三位「資氏王(三十五)」
~祇伯
『公卿補任』長享三年【一四八九】非參議從三位「資氏王(三十八)」
~祇伯
文明十九年(一四八七)三月二十一日、直衣を聽許される。三十六歳。
『御湯殿上日記』文明十九年三月廿一日
はく【資氏王】ちよくいはしめ【直衣始】。御さか月【盃】たふ。
『宣秀五位藏人御ヘ書案』(『大日本史料』第八編之二十、一二一頁)
著直衣可令參内給者、依天氣上啓如件。
    三月廿一日           左少將宣秀
  謹上 伯三位殿 (勅許之由、民部卿【白川忠富】以折紙申送。參内云々)
『大日本史料』第八編之二十 長享元年三月二十一日(辛酉)「~祇伯資氏王直衣始、」
延コ二年(一四九〇)三月五日、攝津守護細川政元の下國に從い、攝津國に下る。
延コ二年(一四九〇)四月初旬頃、西宮に於いて狂氣を發す。
『實骭記』延コ二年四月八日庚寅
抑伯三位資氏卿狂氣以外事也云々。不可説事也。其間儀難盡筆舌。
『後法興院記(政家公記)』延コ二年四月九日(辛卯)
傳聞。伯三位近日有狂氣躰云々。如今者不可人前之交云々。其間事難盡筆端。
『蔭凉軒日録』延コ二年四月廿二日
謁三條御所。・・・・・ 又大館左衞門佐殿【尚氏】話云。伯三位殿就京兆【細川政元】下國之儀被下西宮。時催舟々遊興行之。伯云。「可乘~之舟」。~官地下衆云。「此舟者~之所被乘之御舟也。可被乘之事不可然」云々。伯云。「我已爲~之伯上者、~之事者可任我」云。乘彼舟浮海中。々々俄震動、彼浪如山。於爰伯公射浪頭者三四箭。乃波浪靜矣。及歸伯公狂亂。近日歸洛。宅中一衆皆離散。兩三輩殘護之。伯者官也。名字者白河也。
『尋尊大僧正記』延コ二年四月廿四日
一、C賢法印・C圓・寛明・宗順參申。京都事物語共在之。伯三位犯【狂カ】亂以外子細云々。是併一向宗大谷與成縁不精故也。
『實骭記』延コ二年六月五日丙戌
・・・・・ 入夜終百句功各分散。被召留勸修寺大納言【ヘ秀】、予【三條西實驕z兩人。伯卿事有被仰合之子細、不能記筆端矣。
『後法興院記(政家公記)』延コ二年七月四日(乙卯)
傳聞。伯三位自去四月比有狂氣之躰、於于今者人前交不可叶云々。息【のちの雅業王】三歳云々。彼母堂一向宗息女云々。~職身混合汚穢不淨。今果如此云々。兩三日前以民部卿【白川忠富】被補~祇伯云々。
延コ二年(一四九〇)六月三十日までに~祇伯を辭任。三十九歳。
『公卿補任』延コ二年 非參議從三位「資氏王(三十九)」
~祇伯。[月日辭伯【山本】]。
『實骭記』延コ二年七月三日甲寅
伯卿(忠富王。去卅日補之云々)
『大日本史料』第八編之三十七 延コ二年六月三十日(辛亥)「是ヨリ先、~祇伯資氏王ヲ罷ム、是日、民部卿白川忠富ヲ以テ之ニ任ズ、」
『公卿補任』では、~祇伯辭退後、王號を去って源姓に戻っているが、疑問あり。
『公卿補任』延コ三年【一四九一】非參議從三位「(白川)源資氏(四十)」
『公卿補任』明應六年【一四九七】非參議從三位「(白川)源資氏(四十六)」
『公卿補任』明應七年【一四九八】非參議從三位「(白川)源資氏(四十七)」
前~祇伯【や无】。
『公卿補任』明應九年【一五〇〇】非參議從三位「(白川)源資氏(四十九)」
前~祇伯【や无】。
明應十年/文龜元年(一五〇一)か、出家。五十歳。
永正元年(一五〇四)四月十五日、西宮に於て薨逝。五十三歳。
『忠富王記』永正元年四月十六日
飛脚散所者、三位入道【資氏王】昨日初【卯カ】刻他界之由注進。言語道斷次第也。・・・・・
『實骭記』永正元年四月十五日(戊寅)
抑前~祇伯資氏王、去十四日歟十五日歟逝去云々。生前【年】四十九才歟。不便々々。伯卿【忠富王】爲輕服。雅u一向無服假沙汰云々。是依爲忠富王子也。
『公卿補任』明應十年 非參議從三位「(白川)△源資氏(四十九【ママ】)」
前~祇伯。永正元甲子四月十四【ママ】日卒。四十九【ママ】才云々。於西宮。
 
【配偶】
 法祐心/祐心
 「北向」
 蓮如の女子。
 母は、三信院蓮祐尼(下總守平貞房の女子)
 延コ二年(一四九〇)閏八月十二日歿。享年二十九歳または二十八歳。
『實骭記』延コ二年閏八月十二日壬戌
抑前伯三位資氏卿妻今日逝去。産後痢病也。生年廿九才云々。不便々々。
『尊卑分脈』藤原氏 内麿公孫 本願寺、兼壽(蓮如)の子
女子(~祇伯資氏王室。母。法祐心。雅業王母)
龍谷大學本『本願寺系圖』兼壽(蓮如)の子
女子(~祇伯前從三位資氏王室。雅業王母。號北向。法名祐心。延コ二(甲戌)閏八十二卒。廿八歳)
 
工事中 【子女】
【僧】眞永
 東寺寶全院
雅業王
 ~祇伯
 もと雅u王源朝臣雅u源朝臣雅業
 忠富王の猶子。忠富王の女子を娶る。
【興行寺康惠の室】
【專修寺顯譽の室】
【尼】妙惠
 光善寺兼珍の養子。
 興正寺蓮秀の室。
 
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更新日時: 2020.05.31.
公開日時: 2015.12.07.


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