白川資訓
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天保十二年(一八四一)十一月十五日誕生。幼名「是方麿」。 | |||||||||||||||||||||
源朝臣資訓 | ||||||||||||||||||||||
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弘化二年(一八四五)十二月三日、從五位下に敍される。五歳。
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嘉永二年(一八四九)三月二十九日、元服。昇殿を聽許され、從五位上に敍される。九歳。
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資訓王 | ||||||||||||||||||||||
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嘉永四年(一八五一)九月十四日、~祇伯に任じられる。十一歳。 ※ 嘉永五年十月二十七日、拜賀。
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嘉永四年(一八五一)九月十七日、服忌(父)。
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嘉永四年(一八五一)十一月二十三日、除服、出仕、復任。 | |||||||||||||||||||||
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嘉永五年(一八五二)十月二十四日、正五位下に敍される。十二歳。
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安政元年(一八五四)十二月十八日、侍從を兼任。十四歳。 | |||||||||||||||||||||
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安政二年(一八五五)二月十七日、從四位下に敍される。十五歳。 | |||||||||||||||||||||
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安政二年(一八五五)二月二十三日、伊勢一社奉幣使(攘夷祈願)の使王を勤仕。
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安政四年(一八五七)四月二十四日、服解、出仕(姉)。 ※ 姉の祁子女王が四月三日に卒去。
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安政四年(一八五七)五月十五日、右近衛權少將に任じられる(神祇伯はもとの如し)。十七歳。 ※ 六月二十三日、拜賀。
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安政五年(一八五八)二月二十二日、從四位上に敍される。十八歳。
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安政六年(一八五九)七月二十六日、惡疫流行のため、孝明天皇の命により、御所において鳴弦の法を行う。
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萬延二年(一八六一)正月五日、正四位下に敍される。二十一歳。
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文久元年(一八六一)五月九日、伊勢臨時奉幣使の使王を勤仕。
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元治元年(一八六四)八月二十九日、右近衛權中將に轉任する(~祇伯は元の如し)。二十四歳。 ※ 十月七日、拜賀。 | |||||||||||||||||||||
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元治元年(一八六四)十一月二十三日、從三位に敍される(神祇伯はもとの如し)。二十四歳。
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慶應元年(一八六五)十一月二十八日、直衣を聽許される(推免)。二十五歳。 ※ 内侍所渡御勤仕賞。
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慶應三年(一八六七)十月二十日、奉戴~祇委任。二十七歳。
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慶應四年(一八六八)一月十七日(イ二月二十日)、參與に任じられ、~祇事務總督に任じられる。二十八歳。 | |||||||||||||||||||||
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慶應四年(一八六八)二月二十七日、議定に昇進し、~祇事務督に任じられる。 | |||||||||||||||||||||
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慶應四年(一八六八)三月二十日、正三位に昇敍。二十八歳。 | |||||||||||||||||||||
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慶應四年(一八六八)三月二十七日、~社執奏支配を停止させられる。 | |||||||||||||||||||||
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慶應四年(一八六八)閏四月二十一日、三職(總裁・議定・參與)が廢止となる。 | |||||||||||||||||||||
源朝臣資訓 | ||||||||||||||||||||||
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明治二年(一八六九)六月一日、官制改革により~祇伯職を失い、王號を停止。二十九歳。 | |||||||||||||||||||||
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明治二年(一八六九)七月八日、~祇大副に任じられる。 | |||||||||||||||||||||
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明治三年(一八七〇)十二月十日、東京府貫屬となり、家祿現米二百六十九石二斗を賜わる。 | |||||||||||||||||||||
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明治三年(一八七〇)十二月二十七日、~祇大副を免じられ、~祇官出仕を命じられる。三十歳。 | |||||||||||||||||||||
白川資訓 | ||||||||||||||||||||||
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明治十七年(一八八四)七月八日、子爵を授けられる。四十四歳。 | |||||||||||||||||||||
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明治三十三年(一九〇〇)十二月七日、從三位に敍される。六十歳。 | |||||||||||||||||||||
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明治三十九年(一九〇六)十二月七日、薨逝。六十六歳。 |
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源朝臣雅敬 のち源朝臣雅好 實は資敬王の男子。資訓王の弟。 |
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[源朝臣]幸子 明治三年(一八七〇)六月六日歿。 |
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白川資長 しらかは/しらかわ すけなが 子爵 もと「是方麿」、白川是方麿 母は山内豐樹の女子、實は家女房。 明治三年(一八七〇)十二月二十八日生。 明治二十九年(一八九六)九月二十一日、從五位に敍される。 明治三十九年(一九〇六)十月一日、正五位に敍される。 明治三十九年(一九〇六)十二月二十四日、子爵を襲爵。 昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族(子爵)の身位を喪失。 昭和三十四年(一九五九)六月九日歿。 上野正雄の四男 白川久雄を養子とするが、白川久雄は、昭和二十九年(一九五四)六月、離縁。 白川資長の妻 白川リウが昭和四十四年(一九六九)十月三日に歿し、白川家は斷絶。 |
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白川縫子 のち篠田縫子 きぬこ 母は家女房。 明治八年(一八七五)五月二十二日生。 篠田宮之助の妻。 昭和二十九年(一九五四)二月、歿。 |
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『資訓記』(『資訓王記』)二十九册 安政六年(一八五九)〜明治二十四年(一八九一)
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平田篤胤の門下で、幕末の尊王攘夷運動家、勤王報国の精神を詠じた歌人、佐久良東雄(さくら あずまお)(文化八年(一八一一)三月二十一日、常陸国新治郡浦須村で土浦藩の郷士の子として出生。本名は飯島吉兵衞。常陸國眞鍋村(現 土浦市)善應寺住職。法名は良哉。還俗。大坂坐摩~社~官。通称「靱負」「靜馬」等。号「薑園」。櫻田門外の變に連座し、萬延元年(一八六〇)六月二十七日、傳馬町獄中で絶食死。歌集『薑園集』)は、資訓王より伯家~道を學んだ。 |
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『資訓元服一件留』(嘉永二己酉年三月、是方麿樣御元服一件留)
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曾根研三「改訂伯家家譜」(曾根研三『伯家記録考』附録) | ||
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曾根研三「増補訂正伯家系譜」(曾根研三『伯家記録考』附録) | ||
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『平成新修 旧華族家系大成 上巻』 763頁 | ||
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『昭和新修 華族家系大成 上巻』 708頁 |
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