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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[恆正]

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恆正王 つねただ
 のち竹田恆正 たけだ つねただ
 
【出自】
 
恒コ王[竹田宮](のち竹田恆コ)の一男。
 
【母】
 光子[恒コ王妃] のち竹田光子
 三條公輝の二女。
 
【經歴】
昭和十五年(一九四〇)十月十一日、生誕。
『官報』第四一三二號 昭和十五年十月十二日 告示
○宮内省告示第二十五號
恒コ王妃光子殿下本日午後一時五十五分東
京府東京市芝區高輪南町十七番地竹田宮邸
ニ於テ御分娩王御誕生アラセラル
 昭和十五年十月十一日
        宮内大臣 松平 恒雄
竹田恒徳『菊と星と五輪』 一〇一〜一〇二頁
十月十一日に長男恒正つねただが誕生した。母【昌子内親王】は孫の誕生をとても楽しみにしていたのに間に合わなかった。実に残念でならない。その日は皇紀二千六百年を祝う大観艦式の日だった。陛下のお供をしてお召し艦比叡ひえいに乗って横浜沖にいた私【恒コ王】は、行事が終わって波止場に上陸したところで、“長男誕生”の嬉しい知らせを受けた。
 まわりにいた多くの方々から温かく祝福され、特に海軍の人々からは「観艦式の日のご誕生だから、将来ぜひ海軍に ・・・・・」と口々に希望され、後でわざわざそのことを家まで頼みに来た人もあった。皇族の嗣子は軍人になる内規であったが、陸海軍のいずれを選ぶかは自由だった。しかし普通は陸軍の子は陸軍なのに「さて、どうしたものか」と気にしたものだが、恒正が成長した時には、時世が一変して平和になり、陸軍も海軍もなくなって、その懸念は吹っ飛んでしまった。
恆正王
昭和十五年(一九四〇)十月十七日、「恆正(ツネタダ)」と命名される。
『官報』第四一三七號 昭和十五年十月二十一日 告示
○宮内省告示第二十七號
本月十一日誕生セラレタル恒コ王殿下ノ第
一男子名ヲ恒正ツネタダ【ママ】ト命セラル
 昭和十五年十月十七日
        宮内大臣 松平 恒雄
竹田恆正
昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇族の身分を離れる
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示
○宮内府告示第十六号
 恒憲王妃敏子、邦壽王、治憲王、章
憲王、文憲王、宗憲王、健憲王、邦昭
王、朝建王、朝宏王、朝子女王、通子
女王、英子女王、典子女王、守正王妃
伊都子、孚彦王、孚彦王妃千賀子、誠
彦王、冨久子女王、美乃子女王、稔彦
王妃聰子内親王、盛厚王、盛厚王妃成子
内親王、信彦王、文子女王、俊彦王、
恒コ王妃光子、恆正王、恆治王、素子
女王、紀子女王及び春仁王妃直子各殿
下は、皇室典範第十三條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
慶應義塾大学を卒業、三菱商事に入社。
竹田恒徳『菊と星と五輪』 一九三頁
長男【恆正】は慶応義塾大学を卒業すると、三菱商事に入社し、まもなく西独のデュッセルドルフに派遣され五年ほどそこにいたが、帰国すると将来のためにぜひ外国の大学でもう一度勉強したいと言い出し、自費でアメリカのMITの大学院に留学した。
東京ゴルフ倶楽部 理事長・代表
 (※ http://www.kga.gr.jp/club/ClubDel.php?no=154)
日本ゴルフ協会(Japan Golf Association)副会長
 (※ http://www.jga.or.jp/jga/html/about_jga/officers.html)
 
【配偶】
 竹田恭子 たけだ きょうこ
 もと根津恭子
 根津嘉一郎(東武鐵道社長)の三女。
 
【子女】
 竹田浩子 たけだ ひろこ
 竹田恒貴 たけだ つねたか
 
【逸事等】
竹田恒徳『菊と星と五輪』 一九三頁に、
長男【恆正】は私【恒徳】と同じように学習院初等科に入れたが、卒業する時になって、どうしても慶応に入りたいと言い出し、「入試に落ちたら学習院には戻れないよ」と忠告したが、とうとう試験を受けて入ってしまった。
とある。
 
【著述等】
竹田恆正「昭和天皇のゴルフ史」(『日本経済新聞』2007年4月26日、40面)
 
【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 四〇頁


 
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更新日時: 2011.07.08.
公開日時: 2007.10.19.


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